永遠の君を知るまでのジャーニー

外柄順当

第1話 世界に色が付く(前)

 永遠という言葉を、別に私は信じていない。

 特に捻りもない月並みな言葉だけど、終わりがあるからこそ今この時が楽しくて、何よりも美しいと思うからだ。そこに深い理由はあるわけでは無く、私がこの世に生まれた時から、そうやって生きている。

 でも、一つだけ例外があった。


 ――それは、たった一枚の肖像画に宿っている。少なくとも、私はそう信じている。勿論、今でも。



 真っ白な天井を見ていた。


 目覚めたばかりでぼやけていた視界は、少しずつ時間を掛けながら、世界に照準を合わせていく。最終的に、この天井には染み一つ無いという所まで分かった。


 私の身体は何か柔らかいものに包まれていた。直ぐにそれがベッドのシーツだという事が分かる。だというのに、私の身体は少し動かすだけで声を上げそうな程の痛みを訴える。そのせいで、起き上がる事も満足に出来なかった。

 今の私に出来る事は、唯一動かしても痛みの少なかった首を左右に動かし、この状況を理解しようと努める事だけだった。


 周囲に私以外の生きている者の姿は無い。この部屋の中で真っ白なのは天井だけで、それ以外の柱などは茶色が目立つ木造だ。

 それ以外の視覚情報は乏しい。私以外何も無い、シンプルな部屋だった。


 ただ、視覚からヒントを得る事は出来なかったが、嗅覚は別だ。少しでも呼吸をすれば分かる、消毒液の鼻を突く濃い匂い。


(ここは病院、だろうな……?)


 そう思って、痛みに悲鳴を上げる身体から目を逸らし、勢いのまま腕を上げる。特に酷い痛みを訴えていた左腕には、私の予想通り、綺麗に包帯が巻かれている。素人の腕では無い。巻き方に少しも緩みも無い、美しい巻き方。


 どうやら私は何か大きな怪我をこしらえて、この病院にいる訳だ……そこまで考えて、次に考えたのは当然、「なら、どうして私は怪我をしたのか?」という事だった。


 そして私は気付いてしまった。この大怪我に至るまでの経緯どころか、今の私は自分の名前すら分からないという事に!


 ここは恐らく病院で、この匂いが消毒液で、包帯の巻き方でプロの仕事だろうと判断する事は出来るのに、肝心の自分の事が何一つ分からなかったのだ。分かるのは、人間の女というくらい。該当者が多すぎる。


「これ、どういう状況……」


 目覚めてから初めて言葉を口から吐き出した私の声は、自分の想像よりもずっとずっと掠れきっていて、それがまるで幽霊みたいで、少しだけショックだった。


 それから、私が初めて出会った人間は、この病院に勤めている看護師の女性だった。予想通り、ここは病院だったわけだ。


 彼女は見た目から分かりやすく快活な性質の持ち主で、ベッドに横たわっていた私が眼を覚ましたと分かるや否や、急いで医者を呼んできて、諸々の準備が整うまでの間に、私にいくつかの質問を投げかけた。


「あんた、自分の名前は分かる?」

――分かりません。

「自分がどこに倒れていたかは?」

――分かりません。

「じゃあ、当然どっからきたのかも分かんないわねえ」

――そう、なります。


 こちらにはどうしようも無い事だとはいえ、ないないずくしの私に無意識なのだろう、肩を竦めたその女性に、申し訳ない気持ちがじわじわと育っていく。


「ま、その怪我が治るまではこの部屋から出したりしないから、まずはそのひっどい怪我を治す事だけ考えな! アタシ達が絶対に治してやるからさ」


 きっと、私を支配している不安を吹き飛ばす為なのだろう。そう明るく言い切った彼女に、少しだけ、気持ちが楽になった。彼女が絶対なのだと言えば、きっとそうなるだろうという、言葉にならない説得力がそこにはあった。



 私が眼を覚ましてから、あっという間に一週間が経過した、らしい。らしいというのは、私はベッドの上から動く事もできず、ただ強烈な眠気に襲われて眠るばかりの日々を過ごしていたからだ。


 後で彼女――看護師であるアメリアさんから聞いた話だが、私の怪我はそれはもう酷かったらしい。切り傷火傷に打撲、ぱっと考えられる怪我という怪我のオンパレードだったそうだ。


「今だから言えるけど、もう駄目だと思ったよ。ま、それでも諦めなかった訳だけど! 感謝しなよ~?」


 定期的に私の様子を見に来るアメリアさんが、ある日そう言っていた。その話を聞く度に私は恐ろしくなる。一体私は何をして、そして一体誰に、そんな事をされたのだろうか?


