原罪とは、ただの本能

『実録昭和平成事件簿』的なものがお好きな方にお勧め。
 高いところで筆力がキープされている熟練の書き手さん。多くの作品をまとめて投稿されているので、どこかで書き溜めておられたのだろう。


『人生を真面目に考えられる奴は、俺から言えば、『生きる哀しみ』というのを全く知らない奴らだった。』


 文中にさらりと織り込まれているこんな科白にぞくっとする。人生を真面目に考えられる人は『生きる哀しみ』を知るからこそ、『考えられる』のではないかと想うが、この科白を云い放ったのは、死刑囚だ。
 衝動的な強姦殺人を繰り返して遺族を哀しみの谷底に蹴り落したお前が云うなよ、と突っ込みたくなる。

 犯罪者のほとんどは、ある種の脳の奇形であり、惻隠の情も自省する能力も足りない。
 だからこそ、「怖いから死にたくない」(被害者もそうだろうとは事前に考えない)、「そんなつもりじゃなかった」「赦しは大切なんだぞ?」と加害者のくせに被害者に向かって云ってしまう。
 考える能力がないわけではないのに、目先の欲望にすぐに負ける。
 そしてそんな犯罪者の、本能のままに滾り出す暴走は、死刑囚に向き合う二人の教誨師がそれぞれに同じ重みで身の内深くにもっている。
 道を分けたのは運なのか、それとも聖母の存在の有無なのか。

 複雑に絡み合った登場人物たちの因縁の中、穢されてもなおも清いシスターの存在だけが、聖母のように我々から遠い。
 著者は尼さんがお好きなのだろう。
 私たちが卑小で卑俗であればこそ、それは仰ぎ見るものであり、穢したいものであり、それでいてずっと清くいて欲しい。
 処女懐胎をした聖母マリアに対して人間が突き付けてきた注文は、身勝手なものすぎる。
 原罪というならば、マリアに負わせたものこそ、それかもしれない。