第2話

 アンヘロ・アコスタはバティスタの首都ハバナの下町で自動車修理工を営み、ミッドセンチュリーの時代からハバナの街を駆ける自動車を30年間修理し続け、市民生活を陰で支え続けていた。腕前は一流で、ボディは錆が浮き、エンジンは今にも脱落しそうなポンコツを新車同然に仕上げるなど造作もない事で、誰しも彼の所に車を預ければ安心し、口に出す者は多くないが、ハバナ一の自動車修理工だと認めていた。彼自身、修理工としての自分を誇りに思い、一生を修理工として終えようとさえ思っていた。

 しかし、誇りだけでは腹が膨れる事は無い。自由経済への移行後、安価で低燃費、高性能な輸入外国車が多数流入すると、外国人観光客向けのタクシーなどで生計を立てている者以外は早々に車を買い替えてしまい、修理に持ち込まれる車の台数も落ち込んできてしまっていた。タクシーは国の補助を受けている公認自動車工場へと持ち込まれ、モグリのタクシーがアンヘロの工場に来る事もあるが、それでも生活は厳しい物であった。なにより、アンヘロ自身、そういった整備士免許を持たないモグリの修理工だったのだ。

 そうなってくると、生計を立てる為には仕事を選ぶ事はできなくなり、以前は断っていた犯罪がらみの仕事にも手を出すようになり、その熟練の腕前は車のあらゆるスペースに麻薬や武器弾薬、現金を隠匿する事に役立てられ、彼が手掛けた仕事は一度として当局に暴かれる事は無かった。そうしてアンヘロは裏の人間からも一目置かれる存在となって行き、その噂は昨今頻繁にテロ攻撃を行う反政府勢力にも届いていた。


「アコスタ、出来てるか」


 半開きのシャッターを叩き、クルーカットの青年が工場に現れる。青年は工場の隅から隅へと視線を走らせ、出入り口に近い壁に寄りかかる。視線の先には旧車とまでは言わずとも、相当に古いタクシーがジャッキアップされていた。


「チェックは今済んだ。こんな事は初めてだから保証は出来んが、車の電装系を利用してるから間違いは無いはずだ」


 顔をオイルで汚したアンヘロが寝板を転がしてタクシーの下から顔を覗かせる。髭面のアンヘロは普段と変わらぬ仕事だといった風に起き上がり、顔に付着したオイルをウエスで拭うと、作業台に置いてあった携帯電話を青年に放る。


「起爆の番号はリストの一番上に設定してある。もう起爆できるから、間違えてコールするなよ」


「嘘だろ、危ないだろ」


 仕事はシンプルが一番だ。アンヘロは青年を指さしながら言い捨てる。仕掛けはした、その後はお前たちの仕事で俺の知った事ではない。とばかりに道具の片づけを始める。

 反政府勢力から依頼を受けたアンヘロは、このタクシーに刺激的な「仕掛け」を施していた。反政府勢力向けの仕事として禁制品や武器の密輸は何度か手助けはしたが、この手の仕掛けをするのは初であった。

 元々アンヘロは国名が変わった民主革命と、その後に続く共産系反政府勢力による革命闘争にも興味など無く、自分の生活を維持する事に精一杯だった。反政府勢力に手を貸していたのはあくまで密輸という仕事の延長線上であり、彼にとって一線を越えない線引きがされていた。しかし自由経済へと移り変わった現在、共産政権時代の配給制度などは廃止され、最低限度の生活すら難しくなっており、それが貧富の差を生み国民を困窮に追いやっているのだ。そう「革命の戦士」達はアンヘロに接触する度に滾々と説き、結果アンヘロは革命の列に加わる事にした。


「まさかコールして即ドカン!じゃないよな」


「馬鹿を言うな、3分だ。3分あればあのホテルの前なら安全な場所に移れるだろ」


 アンヘロは爆薬の専門家ではなく、当然仕込んだ爆薬の量に対する安全範囲など知りもしない。あくまでも自分は提供された爆薬を残さず詰め込み、説明された通りにタイマーをセットしたと青年に言い放つ。


「本当に本当だな、俺は安全なんだな」


「仕掛けに関してはな。それ以外の事に関しては、知らん」




 燦々と輝くカリブの陽光がハバナ・ヒルトンのプールサイドに降り注ぎ、陽光の下に曝されるむき出しの肌を分別なく焦がしていく。人並み以上の女性的凹凸を誇るヨハンナはデッキチェアに寝そべり、その肢体を惜しげも無く曝している。


