天満月、毒林檎を君へ

いかみ ちまき

第1話:日常と突然の終わり

 神様が創った広大な世界の中で、たった二人きりの人間は禁断の果実を食べたという。

 その果実は、人間に羞恥心を与え、知恵を与え、欲望を与えた。そして、偶然にも人類は出来上がり、繁栄していった。


 果たして、『知恵の実』ともいわれるその果実は——人類の進化は本当に正しかったのだろうか。その果実は、あるいは毒林檎だったのではないだろうか。


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 ある夏の日。眩しいほどの陽光が路面を焦がしていた。

 街中に広がる熱気は今もなお膨らみ続けている。


 街を行き交う住人たちはそれぞれの目的地へと歩いている。行き先は、取引先だろうか、あるいは涼しさを求めて木陰を探しているのだろうか。


 それぞれを取り巻く世界での日常が今日もまた、続いていくのだろう。

 それは、俺、ノア・アルバートにとっても同様のことで、当然のことだった。


 この歳になると、家族旅行というものが面倒になる。

 我が家にとってあまり頻度の高くないその行事だが、十七歳の俺にとってそれは別段嬉しくもなんともないものだった。


 親としてはどう思っているのかは分からないが、子どもとしてはそういうものだと認識している。


「黄金色の水仙だって。こんなに自然豊かで綺麗な場所を今から実際に見ることが出来るなんて! すっごく楽しみね!」


 訂正。隣に座った妹にとってはそれはとても嬉しいもののようで、先ほどから、ガイドブック片手に、はしゃぎ倒していた。


「ふふ、とてもロマンチックな場所よね」


 妹は、開いた冊子を俺の方へ向けると、うさぎの絵本だの、ロマン派詩人がどうのだと熱弁してくる。

 妹の言う通り、そういったもので有名な土地らしいが、生憎そういうロマンチックなものはむしろ苦手なのだ。


「シャロ、ちょっとはしゃぎすぎじゃないのか? もういい歳なんだからさ。まったく」


 興奮冷めやらぬ、といった様子の妹——シャーロットへ悪態をついた。あまりはしゃぎすぎて父の運転の邪魔になってもいけない。

 あくまでも、兄として妹の教育の一環として注意を促したのだ。


「だって楽しみなんだもの。ふんっ」


 そう言ったシャーロットは唇を尖らせ拗ねた顔をすると、ぷいと顔を逸らした。

 十五歳になったとはいえ、まだまだ子どもだ。この姿を見れば、普段落ち着き払っているとは到底思えまい。


 とはいえ、行く先が歴史ある古城であったなら、妹と俺の立場が逆転していたかもしれない。はしゃぎ倒すような醜態は晒さないだろうが。


 一瞬だけそう思うが、この妹なら例え城でも塔でも、あるいは廃墟でも、どこであろうがお構いなしに楽しむのであろう。そういう性分だ。

 本当に羨ましい性質だと思う。

 あるいは、単純に俺がひねくれているだけなのかもしれない。


 父が運転する車に揺られながら、仕方なしに外を見ていると、運転席から茶化したような声が聞こえてきた。


「ノア、お前ももう十七だろ。そろそろ彼女の一つでもできたんじゃないか?」


 父がこういう話を好むのは元々だが、最近はそれを少々鬱陶しく感じてしまう。反抗期ってやつが俺にも来たのかもしれない。


「いねえよ。知ってて言ってるだろ」


 そういった思いもあり、つい語調がきつくなってしまった。すこし、照れもあった。

 刺々しい言葉を聞いて、妹が抑えた声で笑いだした。どうやら機嫌は直ったらしい。


「ふふ。こわーい! 兄さんたら、すぐに怒るんだから」


「そうだぞ、ノア! シャロの言うとおりだ。そうだな、お前はたぶんカルシウムが足りてないと思うな……。身長がなかなか伸びないのも、牛乳嫌いのせいか?」


「だめよ、父さん。兄さん、身長が伸びないこと結構気にしてるんだから……」


 父と妹による、余計なお世話と茶番劇が始まってしまった。

 多少とはいえ、気にしている部分ではあったので、少し居心地が悪くなってしまった。


「おお、そうだったか! すまんすまん。でもな、ノア。お前は父さんに似ているから、そのうち母さんみたいな美人を捕まえられるさ。今はタイミングが合わないだけさ!」


「そうだね。兄さんなら大丈夫だと思うわ。でも、ちゃんと私がこの人ならいいって人じゃなきゃだめよ。兄さんは家事が苦手だから……家事が得意な人じゃなきゃね。例えば、私みたいな?」


 シャーロットは煌めく瞳にいたずら心を秘め、嬉しそうにこちらを見てほほ笑んだ。

 一方的に妹が俺のことを慕っているおかげもあり、意外にも兄妹仲は良好なのだ。別に妹はブラコン……ではないと思う。


「まったく、二人ともあんまりノアをからかわないの。困ってるわよ。ただでさえ気難しい年ごろなのに。ねえ?」


 変わらず茶番劇を続ける二人を交互に見て、母は顔をしかめた。その表情には多少の厳しさはあるものの、浮かべているのは不快感を示すものではなかった。俺はそれを母としての規律に準ずるという意思を示すものなのだろうと感じた。

