三 花菖蒲 梅雨が明ければ(一)

 銀の糸のような、細い雨が降っていた。

 都全体が色彩を失くしたように灰色に曇り、ぼんやりと薄霧に霞んでいる。普段は鮮やかな社殿や鳥居の朱も、雨のせいで色褪せて見えた。

 白花神社しろはなじんじゃ本殿の軒下を借りながら、水央みおは雨雲が厚く凝る空を見上げた。せり出した社殿の屋根から雨垂れが落ち、地面で跳ね返っている。おかげで足元が僅かに濡れる。

 人を待つだけなのは性に合わないが、傘がないので雨の下に出る気にもならない。

 朝は雨が降っていなかったし、傘を持ち歩くのが邪魔だったから屋敷に置いてきてしまった。暇を持て余すくらいなら持ってくるのだった。

 今年は六月に入っても空梅雨からつゆで蒸し暑くなるばかりだったのに、数日前から突然雨続きになった。空が季節を思い出したかのような入梅だった。

 梅雨の時季はあまり好きではない。

 薄暗く、じめじめしていて、雨のせいで外出もしにくい。

 街中を散策するのが好きな水央には嫌な季節だった。

 神社にはぽつぽつと参拝者の姿が見える。皆一様に傘を差し、うやうやしく本殿にお参りしていた。

 参拝が終わった人々は、本殿前の池に咲く、菖蒲や睡蓮にも手を合わせている。

 神社の境内は梅雨ですっかり薄灰色に褪せているのに、草木は逆に瑞々しく、その青さを一層冴えさせていた。花も雨に洗われて、その色彩を増しているように見えた。

 花菖蒲の、やけに鮮やかな青紫が目に焼きつく。

 とうの昔に過ぎ去ったはずの声が、水央の頭の中に響いた。

 ――それ、本当のことなの?

 ――本当よ。時雨しぐれ様が話しているのを聞いたんだから。

 ひそひそと交わされる言葉が、雨のように水央の頭上に降ってくる。

 ――嫁がれて、二年も経っていなかったんですって。

 ――おいたわしいこと。

「水央」

 間近で聞こえた声に我に帰り、水央は過去の声を頭から追い払った。

 目の前には薄紫色の唐傘を差して立つ常盤ときわの姿があった。

 常盤はこの蒸し暑いのに、相変わらず少しの乱れなく着物を着込んでいた。

 彼は傘紙を少し上げて、傘で隠れていた顔を水央へ向けた。待ち人は不機嫌そうに眉を寄せ、こちらを睨む。

「まったく。急に人を呼びつけたかと思えば、呆然と馬鹿みたいに突っ立って……。何度声をかけたと思っている」

 半ば呆れたような友人を前に、水央は苦笑する。

「悪い、常盤。ちょっとぼうっとしていたんだ」

 常盤は無言のまま、水央に傘を差しかけた。入れということらしい。社の軒下で待っていた水央が傘を持っていないと察したのだろう。友人とはいえ神さまなので少々気が引けたが、ずぶ濡れのまま歩き回るわけにもいかないので入ることにする。