「ハンナ、お酒ばかり飲んでると脱水するよ」


 旅の同行者であるサキが二人分のソフトドリンクを持って現れる。ヨハンナよりも控えめであるが、それでもこの場に居る誰よりも出る所の出ているサキの肢体にヨハンナは目を奪われる。陽光を反射して輝く白銀の髪、白磁の如き白い肌、あどけない顔立ちに似合わない身体の凹凸はもはや凶器だ。何より目を引くのは、両腕と両足に彫られた未来的デザインのタトゥーである。


「あんがとよ。サキちゃんや、ヨハンナねーさんが日焼け止め塗ってやろうか?その白いお肌が焼けたら大変だぜ。へへへ」


 スケベ心満載の笑みを浮かべながらサキの方へと姿勢を変え、ドリンクを受け取ると、文字通り舐め回す様な視線をサキの爪先から頭頂まで投げかけた。サキは呆れながら「足りてるよ」と素っ気無く返し、ヨハンナの隣に寝転んだ。サキはヨハンナが助平で、このような格好をする度に同じやり取りが繰り返されるのは最早一種のルーチンだと認識し、そしてサキは不快に思う事なく、満更でもないと思っていた。

 暫しの間二人は照りつける陽光を堪能し、思い出したようにプールに浸かって涼めば再びデッキチェアで濡れた身体を日に曝した。これこそバカンス。前日の忙しさは何処へやら、穏やかな時間が流れていた。


 ヨハンナは時計に目をやり、まだ時刻が午前10時を回った所であるのを確認すると、起き上がって歩き出す。


「どこ行くの」


「酒買ってくる」


「お酒ならカウンターで」


「地元の安酒飲んでこそだろ。すぐそこのリカーショップだ、すぐ戻るよ。役人共が来たら何ぞヨロシク言っといてくれ」


 ホットパンツにホルタートップの水着、それに上着を軽く羽織っただけの格好だが、海に近いこの地区では見ない格好でも無い。これで街歩きというならば多少人目は気にしよう物だが、ホテルの目と鼻の先にあるリカーショップに行くだけであるから、ヨハンナは特に気にすること無くそのままの格好でプールを後にする。今は全くの丸腰、しかも肌の露出面積も多くサンダル履きで、女の一人歩きには些か不用心であったのは百も承知だが、ホテル周辺は警察も多く、何よりホテルの警備担当は例の警備会社が担当している。武装こそ拳銃程度だが、引ったくり程度の犯罪者に問答無用で発砲する警備員が目を光らせているのだ、路上強盗だの強姦だのをやらかそうという肝の据わった輩はそうは居ないだろう。


「オーラ!そこのお姉さん、一人かい!」


 見るからに金持ち息子といった風体の若い男がヨハンナを呼び止める。ブランド物の腕時計にサングラス、チェーンアクセサリーに小奇麗な衣服、そして背後に控える子分と思しき連れの男。絵に描いた様な遊び人だ。ヨハンナはこの手の輩が嫌いではなかった。下町場末の小汚い酒場で屯している連中であれば兎も角、こういった場所で誘う連中はなかなかどうしてしっかりしているし、実際遊んでいて楽しいのだ。多少クスリをやったり酒を飲み過ぎる事もあるし、睡眠薬の類を盛られる事もあるが、油断さえしなければ楽しいだけで終わる事が殆どだ。とは言え、今は愛おしいパートナーとのバカンスなのだから、残念ながらお断りだ。


「なんだい」


 ヨハンナはセミロングのブロンドを靡かせながら振り返る。人目を惹く胸元はともかくとして、男顔負けに鍛えられた四肢と割れた腹筋、そして刻まれた幾つもの傷痕を見るや男はたじろぐ。背後からでは上着に隠されて見えなかったが、女だてらに自分達より逞しい身体に委縮した男は何事かをぼそぼそと呟き、踵を返し早足に離れていった。


「なんだよ、面白くねえな」




 アンヘロの「仕掛け」がされたタクシーは市内で数度検問を通ったが、ただの一度として怪しまれる事も無く通された。長年市民達の足を直していただけあって確かな仕事をする。ハンドルを握る青年は仲間達が彼を推すのも納得だと鼻を鳴らす。車体の下やボンネット、トランク内を検索されるのは当然だったが、内張りまで剝がされたのには肝を冷やした。しかしそれでもアンヘロの仕掛けは発見に至らなかった。いったいどこに隠しているのか青年には見当もつかなかったが、対テロ作戦のプロもいるあの忌々しい「グリンゴ」連中が発見できなかったのだから、自分が発見できる訳も無いだろうと、仕掛けの事は頭から追いやった。発見するためには一度車を全部解体しなければならないだろうが、そんな事は無意味だし、青年は自動車整備士でも何でもないただの学生だから、車を元通りになど出来ようも無い。

