第2話 兄妹

 盥一杯に汲んだお湯を頭からかぶるとすっきりした。

 湯船にゆっくりと浸かると、手足の先までじんわりと解されて行くのを感じる。

 頬を引っ叩かれたり引っ張られたりした事実はともかくとして、こうして家に上がらせて風呂にまで入れてくれた見ず知らずの彼女たちには感謝だ。


 あれからかね夕凪ゆうなぎは彼女たちの家に案内してくれた。レンガ造りの二階建てで一見洋風だが、中に入ってみると一階は襖で仕切られた畳の部屋が並び、調度品も和物が多い印象だった。

 お茶を飲んでいるうちに風呂が沸かされ、とりあえず入って来いと放り込まれた次第である。

(そういえば他に人がいる気配ないけど……)

 この家には矩と夕凪の二人しか住んでいないのだろうか。それにしては部屋も多く、広々としている。

(いや、そんなこと言ったらオレも一軒家に一人暮らしだけどさ)

 仕事で両親が海外赴任中、兄は遠方の高校の寮に入っているため、たまに帰ってくる他はほぼ一人の生活である。近所に祖父母がいるのがありがたい。

(てかあいつらって兄妹なのかな?)

 あんま似てないよなあと、そんなことをぼんやりと思いながら、露草つゆくさは緊張を解くようにふうーっと息を吐き出した。

 風呂から上がると脱衣場の籠に、上下黒の服が置いてあった。元々着ていた制服は濡れたまま別の籠に放り込まれていた。

 着替えて長い廊下を真っ直ぐに進むと、どこからかおいしそうな匂いが漂ってきた。同時に腹の虫が空腹を訴える。

 右手の襖の向こうから矩と夕凪の声が聞こえてきた。


「――それにしても似てましたね」

「ああ。あたしも一瞬まさかと思った」


(何の話だろう?)

 露草が襖を開けると、二人の会話がピタリと止んだ。畳の間の奥に続く板間から、揃って露草の方を見ている。


「お風呂、ありがと」

「お湯熱くなかったですか?」

「うん、丁度良かった」


 夕凪は雑炊をよそった椀をテーブルの上に並べていた。廊下まで漂っていた良い匂いの正体はこれか。ふんわりと温かい湯気が鼻腔をくすぐる。


「さ、露草も来たし早く食べよう。お腹すいた」


 矩が自分の席に着き、その隣の椅子を引いて露草を促した。風呂に食事と次から次へと至れり尽くせりである。童話だったら、この後に何かとんでもないことが身に降りかかるのだろうなとちらりと思いながら、「いただきます」と一口目の雑炊をゆっくり噛みしめる。

 おいしい。しっかりと出汁が染み込んだ米とまろやかな卵が最高にマッチしていた。露草は夢中で椀の中のやわらかい米を掻き込んだ。


「お前、そんなに腹減ってたのか」


 気付けば夕凪と何か話していた矩が、露草を見てあ然としていた。


「お代わりまだありますからね。いっぱい食べて下さい」


 夕凪が席を立って鍋ごと持ってくる。食事の席でこの家のことや彼女たちのことを聞こうと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。露草は遠慮なくお代わりをし、鍋の中を綺麗にしてしまった。

 せめてもの礼ばかりと洗い物を引き受けた。露草が洗い終わった食器を拭いて行く夕凪に、何気なく質問してみる。


「なあ、夕凪と矩って兄妹? この家他に住んでる人いないの?」

「兄妹も同然に育ってきましたが、血の繋がりはないですよ。そうですね、少し前まではもう一人いたんですけど、今は私と矩の二人だけで暮らしてます」

「それって……」


 聞いていいのかどうか迷い口ごもると、夕凪はさらりと言ってのけた。


「矩の両親が数年前に亡くなって、矩の実の兄も姿を消してしまいました」

「え……」


 想像以上の事実に頭を殴られた気分になった。夕凪は顔色も口調も変えることなく淡々としている。


「私は矩の御父上にお世話になって、そのまま居候している身です。まあ矩が物心つく頃にはすでにいたので、つい最近まで本当に兄だと思われていたくらいです」

「そ、そうなんだ」


 まだ出会って間もないが、確かに夕凪と矩の間には信頼関係が見て取れる。

 夕凪と二人で食器を片付けた頃、風呂に入っていた矩が戻ってきた。


「夕凪、お先」

「はい」


 矩と入れ替わりで夕凪が風呂に向かう。居間で茶を啜っていた露草の前に、卓袱台を挟んで矩が座る。濡れた赤茶の髪をタオルで拭きながら、矩はじっと露草を見ていた。


「……何」

「いやあ、今日初めて会ったわりに全然人見知りとかしないなあと思って。ご飯も遠慮なくお代わりして綺麗に完食してくれたし」


 後半は若干嫌味に聞こえなくもないが、矩は素直に感心しているふうだった。


「オレも不思議なんだけど……何かお前らって話しやすいと言うか……」


 どこか安心感があるというか。実を言うと露草は極度の人見知りではないが、初対面の人とすぐに馴染める性格ではない。しかし不思議と、矩や夕凪とは馴染むのが早かった。

 それはきっと彼女たちが、どこから来たかも分からない見ず知らずの者である露草を家に招き、当たり前のように風呂と食事の世話を焼いてくれたからだろう。矩には頬を引っ叩かれたりもしたが、話しているうちに彼女も夕凪も、良い人だと分かった。