 常盤は水央が濡れないよう傘を持ち、おもむろに歩き出す。

 足を踏み出すたび、濡れそぼった境内の砂利が音を立てた。

「家のことは、いいの?」

 常盤が小さく尋ねる。

 ふと、水央の心の奥底で菖蒲の花が揺れた。

 そよそよと、悲しみや不安を掻き立てるように揺れて、暗く淀んだ苦痛がじわりと胸を満たした。

 水央は何も覚られないように、笑顔を作る。

「……ああ」

 友人の前で暗い顔をするのは嫌だった。大丈夫だ。慣れている。

「今は、家臣たちが白桜の花守を受け持ってくれているよ。しばらく休んでいいってみんなに言われた。まったく、気なんか遣わなくたっていいのにな」

「お前を心配しているんだろう」

 歩きながら、素気なく答える常盤。

 彼と並んで歩いていた水央は、詳しく内情を訊かれなかったことにほっとした。

 しばらく黙って歩いていると、常盤が口を開いた。

「なら今日は、うちに来るといい」

「お前の屋敷?」

「泊まっていってもいいよ。娘も喜ぶだろう」

 水央はまじまじと常盤の横顔を見た。

 人を屋敷に呼んでもてなすことに喜びを感じるほど、常盤は外向的で気さくな性格ではないはずだ。

 やはり水央の心中を見透かしているのだろうか。

 常盤にちらと目を向けると、彼はいつも通りの気難しそうな面持ちのままだ。その横顔から、彼の心の内はまったく見通せなかった。

 常盤の屋敷は、都の外に広がる広大な森の中にある。

 最初は森の中に屋敷があることに驚いたのだが、よく考えれば神さまが都の中で人と一緒に暮らしている方が珍妙だから、それは至極真っ当なことだと後で思い直した。

 水央は常盤に連れられ、神社から森の中へとやってきた。

 神は人には扱えない神秘の力――術を扱う。

 都と森の間を行き来するのは人の足では大変だが、神は離れた場所同士を術で行き来できるのだ。

 他にも天候を操ったり、火や水、風など自然のものを操ったりできるらしい。

 森に来るのは数日ぶりだ。前は常盤に森を案内してもらい、慣れない山歩きで足を怪我した。

 雨のそぼ降る森を歩いてすぐ、森の中に唐突に人工物が見えた。竹を立てて連ねた塀だ。水央が屋敷を見上げていると、常盤はさっさと進んで門を開く。水央も彼の後を追った。

 門を潜ると、まず目に入ったのは前庭だ。ふと目につくだけでも色々な種類の花や香草が植えられ、野菜の畑が視界いっぱいに広がっている。その後ろに屋敷が見える。畑も塀ももっと奥まで続いているようだった。