 やがて目標のホテルが視界に移り、警備の数も目に見えて多くなってくる。貧困に喘ぐ労働者層から賄賂を巻き上げるしか能がない国家警察と、軍隊というだけで支配者になったつもりの憲兵隊、そして忌々しい外国の警備員。たとえ仕事を果たせたとしても、この警備の数を相手に逃走を図るのは至難の業だろう。そこは仕掛けが場を混乱させて、その隙に逃げ出せる暇を与えてくれる事を祈る他にない。

 青年は革命闘争に於ける直接的作戦に参加するのはこれが初だったが、不思議と緊張は無かった。目の前に見えるホテルはかつてこの国を独裁政治の元に統治していたフルヘンシオ・バティスタの時代に建てられた搾取と堕落の象徴であり、一度は革命の英雄達の手に渡ったが、今は米資本の手先の様な独裁主義者たちの手中に戻っている。今回の作戦はそのホテルに宿泊している現バティスタ政府の高官を排除する事が目的で、この崇高な目的を前に気後れなどしている場合ではなく、逸る気持ちも抑え、とにかく平静を保ち続けた。仕掛けは完璧なのだから、人間の方がミスをしては元も子もない。成すべき事の重大さを思えば、自然と気も引き締まる物だ。

 青年はタクシーを減速させ、警備員たちの視線を浴びながら車寄せへと滑り込ませる。エントランスの正面に停車すると、ボーイたちが気怠そうにゆっくりと歩み寄ってくる。これがピカピカの高級車で、乗っているのもラテン顔ではなく、皺なくピッチリとアイロンがけのされたスーツを着込んだ白人であったら、地面に落ちた小銭を拾うように素早く駆け寄ってくるだろう。そういう所だ、気に入らないのは。資本主義に毒されてすっかり拝金主義に染まった連中の何と醜い事か。


「来る所を間違えてないか」


「おいおい、こっちは客に呼ばれてるんだ。文句なら俺を呼んだ客に文句付けてくれ」


 場違いな見た目の青年に対し、蔑む目を向けるボーイに青年は携帯電話を掲げて見せる。身なりに反して液晶のひび割れの無い新品同然の携帯電話に、ボーイは盗品では無いのかと疑いの目を見せるが、あいにくと警察ではないので確かめようも無い。このホテルに泊まっておきながらタクシー代は渋るとはセコい客もいたものだとボーイは考えるが、客とトラブルに発展するのは御免被りたいので、仕方ないと言った風に肩を竦め、再びゆったりした足取りでタクシーから離れていった。


「飲み物買ってくるから、車に指一本触れるんじゃねえぞ!」


 タクシーを降りた青年は歩み去るボーイの背中に向けて叫び、ボーイが片手を挙げて了承した素振りを見せると青年は溜息をつく。此処までは良し、後は仕掛けを作動させ、この場を後にするだけだ。後の事は神のみぞ知るだ。

 青年は携帯電話のリストを開き、最上部の番号にコールした。




「なんだよ、面白くねえな」


 そそくさと去る男にヨハンナはつまらなそうに溜息をつき、改めて出口の方向へ向き直ると、エントランスの人だかりが目に入る。スペイン語とは違う響きの言語、ラテンの肌とは違う「色付き」の肌と平たい顔、ガイドの説明も構わず口喧しく喋る集団。アジア人の団体ツアー旅行客だと一目で分かった。壁際に寄るなり列を作るなりすれば良いだろうに、アジア人の一団――もはや群れと言って良い――は広々とした空間いっぱいに広がっており、そのくせ脇を抜けるには一々断りを入れねばならない程度に密集している。わざわざ「すいません、通ります」などと言って脇を抜けるのも馬鹿らしいが、大回りをして避けて通るのもそれはそれで馬鹿らしい。どうしてこうアジア人という物は御し難い物なのか。そうヨハンナは大きなため息をついて出口へと一歩踏み出した。


 瞬間、ヨハンナの視界を眩い閃光が覆い、耳を劈く轟音を聞いたかと思えば、世界がスローモーションになる。身体が宙に浮き、迫る様々な破片や飛沫から逃れるかの如く背後へと引っ張られていく。そして天井を仰いだ刹那、後頭部に走る衝撃で意識が途絶えた。


