3

 今日はまっすぐ家に帰った。一応僕は受験生なのだ。少しでも勉強時間を作らねばならない。『檻』にいた彼のことも少しは気にかかったが、どうせただの酔っ払いだ。あんなのをいちいち相手にしていられない。そう思って机に向かって勉強に取り掛かろうとした。しかし、どうにも身が入らない。数学の問題を解いていても、気づけば僕の視線は問題集から逸れて宙を見ている。特段難しい問題というわけではない。別の事につい思考を働かせてしまい、気が散って仕方ないのだ。お陰で一向にページが進まない。調子が悪いまま続けても身にならないし、少し休んでからにしよう。そう思ってシャーペンを置き、伸びをする。ふと、棚の一番下の段にあるノートに目がいった。思わず手に取る。これは、もしや……。表紙には『夏の大冒険』という陳腐なタイトルが書かれていた。パラパラとページを捲ると、拙い文字がびっしりと敷き詰められている。鉛筆で書いたのだろう、所々潰れたり擦れたりしている。懐かしい。僕が小学生の頃に書いた小説だ。物語は未完のままだ。文章が途切れた次のページに貼られた写真を見て、感嘆の声が漏れた。懐かしい友人との写真だった。少年二人が破顔して映っている。指で彼らの輪郭をなぞる。僕、そしてその隣の、


 れい——。


満面の笑みでこちらを見ている彼。彼がこの写真より成長することはなかった。

 

 彼は、あの夏に死んでしまったから——。

 

今でも、確かに覚えているのだ。あの喪失感、あの虚無感。大事な何かが突然欠落してしまった、あの絶望。あぁ、怜——。久しく思い起こすことがなかった。それは時の経過だけが理由ではなくって、僕が思い出したくなかった、思い出すことを避けようとしていたからだ。思い出す度に彼がまだその記憶に閉じ込められたまま、あの日の姿のままでいることが辛かったのだ。彼のあのあどけない、柔らかい表情が次第に解像度を増して、はっきりと形作られる。色褪せていたあの頃の記憶が、今鮮明に蘇る。

 

 *

 怜は謂わば何でも出来る奴だった。模試は全国ランキングに乗るほどだし、トレーニングしてないのに県の陸上大会の選手に選ばれたこともあった。クラスの人からも一目置かれていた。けれど、そんな怜だが、実際は非常にお茶目だった。僕はと言えば、何の取り柄もない普通を絵に描いたような人間だった。強いて特技を挙げるならば、少しだけ文章を書くのが得意だった。作文を先生に褒められたことで図に乗り、小説もどきのものを書くようになった。今思えば、あの頃の僕は純粋で、悪く言えば至極単純な奴だったのだ。


 僕らは隣の席になってからあっという間に仲良くなった。きっかけは僕の小説。初めて人に読んでもらって、彼は僕のことを凄いと言ってくれた。これまで自分の才を褒められるようなことがなかったからか、その時はとても嬉しかったのだ。自分のことを認めてもらえたような気がして、彼のことを好きになった。僕が彼にちょっかいをかけると、彼も次第に僕にちょっかいをかけるようになって、一緒に遊ぶ仲にまでなった。それから本当に沢山の馬鹿をやって、沢山叱られた。あの『檻』での肝試しを企画したのも僕らだった。僕と怜はお化けの役をした。二人で白シーツを被って大きな怪物のように見せたのだ。揺らめくシーツの中で見せたあの微笑み。小麦色の肌に触れる吐息。懐かしい、あの匂い。そうだ、あの時だ。彼と約束をしたのは——。あのシーツの中で僕らは語らい、そして一つだけ小さな、けれど大きな約束をした。


 まるで檻みたいだ、と僕が言ったときだ。彼は二人だけの静寂の内に言った。此処は閉ざされた匣だと。


「きっと俺らが見ている世界もこうなんじゃないかな」


俺らには狭い檻の中しか見えてない、世界はもっと広いのにね、何処か悲しげに遠くの方を見やったのだ。酷く大人びた姿で、彼に神聖なものが宿ったような気さえした。彼はこう続けたのだ。


「でもね、君がいるから世界が鮮やかに見える。たとえちっぽけでも狭くとも、深くて綺麗なんだ」


だから——


君だけは変わらないでね——。


あぁ、それが僕と彼との約束だった。その約束は結局果たされなかった。そして、彼は死んでしまった。あの夏の日に。



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