空き教室の冒険

 地下教室は昨日のままだった。持ち込んだ物品こそ綺麗に片付けられているものの、相変わらず空気はほのかに黴臭く、そして蛍光灯の残骸を始末するべく大急ぎで箒をかけたにもかかわらず、掃き残された埃はなお部屋のそこここに積もっていた。

 昨夜の騒ぎを聞きつけた誰かに嗅ぎ回られて、すべてが台無しになる──そんな部長の懸念は、杞憂に終わったわけだ。


 その地下教室で、僕は部長に言われるがままに背伸びをしていた。それも教室の片隅に置かれていた古机の上に乗って。


 部長が言う。「どうやらその状態でめいっぱい腕を上げれば、天井に手が届くようだね」


「……え、ええ。いちおう届くことは届きます。ただ……作業をするとなると、少々、いや、かなり厳しいですよ……」


「ふむ。ときに君、身長は何センチだっけ」


「ひ、百七十〇センチです……」本当である。


 繰り返す。本当なのである。


「そうか。なるほどなるほど……あ、もう降りてけっこうだよ。いつまでそうしているつもりだい」


 やれと命じておいて、労いの言葉の一つもなしときた。上靴を履き、痛む腕をさすりながら、僕は部長に恨みのこもった目を向けた。


 もちろんそんな視線に動じるような部長ではない。何やらにやにやと笑いながら、机の周りをぐるぐると回っている。「さて、ここの天井は、ご覧の通り通常の教室のそれより低い。日本人男性の平均サイズの君なら、机の上にのって目いっぱい背伸びをすれば、蛍光灯の入れ替えができてしまうほどに、ね」


「それはわかりました。けど、それが容疑者を絞るヒントになるんですか」


「なるんだよ」ぴたりと足を止め、こちらに人差し指を突きつけて彼女は断言した。「周りを見てごらん。ここにあるものは古い椅子や机、そして掃除ロッカーくらいのものだろう? 掃除ロッカーは動かした形跡がないから捨て置くとして、香宮君、ちょっとこの机を動かしてみてくれるかい。そうだな、運び先は掃除の手が全然行き届いてない、そこの隅っこがいいな──ああ、ダメダメ引きずっちゃ。ちゃんと持って運ぶんだよ、義務教育で何を教わったの」


 無心になれ──命令に従いながら、自分にそう言い聞かせる。今の僕は機械だ。さながら人類を守るようプログラミングされたサイボーグだ。


「おろして」


 部長が命令する。僕は従った。


「また持ち上げて。で、今度は少しずれたところに置いて」


 僕は言われた通りにした。


 傍にやってきた部長が、床を見下ろしながら何やらにんまりとほくそ笑んだ。「そら、ね?」

 彼女が指差した、ねずみ色の埃が積もった床の上。

 そこには机の足の丸い跡が、さながら判子で押したように残されていた。


「これが、どうかしたんですか?」

 僕が訊くと、部長は処置なし、と言うように、あからさまに嘆息してみせた。「さては君、私が撮った写真をちゃんと見てないな? せっかく記録を残してやったっていうのにさ。よく見比べてごらんよ」


 言われるがままにスマホを取り出すと、画像アプリを開く間さえもどかしいと言わんばかりに、横からもぎ取られてしまった──別に変な画像は保存していないから見られても構わないのだけど、少しは僕のプライバシーを慮ってくれないだろうか。


 生まれてこの方、自分のスマホどころかガラケーも、ポケベルさえも持ったことのない割には、部長のケータイ捌きは鮮やかなものだった。ものの数秒もしないうちに、彼女は目当ての画像を見つけ出していた。

「ご覧」

 言われるがまま、覗き込む。

 それは床の一点を捉えた画像だった。一見しただけでは誤写(この言葉は写真の場合にも使えるのだろうか?)しただけにしか思えない、埃色の一枚。


 だがその灰色には、濃淡があった──画像のちょうど中央に、何かを置いたような跡が残されていたのだ。

 その跡は、四角い形をしていた。


 部長が僕の顔を覗き込んできた。「どう思う?」


 目を少しだけ逸らしつつ、僕はこう答えた。「ここの机や椅子の跡とは、形が違うみたいですね」


「つまり?」


 つまり。


「……誰かがここに、台か何かを持ち込んだ?」


「その通り!」


 手をパンと一つ打ち鳴らして、部長は我が意を得たりとばかりに叫んだ。呆気に取られる僕をよそに、目を輝かせて自説を朗々と披露する。

「君もさっき自分自身で確かめた通り、ここの天井は低い。なにしろ机にのれば、君の身長ならば手が届いてしまうくらいだからね。にもかかわらず、ここには踏み台を持ち込んだ跡が残されている。なぜだ?」


「……机にのぼってもなお、手が届かなかったから?」


「そういうことだ。それがわかれば、犯人像は推定できそうじゃないかね? ……つまり、君よりも身長が低い人間さ」

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