 頭を破砕しそうな頭痛が頭蓋の内で暴れ狂い、不快な耳鳴りが両の耳を抜けていく。酷い眩暈で吐き気がするばかりか眼球が痛む。状況を確認しようと身を起こそうとするが身体が言う事を聞かない。だがそれは寧ろ幸運だった。耳鳴りが収まるにつれ、直ぐ傍で銃声と悲鳴が聞こえてくる。途切れる事の無い、無数の連続した射撃音がヨハンナの頭痛をより酷い物にした。今起き上がろう物ならば、その射撃の犠牲者に仲間入りしそうな事は明白であった。

 ヨハンナは僅かに頭と目を動かして周囲の状況を確かめようとする。散らばるガラスとコンクリートの破片、無数の血液と人体の欠片。すぐ脇には瀕死の警備員が突っ伏している。エントランスの中央を彩る花壇の裏まで吹き飛ばされはしたものの、どうやらあの旅行者集団が盾となって破片を防いでくれたらしい。全身が酷く痛むが、破片などで身体を裂かれた痛みを感じない事から、自身は打撲程度で済んでいると判断できた。

 ツイてる。ヨハンナはそう思いかけたが、昨日の今日でまたテロに巻き込まれ、今度は爆弾テロと来たものだ。身体が比較的無事なのは不幸中の幸いなのかもしれないが、不幸が重なり過ぎて釣り合いが取れていない。そう思うと非常に腹立たしい気持ちが高まってくる。四肢の末端まで熱い血液が充填される感覚を覚え、全身を苛む痛みが消えていく。ヨハンナは打ちのめされた肉体が、再び活性化していくのを感じながら、指先で周囲に散らばるガラス片を探り、鋭利な物を握りしめた。


「ここはもういい、行くぞ。セサルとチュチョは他の出入り口を押さえろ。ハビエルはここを守れ。他は俺に続け」


 指示を出す男の声が鮮明に聞こえ、複数の足音が去っていく。すっかり聴覚の戻ったヨハンナの耳は、残った者たちの他愛ない会話や足音を捉え、その場に残った正確な人数を割り出した。男四人。旅客機の時よりも人数は多く、相手は警戒しているうえに連射の利く銃で武装している。相手をするには分が悪く、このまま死んだふりをして警察か軍の到着を待った方が遥かに利口だが、ヨハンナはそれでは気が済まなかった。

 一人の足音が近づき、ヨハンナの直ぐ傍で止まると銃声が二発轟き、すぐ脇で突っ伏していた警備員にとどめが刺された。弾けた頭部から血糊と脳漿がヨハンナの顔に散り、不快な鉄の香りが鼻腔を貫く。とどめを刺した男は女を撃つのが気が引けたか、ヨハンナに見向きもせずその場を離れようとした。


 じゃりっ、と瓦礫とガラスを踏み締め踵を返す音を聞いた瞬間、ヨハンナは動いた。仰向けからうつ伏せになると、ラグビー選手の低く鋭いタックルのように下半身を背後から強襲、男の膝裏を手にしたガラスの破片で切り裂いた。男は両方の膝裏に鋭い痛みを感じると同時に、膝が肉体を支える能力を喪失したことで崩れ落ちると、悲鳴を上げるよりも先に口元を手で覆われ、喉笛にガラス片を突き立てられる。男は喉から血を噴きながら数度痙攣し、やがて全身を弛緩させていった。

 ヨハンナは男の手から銃をもぎ取り、折りたたまれていた銃床を展開して弾倉を外し、中の弾薬を指で押し込み凡その残弾数を計ってから再び銃に嵌め直した。AKMS突撃銃、世界中で使用されているベストセラー突撃銃。当然ヨハンナもその扱いには覚えがあった。ジャングルや砂漠、市街地で幾度となく繰り返してきた動作は肉体に刻まれ、一切の遅滞なく銃器の動作と残弾確認を完了させた。そしてその後に起こす動作も同様に肉体に刻み込まれていた。

 ヨハンナが花壇の裏から立ち上がり、その視界に映る人影に銃口を指向すると、その先に居た男の目が見開かれる。大方今しがた喉笛を切り裂いた男が瓦礫に足を取られて転んだとでも思っていたのだろうが、その予想に反して目の前に現れたのは同志の銃を構え、顔を血と脳漿で化粧した女であった。血糊に塗れた肌同様、その眼はひどく充血し、浴びた物とは別に血液が涙のように流れ出ていた。

 僅かな怯えの表情、その遅れが男を死に至らしめた。彼我の距離は凡そ十メートル、一瞬の勝負だ。銃口が水平を向くより早くヨハンナの引き金が三回引かれ、飛び出した銃弾が男の喉と頭に飛び込み、その運動エネルギーは男の頭を容易に破砕する。飛び散る頭骨と脳漿、血糊の一つも地面に落ちぬ間にヨハンナは銃口を左へと滑らせ、銃声に振り向こうとするソフトモヒカンの横顔に向けて引き金を絞った。弾丸は三発全てが左側頭部から右へと抜け、最初と同じく頭を弾けさせた。


