恐怖の大王降臨

 僕は居住まいを正した。

 さぁ、いよいよメインイベントだ──武者震いじみた震えが全身を駆け抜け、自分ががらにもなく興奮していることを自覚する。

 経緯はどうあれ、いよいよ我が校だけに息づく伝承に謁見できるのだ。民俗学を愛でる者として、こんなに幸福な瞬間はない。周囲の人々が急速に遠のき、反対にキャンドルや吉川君のまとうローブだけがその存在感を膨張させるような、妙な感じを覚える。自分が唾を呑み込む音が、いやに大きく聞こえた。


 僕はまた、吉川君の人差し指が微かに震えているのを見てとった。さすがに緊張しているのか、それとも何らかのお告げの前触れか。

 けれども十円玉は動かない。赤いサインペンで描かれた鳥居の上のそれは、まるで糊ででも貼り付けたように微動だにしなかった。


「動かねぇな。で、次は?」


 答えたのは田中先輩だった。「手筈通りに、読んで」


「了解でーす」


 読む? 何を?


 全身を耳にして構える僕をよそに、吉川君は一つ咳払いをすると、やおら右手でズボンのポケットから紙を取り出すと、器用に片手だけで広げた。そして何やら唱え始めた。

 ひどくゆったりとした、一本調子の、一聴しただけではまるで意味のわからない言葉の羅列。


 親戚の法事で聞いたことがある。これは──お経だ。

 結界がダビデの星を彷彿させるマークで、召喚の呪文が経文。

 なんというか、いかにも信仰にあまり頓着しない、日本らしい儀式だ。


 だがその効果は絶大だった。彼の拙い読経でさえ、場の空気をさらに引き締まったものにするには十分であった。


 その場にいる誰もが、緊張を共有していた。

 たった一人、部長を除いて。


 傍で何やら緩慢な動きを見咎めて、そちらに目をやると、彼女はヘッドバンキングをしていた──なんたることか、船を漕いでいたのだ。民俗学研の長にあるまじき醜態に、後輩として忸怩たる思いでいっぱいだ。


 放っておけ。やる気のない人に何を見せたところで、所詮は猫に小判というやつだ。そんなことよりしっかりと見届けろ。一瞬一瞬を、大げさに言うなら魂で感じ取れ。


 そのまま、どれくらいの時間が流れただろう? 三分程度かもしれないし、あるいは十分かもしれない。その間十円玉は、相変わらず鳥居の上から一ミリとて動かなかった。それでも僕は硬貨から目を離さなかったし、須羽さんや三神さんや田中先輩も同様だったろう。結界の中の吉川君だって、いっそ何か事が起こることを期待し始めていたのではなかろうか。


 ともかく、誰も頭上なんかに注意を払っていなかった。


 だが、災厄は突如天から降りてきた。

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