7

「やあ、久しぶり」


『檻』の中の彼は、僕に気づいて手を上げた。僕は『檻』の扉を勢いよく開け放った。月光が彼を照らし出す。やっぱり——。彼は黒いスーツを着ていた。


「どうしたんだい。しかめっ面をして」


彼は陽気な口調で言った。僕は間髪入れずに彼に問うた。


「あんた、怜の兄貴だろ——」


彼はにやりと笑い、前髪を掻き上げた


「その通りだよ、爽くん」


冷や汗がつぅっと首筋を伝う。僕の読みは当たっていたのだ。少し間をおいて呼吸を整えてから、僕は改めて彼に投げかけた。


「あんたは、どうして此処にいるの?」


彼は答えた。


「此処に来ると、怜に会えるような気がするから」


突っ立ってないで入りなよ、と彼は言った。僕は促されるまま彼の隣に腰を下ろす。彼は前髪を掻き上げてこちらを見やった。そう言えば、この人とは此処で会う前に一度、形見分けの時に会っているのだ。随分前のことだし、あの一回きりしか会ったことがなかったから全然思い出せなかった。改めて顔の全体を見ると目元がどことなく怜に似ているような気がした。彼は目を細めて、柔らかい笑みを浮かべた。昔を思い出しているようだった。


「俺の思い出話に、付き合ってもらえるか」


僕は黙ったまま、こくりと頷いた。

 

 *

 俺の前にはいつだって決まったレールがあったんだ。うちの親父は会社の社長でね。俺は待望の長男だったから、親父の跡を継いで社長になる、そんなつまらないゴールに向かって進む他道がなかった。小さい頃から期待をかけられて、事あるごとにあなたは未来の社長なんだから、って言い聞かせられてきた。半ば洗脳のようにね。だから、俺はすっかりその気になっていて、両親の期待に応えようと必死だった。けれど、成長するにつれて、その洗脳が次第に解けていった。友達が嬉々として自分の夢を語る時、ふとある感情が湧いてきた。羨望だよ。心底羨ましいと思った。何のしがらみもなく、自分の道を自分で選べるのだから。どうして、俺は自分の意思で夢を持っちゃいけないのか。そんな違和感を積み重ねていくうちにもう何が何だか分からなくなっちまったんだ、自分ってやつが。自分のためじゃなくって、ただ誰かのために生きているだけのような気がして、それがむず痒いと言うか、気持ち悪かった。期待されると、それが酷く重たく感じた。燻っていたその何かが急に弾けたわけじゃなくて、いくつもの気泡が徐々に弾けて消えてく感じ。後に残ったのは虚しさだけだ。それからさ、勉強が手につかなくなっちまったんだよね。偽物の夢のために頑張る気力が失せちまったのかな。成績は悪くなる一方。家族仲もその頃から悪くなっていった。


 あの頃、俺は家に居場所がなかった。けれど、唯一怜とは心を通わせられたんだ。親父と口論して、部屋に閉じこもってた時、あいつが俺を外に連れ出してくれた。一緒に行きたいところがあるって。で、着いたのが此処。中に入ろって誘われた時、訳が分からなくて笑っちまったんだ。此処で肝試ししたんだろ?その時のことを楽しそうに話してくれた。俺への慰めをくれるわけじゃないんだって少しがっかりしたけれど。それでも、怜があんなに生き生きしてるところを見るのは初めてだったから、その姿に励まされた。親友ができたって、そう言ってた。あいつは小さい頃から勉強も運動もできて、あまりにも完璧過ぎるせいでなかなか友達ができなかったんだ。そのせいかやけに大人びていた。だから友達以上の親友って言葉が彼から出た時、俺は心底嬉しかったんだ。自分まで救われたような気がした。それからこの中で、あいつ、俺に言ったんだ。


「案外ゴミクズくらいに思われてた方が、何でもできちゃいそうじゃない?」


その時は素直に受け止められなくて、俺への嫌味かってイラッとしたけれど、多分怜なりに俺を励ましたかったのかなーって、今は思う。価値がないって思われてた方が、無敵になる、というか何も怖くなくなるだろ。誰の目も気にしなくていいし、失敗し放題。怜は怜で、他よりちょっと出来すぎるせいで多分な期待を背負ってて悩んでた節もあったみたいだから、俺の気持ちも理解してたんじゃないかって……そんな気がする。


 此処に来ると、あいつのことを思い出す。俺に見せてくれたはにかみ顔とか、彼なりに精一杯考えて言ってくれた不器用な言葉とか。あいつの温かいもの全部。夏だというのに、何故かこの時期になると無性に触れたくなるんだ。どうしてだろうな。あいつに会いたくなる——。


 これが、俺が此処に来る本当の理由さ。


 *

 「どうして、俺が怜の兄だと分かったんだ」


彼が聞いてきた。


「缶酎ハイだよ。あんた、怜の墓の傍に捨てていっただろ」


怜の墓の近くに転がっていた缶。ピンクグレープフルーツの缶酎ハイ。彼が此処でよく飲んでいた銘柄だった。


「墓地に捨てるなんて、そんなことするかよ。あれは供え物だよ!」


彼が心外だと言わんばかりに声を荒げて言った。そう言えば、倒した時中身が溢れていた。あれは彼に捧げられたものだったというわけか。いや、待て。怜は生きていたとしてもまだ未成年だぞ、と言いそうになったが、すんでのところで言葉を引っ込める。


「もしかして、最近ほぼ毎日此処に来てる?」


代わりに質問する。彼は頷いた。


「怜の命日が近いからかな、あいつのことを思い出したくなっちまって。ろくに飲めもしないのに酒持ってさ。酔ってないと、どうにかなりそうだから」


彼は自嘲気味に笑った。それから、僕の胸元を指差して言った。


「それ、着けてくれてるんだ」


片翼のペンダント。そうだ、今日はこれを着けてきたんだ。すると、彼は胸元から見えるチェーンを引っ張り上げた。その先に見えたのは……あぁ、銀色の片翼。


「ペアネックレスなんだ。あいつの誕生日に、ちょっと奮発して買ってやったやつ」


此処で初めて会った時も彼はそのネックレスをしていた。肌身離さず付けているのだろうか。もしかすると、彼にとって、これは本当に大切な思い出の品なのかもしれない。


「これ、僕なんかが持っていてもいいのかな」


「あぁ、あいつもきっと喜んでるだろうよ。親友に、こんなに大切にしてもらってるんだから」


彼は満足げに言った。親友——。僕は本当に、彼にとっての親友に、なれたのだろうか。今でも分からない。だって、僕は、あの日、怜が死んだ日に——。もうこれ以上耐え切れなかった。このまま、総てを僕だけの中に閉じ込めておくのは無理なのだと分かった。これを運命と呼ぶのだ。彼と巡り会った偶然が、僕を自白へと至らせたのだ。気づけば、口を吐いて出ていた。


「僕は、あの日、怜に酷いことをしてしまったんだ」






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