 そんな彼女たちだからこそ、こうして全く見知らぬ世界に来たらしいのに普通にご飯を食べてくつろいでいられるのだと思う。


「ふーん」


 矩が少し嬉しそうに頬を緩める。風呂上がりで上気した赤い頬と相俟ってかわいく見えた。だから、つい口を滑らせた。


「あ、女の子だ」

「あ?」


 矩が目を眇めて露草を睨んだ瞬間、かわいらしい顔は幻と消え去る。


「何でもないです……」


 露草は残念さを隠しきれずそっとため息を吐いた。

(矩と話してると男友達と話してるみたいだよな)

 髪を拭き終えた矩はタオルを畳みながら、思い出したように言った。


「そうそう、明日、城に行くからな」

「城?」


 そういえば城下町がどうとか言っていたか。露草のイメージとしては、もうすでに主のいない観光地としての城が頭を過ぎる。それか、某テーマパークにあるような西洋の城か。


「お前にはこの世界の統治者に会ってもらう」

「統治者?」


 矩の言葉を理解できず鸚鵡返しにする。彼女は何でもないことのように頷いた。


「そう、この雲世界を統べる者。この世界で一番権力を持った偉いヤツ」

「……何でオレが」


 露草は呆然とした。そもそも、この世界で一番偉い人にそう簡単に会えるものなのだろうか。どう見ても矩は一般庶民という感じだ。この世界の統治者は民と親交が深いのか。


「お前がここに来た理由を統治者は知ってるはずだ」

「!」


 露草がここに、この世界に来た理由。


『選ばれたのがお主で良かった』


 桜の木の言葉を思い出す。露草は一体何に選ばれたのか。

(選んだのは、もしかしてその統治者?)

 ぼんやり考えてみるが、その答えは分かるはずもない。


「できればあたしはあいつに会いたくないけどな。お前を一人で行かせるのもかわいそうな気がして」


 矩の低い呟きが耳に入り、露草の胸に不安が過る。


「え、何、統治者って怖い人なの?」

「さあ? 別にあたしは怖くないけど。ただ、気に入らないだけだ」

「気に入らない?」

「……個人的な理由だ」


 矩が目を伏せる。その一瞬、唇がぎゅっと噛みしめられ、苦々しげな表情が見えたような気がした。


「まあとりあえず、今日はもう休め」

「うん……そうだな」


 気を取り直したような矩の言葉に、露草は素直に頷いておいた。


「部屋は二階に上がってすぐ右側の部屋を使ってくれ。――あたしの兄ちゃんが使っていた部屋だ」

「矩の……」


 実の兄か。確か夕凪の話では姿を消してしまったのだったか。


「オレが使っても良いのか?」

「ああ。それにすぐに用意できるのはその部屋しかなかったからな。好きに使ってくれて良い」


 矩はそう言いおくと「おやすみ」と言って居間を出て行った。

 露草は湯呑みを洗ってから二階に上がった。

 二階には四つの扉があった。その内の二つは矩と夕凪の部屋だろうと推測する。

 言われた通りすぐ右側の扉を開けると薄暗い部屋が出迎えてくれた。電気をつけると、青い絨毯が敷き詰められた部屋が見えた。

 左壁にベッド、右側に机、そして突き当りに掃き出し窓――その向こうは小さなベランダがあるようだ。

 ぱっと見は殺風景だが、ここに誰かがいたらしい温かさは残っているように感じた。

 緊張が抜けたのか、どっと疲労を感じた露草はベッドに倒れ込もうとして――写真立てに目を奪われた。

 写真に写っているのは、人懐っこい笑顔の黒髪の少年だった。年は露草と同じくらいだろうか。フレームにメモが挟まっていて、そこには【樹氷じゅひょう・十五歳】とある。


「樹氷……?」


 もしかしてこの少年が、いなくなったという矩の兄だろうか。

 写真の中の彼に目を凝らす。不思議と、どこかで会ったような感じがした。

(どこで……)

 ベッドに倒れ込むと自然と瞼が落ちて来た。

 意識を手放す寸前、脳裏をひらりと何かが過ぎった。

 それは、桜の花びらだった。

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