「うわあぁ!」


 最後に残った一人が叫ぶと、銃床を畳んだままのAKMSをろくに照準もせずに、腰を落とした姿勢で乱射した。ヨハンナが飛び退き、床に伏せるのは頭部を射抜いた二人が倒れるのとほぼ同時だった。腰だめの銃弾は肩に付けて水平に薙ぐより幾分か低かったが、床に滑るように伏せたヨハンナを捉える事は無く、遥か背後のチェックイン・カウンターに穴を穿った。

 伏せたヨハンナはそのまま瓦礫も意に介さず数度床を転がり、視界に武装した人影を収めると右目の視線と銃身が一直線上になるように水平に構え、照準器を使わずに射撃する。銃弾は最後の男の膝と腰を砕き、崩れ落ちて胴体上部を射線に入れて弾丸を食らい、肺と心臓を撃ち抜かれて絶命した。

 一瞬の静寂、ヨハンナは立ち上がると銃口と視線を周囲に走らせて警戒する。敵影はない、エントランスホールは制圧した。ヨハンナは最後に倒したテロリストに歩み寄り、数度蹴って反応が無いのを確認し、懐から弾倉と手榴弾を拝借する。そのとき男のズボンに突っ込まれていた無線が鳴る。


《ハビエル、今の銃声はなんだ。敵が来たのか》


「大正解だ馬鹿野郎。今から行ってブチ殺してやるから楽しみにしてろよ」

 

 無線機の男、セサルは動揺を隠せなかった。同胞が持っているはずの無線から見知らぬ女の声がしたのだ。確かに武力革命だから同胞が死ぬのは当然で、覚悟はしている。だがエントランスで別れてから十分と経っていない。警察や軍が突入を開始するにはあまりにも早すぎる。銃声だって警官や軍人たちの下手な乱射とは違ってごく短い時間で戦闘が終わっていた。まさか軍特殊部隊か大統領親衛隊か。セサルは思案するが、それにしたって到着があまりにも早すぎるのには違いない。


「確認しよう。チュチョ、行くぞ」


 セサルはセレクターを連射に切り替え、カンカン帽をかぶったチュチョを先頭に、仲間二人を伴って廊下を駆けだした。動揺しているのは他の者も同じで、余りにもあっけなさすぎる同胞の死は彼らの冷静さを失わせるのには充分であった。チュチョは全くの無警戒で、銃口を下げたまま曲がり角へと飛び出し、その瞬間、短い銃声と共にチュチョの頭が弾けてカンカン帽が宙を舞った。


「うわっ!」


 セサルが叫んだ直後、チュチョが倒れるのとほぼ同時に、爆竹に似た音と共に曲がり角から何かが投げ込まれるのが見えた。オリーブ色をした卵型の球体、それを手榴弾と認識するには四秒という猶予はあまりに短かった。110グラムのTNTが炸裂し、生じた衝撃波と熱、そして破片と化した弾殻が三人を襲った。

 廊下が爆発の衝撃で揺れ、煙が立ち込める中をヨハンナは踏み込んだ。セサルは破片と爆発を間近で浴び、既に物言わぬ死体と化していたが、残る二人は呻き声をあげているが息はある。ヨハンナはその内で負傷の度合いが酷い方に銃弾を数発叩き込み、残った一人の負傷した脚を踏み付けた。


「あああ!」


「おいこのタコ野郎、残ったクソは何処に行きやがった」


「ぐああっ、痛ぇ…っ、なんだお前」


「『痛ぇ』じゃねえ何処に行ったか聞いてんだこのボケ!私のスペイン語がヘタクソでポルトガル語みたいに聞こえるってのか?だから聞き取れねえってか!?」


 ヨハンナは踏みつける脚に体重を掛け、ついでとばかりに銃床で顔面を殴りつける。鼻と前歯を折られた男は情けない顔でヨハンナを見上げ、その表情は苦痛に加えて怯えを含んでいた。


「あああ!!23階!23階のスイート!!政府高官が泊まってて、そいつを仕留めに行った!」


「何人だ」


「12人だ!4人、途中で分かれてプールで高官の夫人を探す!」


 言い切った所で銃声が響き、男の頭部内容物の一切が床に飛び散った。


「最初から言ってりゃ良かったんだよドアホ」


 ヨハンナは切れた口内の血を唾と一緒に吐き捨て、上着のポケットから携帯電話を取り出した。爆発の衝撃で画面はひび割れ、買ったばかりだというのに数日もしないで損傷したそれに悪態をつき、プールにまだ居るであろうサキにコールする。


