第12話
通算三通目のメッセージを送り、そのどれも既読が付かないことが不満で、私は鼻を鳴らした。来週末、飛べそうな天気だと伝えようと思ったのに。ジェット、忙しいのかしら。私の連絡を無視するとは良い度胸してるじゃない。
「どうせ暇なんでしょ……見なさいよ」
不真面目大学生の癖して、メッセージのひとつも見る暇がないなんてことはないはずだ。大方、私の連絡を何か面倒だとか億劫だとかそういう風に思っているのかもしれない。
仕方ないか。だって彼は普通の大学生。普通の、五体満足で自分の意志で好きな所に行ける、自由な人間。交友関係とか全く把握していないけれど、ゼミとかバイトとか、私が知らないだけで所属している何かがあるのかもしれない。きっと大学に友達だっているだろう。もしかしたら――恋人だって。楽しそうな人達に囲まれる未だ見ぬジェットの姿を想像して、ほんの少しだけ胸に隙間風が差し込んだみたいに心が冷えた。
そこまで考えて、いかんいかんと頭を振った。無意識に彼を束縛するストーカーみたいになっている。付き合ってもない癖に、ましてや本名すら知らない癖に。
彼の人生は彼の物だ。私なんかがどうこう口を出していいものではない。私は彼の趣味のほんの一端を陰で支えられれば、それでいいはずだ。ジェットの人生は、その先も私抜きで続いていくんだから。
「……あーもう、考えるのやめやめ!」
鬱屈してきた思考を振り払うように、携帯をシーツの海に放る。もう向こう二日は放置してやる。その間のこのこ電話をかけてきたら、その時はわざと出ないであげよう、なんて意地悪な思いが芽生えた。
そこで、真っ白な引き戸がからりと開いた。
「ゆーりやちゃーん」
壁時計を見れば、もう二時。シーシャの時間だ。
「相変わらず今日も時間通りね、シーシャ」
「うふふ、楽しみだったあ?」
電動車椅子の少女の笑顔に毒気を抜かれ、思わず笑ってしまう。
「今日はねえ……じゃじゃーん。作文を持ってきましたー」
「今日も宿題ね……」
傍にやってきた彼女がひらひらと振っているのは、四角いマスが並んだ、四百字詰めの原稿用紙だ。ニット帽の頭を掻いて、シーシャは難しそうな顔をしている。
「何書いていいか分かんなあい。百合也ちゃんと一緒に書くー」
「作文の宿題なんて出るのね……あ、そうか。世間の小学生は夏休みか」
長期間入院していると日付や曜日の感覚が薄れ、今何月だとか咄嗟に出て来なくなるのだが、そういえばもう八月に入ったんだった。こうも毎日彼女が宿題を持ってくるのも、夏休みの宿題に奮闘しているからかもしれない。私も上手く手伝わされたものだ、と半ば呆れる。
「テーマは何なのよ」
「んう? 『将来の夢』だってえ」
その言葉に、原稿用紙を受け取る手がぴくりと震えた。長期入院をする患者に対し、希望を持たせるような内容だ。辛く終わりの見えない治療を受ける小児患者達にとって、胸に秘めた想いを語り合うことはこの上ない光になろう。
しかし私のような、完治の見込みなくベッドに縛られている人間にとっては酷だ。叶わないと分かっている夢を語れだなんて。もっとも、
強張った表情を悟られないようにひとつ咳払いをして、一マス目からでかでかと書かれた『しょう来のゆめ』の文字を指す。
「……題名の前は二マス空けるのよ。書き直しなさい」
「はあい」
言われた通りに、題名を消しゴムで擦るシーシャ。力いっぱい書いた文字は少しの跡を残して概ね綺麗に消えた。
「名前は題名の次の行に。下から逆さまに書くと分かりやすいわ。苗字と名前の間に一マス、名前の後に一マス空けないといけないから」
「うい」
題名を書き終えた彼女は、しかし氏名欄には手を付けなかった。顔を見れば、なぜか恥ずかしそうにはにかんでいる。そういえば、本名って聞いたことないな。
「ねえ、なんであんたは自分のことをシーシャって言うの? 名前は?」
「んえ? 名前あるよお。でもね、シーシャの方がすき。気に入ってるの」