 寝てばかりいても、生きて栄養素を身体に取り込み続けていれば、身体は少しずつ回復していくのだという事を、この入院生活を通じて学んだ。


 目覚めてから三週間が経過し、私は何かを持ちながらだが、立って歩けるまでに回復した。アメリアさんもお医者さんも、驚異的すぎる回復能力……! と何か信じられないものを見るような瞳でこちらを見ていたが、一番驚いてるのは勿論私自身である。


 少し歩けるようになるだけでも、入ってくる世界の情報量は今までとは天と地の差があった。震える足で一歩一歩踏み出すその重い感触だけでも、今の私には何よりも嬉しい事だった。


 怪我の痛みが少しずつだが引いていって、思考にも段々と余裕が生まれてくる。今までは、「痛い、辛い」という言葉ばかりに割かれていたリソースが、他の事を考えるのに使用できるようになったからだ。


「あの、アメリアさん。私、ずっとここに入院してる訳ですけど、その分のお金って、どうなってるんですか……?」


 それを切り出すのは、とても勇気が必要だった。もし今までの分をまとめて請求されたら一体どうすれば良いのだろう? 働いて返そうにも、私はこの世界の事も、自分自身の事も分かっていない。こんな私を雇ってくれるところなんて存在するのだろうか。そもそも私は働けるのだろうか?


 そんな不安に絶えず襲われている私の思考回路を、すっぱりと真っ二つに切り裂いたのは、やはりアメリアさんの言葉だった。


「ああ、心配要らないよ。もう貰ってるからね」

「え、貰ってる?」


 誰から? そう告げる前に、言葉が出た。え、本当に誰から? そんな人物がいるらしいのに、私はこの入院生活中、この病院の人としか会っていない。覚えが無い。


「……やっぱり、そんな顔するよねえ。記憶がなけりゃ余計に」

「やっぱり? それって、どういう事ですか」

「アタシらにとっても、意外な人物だって事だよ――肖像画家ルオ。ぼろっぼろの使い古した雑巾みたいだったアンタを拾って、ここまで運んできた奴だ」


 肖像画家の、ルオ。当然、私が初めて聞く名前だった。その名を聞いて記憶が蘇る、なんて事もなく、ただ茫然と瞬きをしてしまうだけで終わった。


「やっぱり接点は無いんだね。こっちとしてもびっくりさ。そういうイメージが一切なかったもんだから」

「あの、どういう人なんですか? その、ルオって人は」

「この近くに住んでる肖像画家の男だよ。そこそこ稼ぎは良いらしいけど、街の奴らは皆気難しい奴だって言ってるね。性格が悪くて、そこの家で働いたら最後、一週間も保たずに病んで廃人になっちまうって噂だ」

「な、なんでそんな人が、私を助けて、その上お金まで……?」

「そんなのこっちが聞きたいよ。でも怪我人を抱えて、金までしっかり払われちゃあ、こっちとしても無下には出来ないしさ」


 アメリアさんの言葉だけで、私の中でのそのルオという人は、非情で悪魔みたいな表情を浮かべている、地獄そのものというイメージが付属してしまった。


 そんな人が、一体何故、私を助けたのだろうか?


「あれじゃないか? 小娘に恩を売って、奴隷みたいに働かせようっていう……」

「怪我人になんて事言うんですか!?」


 人の心が無いよお……なんて喚きながら、いつしか話題は切り替わっていった。今私達がうんうん頭を捻って考えたところで、答えが分かる話でもないからだ。

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