《ハンナ》


 サキは落ち着いた声で電話に出る。こういった時でもサキは冷静そのもので、まるで感情が存在しないかの様に、大抵の事には動じない。その肝の座り様はヨハンナ以上で、155㎜砲の効力射を浴びている最中でも熟睡できる程だった。


「4人からのカス野郎共がそっちに行った。気をつけろ」


《知ってる。もう片づけたけど》


 ヨハンナには想定内の答えであった。あの爆発があった直後からヨハンナとは違ってサキは自由に動けたであろうし、その後の銃声も聞いている。プールに武装した男たちが現れるまでの間にサキは何某かの武装は手にしている事だろう。プールサイドのバーカウンターにはフルーツカット用の果物ナイフなどは当然あるだろうし、サキに刃物を持たせたならば、戦車を持ち出さねば仕留める事は叶わないだろうとヨハンナは確信していた。


 プールに男達が殴り込んできたその時、宿泊客や従業員は銃声に怯えて隅に寄るか伏せていたが、サキはと言えば、カウンターから果物ナイフを拝借したついでにトロピカルジュースをこしらえ、カウンターに寄りかかって飲んでいた。当然他の客が怯える中で一人平然としているサキに不信感を覚えない筈も無く、男が一人サキに近寄り、他の客同様に地面に伏せさせようとしたのだろう。そこはサキの最も得意とする距離だ。肩に手を掛けた瞬間、逆手にして隠していた果物ナイフが閃き、まず男の左手首が切り裂かれ、次に右腋、そして喉笛、最後に心臓に一突き。それを一挙措でやってのけたサキは、残りの者が反応するよりも早く、男のホルスターから拳銃を抜いて引き金を引いた。


「仕事がお早い事で」


《これからどうするの》


「残りをブッ殺す。23階に行ったんだと。バカンスを台無しにしやがって、許さん」


《合流する。人手は多い方が良いでしょ》


 一人で良い、と出掛かった所でヨハンナは止めた。サキの言う通り一人より二人だ。情報通りなら相手は残り八人であるし、例え相手が一人であったとしても、数が多い方が有利なのは当たり前の事だ。どうにも頭に血が上っていると冷静さを失いそうになる。ヨハンナは何度自分を戒めたか知れなかった。ヨハンナはサキに武器と弾薬を集めておくように言うと、ちょうど降りてきたエレベータに乗り込んで3階、プールのあるフロアのボタンを押した。


 3階でサキと合流したヨハンナは予備弾倉と拳銃、手榴弾を受け取って一息つく。サキは水着姿から着替え、上着を着てズボンを履いているが、ヨハンナは相変わらずの格好である。着替えは部屋に置いてあった。サキはナイフで男を殺傷した際に僅かに返り血を浴びた程度で、負傷も無く奇麗なものだったが、反面、ヨハンナは吹き飛ばされ、瓦礫の上を転げまわり、粉塵に塗れて細かい擦り傷や切り傷だらけであった。


「ひどい恰好。それ、ハンナの血じゃないよね」


「私の血だったら今頃くたばってる」


「噂の反政府テロリスト?」


「だろうな、だがそんな事は知らん。ふざけやがって、ドタマ吹っ飛ばしてやらんと気が済まん」


 23階のボタンを押し、エレベーターが上昇を始める。自分達の身の安全は確保できたのだから、残りを仕留める必要は無い。政府高官を助け出すつもりも、それで媚を売っておこう等という腹積もりも毛頭無く、唯々ヨハンナはバカンスを台無しにされた事に憤慨していた。彼ら革命の戦士にとってはこの行いも彼らの未来の為、国の為なのだろう。それが判らぬヨハンナではない。世界各地の紛争もそういった理由から戦いは起きていた。だがそんな事はヨハンナにとっては心底どうでも良かった。そういった場所に自分から足を踏み入れる普段の仕事なら致し方ない。しかし今はバカンス中で全く無関係だ。関係の無い自分を巻き込んだ者共に対し、ヨハンナは自らの手で報いを受けさせねば気が済まなかった。

 別に戦闘や戦争が嫌だという訳では無かった。むしろヨハンナが傭兵という稼業を続けているのは、偏に戦争という状況に身を置くのが好きだったからだ。戦争が趣味で、殺したり殺されたりする状況のスリルを味わうのが大好きだった。そして銃を握り人を殺めたその時から、ベッドの上で死ねると思っていないし、平穏な生活を求めるなどバカげている。そう公言して憚らないが、それはそれである。誰にだって羽を休める時間は必要だ。