 広すぎる。ここからでは屋敷の全貌がまったく掴めない。

 屋敷自体は古そうだが大層立派だ。玄関の構えだけでも、上流階級の名家と同じくらいの豪邸だとわかる。

 常盤の帰還を知り、家臣のさかきが出迎えた。

 今日は客が泊まると常盤が言うと、榊は「どうぞごゆっくりおくつろぎください」と水央に笑顔を向けた。

 中庭が望める広縁に通され、常盤が座布団を用意してくれた。

 柱や畳、板張りの廊下や縁側はかなりの年季が入っているがぼろくはなく、隅から隅まで手入れが行き届いている。

 この区画は広縁が中庭を囲うように巡っている。どこの部屋にいても庭が眺められるように造られているのだろう。

 広縁は屋根がせり出しているので濡れることもなく、風がない日は雨戸を閉めなくても雨の庭や森を見渡すことができそうだ。中庭は真ん中に池があり、花や緑が見渡せた。

「庭、広いんだな」

「庭園というほどではないが、花も野菜も色々植えている」

「咲いていないものを探す方が大変そうだ」

 雨に濡れた緑の色の深さに、水央は嘆息した。

「雨の森って、綺麗だな。都の中は薄暗くなるのに、森の緑がこんなに鮮やかな色になるなんて知らなかったよ」

 降りしきる雨を受けるごとに草木は鮮やかさを増すようで、鮮烈な緑の波が屋敷に押し寄せてくるようだった。その中で、花菖蒲や紫陽花あじさいが雨に洗われている。

 向かい合うように正座する常盤が、そうだろうと言わんばかりに少し得意げに口元を笑ませた。

「古清水の緑は美しいだろう。これが、僕たち四聖天しせいてんが守るべきものだ」

 こんなに表情が和らぐ常盤は初めて見た。

 いつも気難しげで不機嫌そうな顔ばかりするこの友人は、この地の緑を心から好いているらしい。

「お待たせいたしました、父上」

 後ろから、盆を手にした娘が現れた。

 肩口で切り揃えた淡い青の髪。瞳は常盤と同じ緑青色で、氷のような冷たさと鋭さがある目元が印象的だ。屋敷内でも裾の短い活動的な衣服を着ている。

 常盤の次女の花葉はなばである。

 気難しげな表情は常盤そっくりで、ものをはっきりと言う、少々手厳しい言動の多い娘である。

「花葉、元気にしていたか?」

 水央が顔を花葉へ向けると、彼女は水央を睨むように見返した。無言でさっと座り盆を置いた。反応まで父親そっくりである。この間会ったときは笑ってくれたのに。

 花葉はようやく口を開いたが、声色には刺々しさがあった。

「水央殿は変わりないようね。うちに泊まると聞いたけれど、本当なの?」

「まあな、世話になるぜ」

 険のある言動はこの前と同じなので、水央は気にしない。

 常盤はそんな娘へ向かって眉を顰めた。

「花葉、客人に失礼な態度はよせ」

 花葉は素直にはいと返事をした。盆に載せてきた緑茶を急須から器に注いで、常盤と水央へ差し出した。

 硝子の器に注がれた深い色の緑茶を、水央は早速一口飲んだ。

 冷たい。深くまろやかな味わいが、清涼感を伴って喉を軽やかに通り抜けていく。

器についた水滴が下へ伝って指先を濡らした。

「美味いよ。ありがとう、花葉」

 礼を述べると、花葉は水央から視線を逸らした。

 頬が紅潮している。照れているのかもしれない。

「今は雨だから無理だけれど、今度刀の鍛錬にでも付き合ってもらうわよ。父上はお体を冷やさないように」

 花葉はそう言い置いてこの場を颯爽と去っていった。

 水央はその背を見送る。

「常盤は花葉と仲がいいな。子供、何人いるんだ?」

「娘が三人いる。長女はお前と同じ年頃だ」

 まだ花葉以外は見たことはないが、きっと三人とも父親に似て才色兼備なのだろう。花葉を見ていれば察しがつくが、容貌だけの娘には育てていないと水央は半ば確信している。

「三人とも、まだ僕に甘えてばかりだ」

「いいじゃないか。三人ともお前のことが大好きってことだろ」

 ――うちと違って。

 そう言いそうになって、水央は慌てて口を噤み、緑茶を一気に飲み干した。

 常盤の家と水央の家では、何もかもが違うはずだ。他所の家と自分の家を比べること自体間違っている。

 水央は心の中で少しだけ、常盤と花葉たち姉妹のことが羨ましいと思っていた。

 花葉たちには常盤という理知的な父親がいる。常盤に甘えられて、悲しみも幸せも分かち合える姉妹がいる。

 水央はもう、家庭のあたたかさなど忘れてしまった。

 水央は今年で十八歳だ。

 母親が死んでから、十八年になる。




 雨は降り続き、夕餉ゆうげや風呂を済ませても止む様子がない。

 夕餉のときに常盤の三人の娘たちと初めて顔を合わせた。三人とも性格はみんな違うが美人揃いだった。

 おっとりとして楚々とした雰囲気の長女に、素直ではないがそこが可愛らしい次女、純粋で無邪気そうな三女。むっとしてばかりの花葉も、姉妹の中では雰囲気が柔らかい。

 夜が深まるまでの間は、三姉妹と花札で遊んだ。

 水央は普段お目にかかれないような美人三姉妹に囲まれたので少々いい気になった。女性を容貌だけで評価する気は毛頭ないが、それでも美人に囲まれるのは普通に嬉しい。

 勝敗は半々になった。

 遊ぶうちにすっかり夜も更けたので解散になった。水央と同じ年頃の娘たちだ。夜遅くまで一緒にいると常盤に怒られるだけでは済まない。

 水央はあてがわれた客室へと戻った。

 雨の音が静まりかえった室内に響く。

 ひとりに戻ると、ひどく落ち着かなくなる。誰かと話したいと思ったが、こんなに遅い時間だと部屋を訪ねにくい。

 水央は仕方なく、敷かれた布団の上に仰向けになって天井を見つめた。雨音が微かに聞こえてくる。

 眠れない。

 何もすることがない時間は落ち着かなくていけない。

 じっとしていると考えてしまうのだ。

 これでは家にいるときと変わらない。

 水央の家に仕える武士たちは、水央を気遣い、揃いも揃って水央を休ませようとあれこれ手を回してきた。気遣われることが億劫で常盤に会おうと思ったのに。

 ひとりになった途端、気分が元に戻ってしまった。

 家から離れても自分は変わらないし、自分が置かれている状況も変わらない。

 自分からも、この生からも逃げられない。

 屋根や枝葉を叩く雨の音がひっきりなしに響く。

 夜の静寂を穿って雨音が闇の淵に満ちる。雨音は一際大きく聞こえてきて、水央は両手で耳を塞いだ。

 雨は嫌いだ。

 雨音が、塞いだ手の隙間から入り込んでくる。どんなに強く耳を塞いでも、雨音は止まない。

 水央はその晩なかなか寝つけなかった。

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