 とはいえ、口元は少し緩んでいた。本音では二人の会話に混ざりたいのだろうが、それを自身の理想の母親像が制しているのだろう。

 母親という立場も大変だ。


 放っておくと、俺を置いていつまでも話が勝手に展開されていきそうだ。

 呆れ半分で反論しようとした矢先、霧が深く立ちこみはじめた。

 まるでタイミングを計ったような霧の出現に、俺は反論のタイミングを奪われてしまったように感じた。


「あら、嫌ねえ」


だんだん視界が白っぽくなり、霧が周囲を包み込んでいった。厚さを増していく霧の中で、助手席に座っている母は不安げに周囲を見回していた。

 周辺状況を確認し、安全な道を見つけ出そうとしているのだろう。


 白い霧は確実に視界を奪っていき、道路の輪郭や周辺の景色がぼんやりとしか見えなくなってしまった。


 父はため息をついた。不安がにじみ出ているようなため息だった。ハンドルを握っている者の責任として――あるいは一家の長としての責任からか、霧に覆われた状況に対して、父も心を重くしているのだろう。

 もしくは、この状況をもたらしたこの街へだろうか。


「また霧だ。自然のことだから仕方ないことだけど、最近多いよね」


 父のため息に合わせるかのように俺の口からもため息がもれ出た。


「ほんと。霧ばっかり嫌ね」


「運転してても前があんまり見えないからなぁ」


 家族の皆は、それぞれ俺の意見に同調するかのように霧への不快感を示した。

 この街ではこういったことがしばしば起こる。土地柄ということで、仕方のないことだと思うしかないのだが。


 そんなことを考えていると、ふと視界が翳るのを感じた。霧の白さではなく、まるで影が落ちてきたような——。

 突然の違和感に俺はサイドガラスの外を見た。

 ガシャン。

 外を見るのと同時に、車内に大きな衝撃が走った。


 大きな音とともに突然の振動や衝撃が車体を揺さぶり、妹のものか母のものかもわからない甲高い悲鳴が聞こえた。

 何が起きているのか。現状を知覚するよりも先に体のあちこちが痛みを訴えていた。


「っ……」


 どこもかしこも痛かったが、特に左腕は燃えるかのような激しい痛みを訴えている。その痛みは鋭く、まるで炎に包まれたかのように感じられた。

 ともすれば、左手の痛みは突然感じなくなった。いや、きっと麻痺してしまったのだろう。

 左の痛みは感じなくなったが、代わりに全身の痛みは徐々に増していった。痛みのせいで俺の思考は錯乱していった。

 状況把握に集中することも易くない程に。

 この状況を理解する為にも、冷静になるように、自身に落ち着けと言い聞かせる。

 

 身体は動かない。視線を巡らせ、周囲を観察しようと試みるも車内まで侵入してきた霧のせいで良く見えなかった。

 視覚がだめならと、嗅覚に訴えかけてみる。嫌な匂いがした。

 まず、何かが焼けているような焦げ臭い匂いがした。

それから、生臭い鉄の混じったような匂いだ。どこかで嗅いだことのあるような——そう、オイルのような。


 いやな想像に思わず目をつむっていた。

 少し冷静になってきた証拠だろうか、右手が動かせているのを感じた。今度は右手を使い、手探りで状況の把握にあたる。

 右側にはプラスチックのような硬い感触があった。おそらく車のドアの内側だろう。

 そして、左側。妹が居たはずのその方向には、生暖かいぬるりとした感触があった。

 先ほど嗅いだ匂いが漏れ出たガソリンだとすれば、それなのだろうか。だとすれば発火するのも時間の問題だろうと、俺に焦りを与えた。


 手探りで状況把握を進めていると、やがて突き刺すような目の痛みを覚え、俺は激しく咳き込んだ。

 煙だ。霧だと思っていたものに黒煙が混じっていたのだ。錯乱していたのもあり、気づけなかった。

 黒煙の比率が増していった結果、含有される微粒子が目や喉に入ってきたのだろう。


 いよいよもってこれはまずい。

 意識は薄れつつある。頭の中では『死』という単語が顔を覗かせていた。


 そういえば、既に発火していたのならば、先ほどガソリンだと感じていたあの液体は何だったのだろうか。謎めいた液体が俺の心を揺さぶるが、それももうどうでもいいことか。

 脳内では先ほどまで茶化すように笑いあっていた三人の姿が浮かび上がっていた。

 その笑顔やいたずらっぽい眼差しは、まるで幻のように繰り返し俺の心に映し出されていた。これが走馬灯と言うやつだろうか。


 『死』がすぐそこで手招きしているのを背中で感じた。まるでおいでと言っているような感じさえした。

 ——その瞬間、俺の意識は突然途切れてしまった。思考が一時的に中断され心の中は静寂に包まれた。

 突然テレビの電源が切れたような。それはまるで無の極地だった。

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