 

「あいつ等全員ぶっ殺したらまたブタ箱入りかな」


「そうだろうね」


「畜生」


 ヨハンナは悪態をつきながら濡らしたタオルで顔の血を拭う。赤黒く汚れたタオルを捨てると同時に階数表示が23階を指し、アンチックな内装のエレベーターに似合わぬ電子音が鳴る。扉が開き、ヨハンナとサキは背を合わせるように廊下へ展開、左右の空間を確保する。廊下は成人男性が列を三つ作って少し余る程度に広く、その広さから銃声が良く響き、多少離れているがエレベーターホールまで聞こえてきた。一階で尋問した男の言う事に間違いは無かったとヨハンナは安堵する。これで違う階を教えられていたら大間抜けだ。

 舌を二回鳴らしてサキに合図し、廊下の両端に付いてフロアの捜索を始める。異なる銃声がひっきりなしにフロアに響いている為、凡そどこで戦闘が起きているかは判別できた。政府高官の護衛と戦闘しているのだろう、横合いを突いて奇襲するには最適な状況だ。とは言え、その護衛がいつまで耐え切れるかは不明である以上、奇襲効果を発揮させる為には急がねばならない。

 弾痕が穿たれた壁や、銃弾を過剰に撃ち込まれた無残な死体を意に介さず進み、左方向への曲がり角で片手を挙げて停止する。ヨハンナが握り拳から二本の指を立てて角の向こうに敵二人の意を伝えると、サキは僅かに近づいて爪先でヨハンナの踵を突き、準備良しの合図を出す。

 ヨハンナが角から僅かに姿を晒すと同時に、サキが素早く通路右側の壁へと移動し、二人は武装した人影を視界に収める。引き金を引くのは視界に収めたのとほぼ同時、脊髄反射の域であった。一人、二人と銃弾を浴びて倒れ、合図には無かった三人目が視界に残るが、それも武装を確認したため倒れるまで銃弾を叩き込み、見える範囲の敵を排除した。


「二人って言った」


「耳が悪くなったかな」


 三つの死体に駄目押しで一発銃弾を撃ち込みながら前進、耳栓無しでの銃声はやかましい事この上なく、一度銃声を鳴らせば後は止まってなど居られない。前方の廊下はT字に分岐し、負傷者を引きずったであろう血の跡が右へと続いている。よく聞き取れないが呼びかける様な叫び声もその方向から聞こえ、進むべき道を示している。鳴らした銃声自体はテロリスト共と同じであるから、知覚はされたであろうが敵とは認識されなかったかもしれない。しかしそういった憶測はミスを生み、致命的な罠となって命を奪いに来る。油断はせず、敵が此方に銃口を向けていると仮定して行動するのが正解だろう。

 先頭を行くヨハンナは角を右に曲がり、それに続くサキは左を――ヨハンナの背後――をカバーする。こういった場合では一度角で止まり、両端から対角線上に射線を交差させながら角を潰すのが正解だが、今はスピードを重視したのでそうしなかった。ヨハンナの視界には二人の男、一人はこちらを向き、もう一人は背後を向いている。武装あり、そう認めると後は身体が刻み込まれた運動を自動的に実行する。セミオートで連射し、胴体と顔面に銃弾を叩きこまれた男は仰向けに倒れ、銃声に反応したもう一人はサキの放った弾丸を浴びて横倒しになる。倒れてからも数発撃ち込んで念を押す。

 二人の男は破られた扉の前におり、彼らの目当ての人物はこの部屋に居るようだった。政府高官の宿泊する部屋らしくスイートルームで、その中からは争う声はするが、銃声は止んでいた。ヨハンナは手榴弾を取り出し、ピンに指を掛けた所でサキが制止するように肩に手を置いた。


「ちょっと、政府の偉い人が居るんでしょ、巻き添えになったら」


「知らんよ、今ので確実にバレてんだ。ノコノコ入ったら弾食らうぜ。もし巻き添えになったら運が悪かったな」


「流石にまずいよ」


「どうせ私達が行かなくても死ぬんだ。運が良けりゃ助かって、悪けりゃお陀仏。一つ、運試しと行こうぜ」


 呆れるサキを尻目にヨハンナはピンを抜き、スイートルームに手榴弾を投げ入れた。炸裂音にガラスが割れ調度品が砕ける音が混じり、死体から溢れる血の匂いに火薬の香りが混入する。濛々と立ち込める煙の中に二人は踏み込み、その奥に這いずる満身創痍の影を見る。Tシャツ姿で脚が千切れ、伸ばした手の先には拳銃が転がっている。そこまで見た所でヨハンナはその背中に銃弾を見舞い、壁にもたれる武装した男にも射撃を浴びせた。