渾名ってことか。それにしても、小学四年生が名乗るには渋すぎないだろうか。
「どこで覚えたのよ、そんな単語」
「シーシャねえ、動画で見たの。こう、頭に布巻いた外国の人が、細いパイプを咥えてぷかぷか煙吐くの。それがシーシャっていって、なんかね、リンゴとかお花の香りとかいろいろあって……甘くて良い香りがするんだってえ」
シーシャはふうっと煙を吐く真似をした。水煙草がどんなものなのか、何となくは知っている。中東が発祥の、香料を混ぜた煙草葉を燃やして出た煙を水に潜らせて吸う嗜好品だ。
喘息持ちの自分にとっては想像しただけで咳が出そうだが、しかしまあ、彼女がそんなものに憧れを抱いているとは意外だった。『二十歳にならないと喫煙できない』というのが、小学生の彼女なりの思い描く大人の姿なのかもしれない。
「大人になったらあ、それやりたいの! それがシーシャの夢! だから夢がかなうまで、シーシャはシーシャなの!」
「うん……まあ、それはそれでいいとして、作文で書く内容はもう少し子供っぽい夢の方が良いんじゃない? 大人がびっくりするから」
私がもし先生だったら、もっと他に無いの? って聞くと思う。ケーキ屋さんになりたいとか、そういう両親に聞かせても大丈夫な無難な回答を。まあ、シーシャらしいと言えばシーシャらしいけれど。目の前のあどけない少女が銀色のパイプを咥え煙を燻らせる姿を想像し、似合わないなあと内心笑った。
シーシャは私の考えをよそに、身を乗り出して聞いた。
「百合也ちゃんの夢はあ? 知りたい知りたい!」
「夢……そうね……」
遠い窓の外に目を遣り、考える風を装う。大きな入道雲が力強く立ち上り、海は日差しを浴びて眩しく照り輝いていた。
正直言って夢なんてない。見ないようにしている、という方が正しい。叶わない夢なんか抱いていても虚しいだけだ。
それでも目の前の純真無垢な少女に嘘を吐いてみせるくらいには、私は大人だ。
「空を飛んでみる事かな。自由に」
適当に口にしたその願いは、ありがちなものだった。少し幼稚すぎたかもしれない。子供騙しにも程があるようなその答えに、しかしシーシャは目を輝かせた。
「なにそれすっごい楽しそう! 叶うと良いねえ」
何の衒いもないその瞳の輝きに、私はそっと肩を竦めた。私が空を飛ぶのは、死んで燃やされて煙になって空に昇る時くらいじゃないかな、なんて最高に夢のないことを思ったけれど、それは流石に言わないでおいた。
結局、シーシャは作文をほとんど書かなかった。多分、今日完成しなくても良いと思っているんだろう。私と話すという第一目標が達成できたようで、彼女は満足そうだった。
氏名欄は、やはり空欄のままだった。
「本名はあ……明日来た時に教えてあげるねえ」
「別に、今日でも良いでしょ……」
その謎のもったいぶりは何なのよ。もじもじと引き戸に身を隠すシーシャは、意味ありげに笑って見せた。
「じゃあ、またねえ! 百合也ちゃん」
「はいはい」
少女はひらひらと手を振り、慣れたように車椅子を操作して去っていった。ニット帽の端が戸の陰に消えていくのを見送って、私はベッドの背に凭れた。
恐らくシーシャが名前を伏せる意味なんてなくて、明日の会話の種にでもするつもりなんだろう。もしかしたらクイズにして出されるかもしれないな。そんなことを考えながら、私は傾き始めた夕陽を眺めていた。
さて、夕食までの時間、新しく設定した次回飛行予定の
今日も日は暮れていく。いつも通りの投薬、採血、シーシャとの会話、花火のことを考える時間。もはや私の生活の一部。決まったルーティンを今日も消化して、また明日がやってくる。
有限だとは分かっている時間を、しかしなぜか私は当たり前に繰り返されるものだと、この時ばかりは勘違いしていた。
そう、忘れていたんだ。ここが病院だってことを。
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