 23階に入りここまで倒した数は七人、残りは一人だったが見回せど姿は無い。ヨハンナが数え違いかと勘繰った所でベッドルームから情けない叫び声が聞こえ、戸口から二人の男が重なった影となって表れる。見るからに仕立ての良い高級スーツを血で汚し、恐怖に怯えた表情の政府高官を伴ってテロリスト最後の一人が現れる。くたびれた軍服姿の男は政府高官のこめかみに拳銃をめり込ませ、血走った目でヨハンナ達を睨んで呼吸を乱している。


「銃を捨てろ!動くなよ、コイツを殺すぞ!」


 男はお決まりのセリフを吐き、ヨハンナ達に銃を降ろすよう要求する。だがこのような行為に出た者が無事に逃げ果せた試しなど無く、この男が迎える結末など一つしか残されていなかった。この男も薄々は分かっているのだろうが、それを認め難いがためにこのような行為に走らせたのだろう。泳ぐ視線が男の仲間を捉え、作戦が失敗に終わり、自身がどうしようも無く追い詰められているという事実を男に認識させた。最早どうする事も出来ぬというなら、一縷の望みをかけて高官を人質に取り、ホテルから脱出を図ろうとするよりも、当初の目論み通り政府高官を始末してしまえば彼ら革命の戦士の中では英雄になれただろう。

 必死な男と恐怖に引き攣った政府高官の表情に反して、ヨハンナとサキは呆れた顔をしていた。革命の為と言う大言壮語を掲げて殴り込んで来たと言うのに、最後の最後で自分だけ助かろうとする、あまりにもお粗末で、情けない振る舞いにヨハンナは興醒めしていた。これで高官を殺し、最後まで銃を握って戦っていたならばまだ楽しみ甲斐もあったが、こうも情けないと当初あった憤りやスリルを楽しもうとする心情も吹き飛び、不快感の方が勝ってしまう。


「早く捨てろ!」


「あぁハイハイ、わかったよ。うるせえな」


 ヨハンナは銃口を下げ、そのまま男の左膝を撃ち抜いた。男は悲鳴と共に体勢を崩し、咄嗟に拳銃の引き金が引かれるが、放たれた弾丸は天井に穴を穿つだけだった。男は呻きながらヨハンナに狙いをつけようとするが、すかさず胸に銃弾が撃ち込まれ、もんどりを打って床に沈んだ。


「クリアか?」


「クリア、多分」


 床に倒れる最後の一人に残弾を全て撃ち込み、空になった弾倉を弾いて再装填するとヨハンナは大きなため息をつき、部屋の角で怯える高官の元へと歩み寄る。何事かをうわごとの様に呟き、呼びかけに応じない高官の胸倉を掴んで立たせると、怯える情けない顔を数度ひっ叩き、怒鳴りつけて意識をこちらへと向けさせた。


「おい、おい!呆けてんじゃあないぞ。怪我は無いか」


「な、ない。大丈夫だ。膝を打ったぐらいで」


 事態が呑み込めない高官は目を泳がせ、なぜ自分がテロリストに狙われたのか、そしてテロリスト達を始末し、自分の胸倉を掴んでいる珍妙な格好の女は何者なのか、今すぐには出てこない答えを模索していた。

 ヨハンナは高官をソファーに座らせ、手榴弾の炸裂で燦々たる有様のミニバーから無事なウォトカのボトルを取り、追加の気付けにと高官に手渡した。


「助かったよ、ありがとう。急に押しかけてきて『革命の為だ』とかどうとか言う物だから、話も何もあった物じゃなくて。君らは何なんだ」


「私の事はどうだっていいんだ。ただまぁ、助けてやったし一つ頼み事を聞いちゃくれないか?」


 助けてやった。先程人の生死を運試しに手榴弾を投げ込んだ人間の言う事ではないが、ヨハンナは都合の良い事にそれを忘れたかの如く口にした。テロリストの死体から銃をよけ、弾薬を抜いて無力化していたサキは横で聴きながら、自分も酒を一杯やりたい気分を覚えていた。


 時刻は午前十時半と少し、すっかり高い位置に昇ったカリブの太陽が割れた窓から陽光を流し込み、遠く地上から響くサイレンがスイートの静寂を強調する。バカンス二日目の午前中、ヨハンナは硝煙の香りを肴にウォトカのボトルを呷った。


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