第2話

 今朝、部屋を出た時に隣の子供達と初めて会った。兄妹でどちらも小学生なのはランドセルで分かったものの、年齢の予想はさっぱりつかない。挨拶ついでに昨夜の不審な音について聞きたかったが、兄の方に「知らない人と話したらいけないんで」とけんもほろろに断られてしまった。「隣人」様だよ、クソガキが。


「前の入居者、なんで死んだんですか」

 出社早々所長室へ押し掛けた俺に、まだ脂控えめなマルチョウは卑屈な笑みを浮かべて「おはよう」と答えた。

「別に隠してたわけじゃないよ、君が聞かなかったから」

「でも俺の前に何度か失敗してたのは黙ってましたよね」

 椅子を回し背後の本棚からファイルを引き出すマルチョウに、恨み言をぶつける。

「これが前の入居者の資料だよ。これ以上の情報はないけど好きに調べてくれたらいいし、悪魔祓いとかしてくれたらもっとありがたい」

 マルチョウは俺にファイルを差し出しながら、重たげなまぶたの肉をもたげて俺を見上げた。……こいつ。

「知ってたんですか」

「いや、珍しい苗字だから家族か親戚じゃないかと思ってただけ。息子の結婚式で世話になったんだよね。園譜えんぶ牧師は、君のお父さん?」

 粘りつくような視線に舌打ちしてファイルを奪い取り、デスクへ戻った。

 前の入居者は「毎晩深夜二時に女が部屋に訪ねてくる」と何度か訴えていたらしい。それに対して、うちは「監視カメラには何も映っていなかった」と報告しただけ。馬鹿か死ね。自死はその三日後、備考欄には事件を担当した刑事の名刺が貼られていた。

 受話器を取り、ひとまず大家に電話をかける。十回以上鳴らしてようやく応えた声に、貧乏ゆすりの膝を止めた。


――そういや、刑事さんにも前の大家さんのこと聞かれたわ。多分わしよりよう知っとられるけえ、聞いてみたらええ。

 のらりくらりとした会話の最後になって掴んだ手掛かりに、ファイルに貼りつけられていた名刺をもぎ取り会社を飛び出した、のだが。

「だから、この刑事さんに話が聞きたいだけなんですって」

 頑なに応じない受付に名刺を突きつけ、面会を要求する。電話だと断られるのが分かっていたから警察署まで乗り込んだのに、このままでは無駄足になってしまう。

折辺おりべには来られたことをお伝えして、折り返し連絡させるようにしますので」

 それは絶対に来ねえパターンだろ。

「なら、折辺さんが戻って来るまで」

「私に何か用ですか」

 冷ややかな声に振り向くと、その声にふさわしい佇まいのインテリヤクザ……ではなく、刑事が立っていた。名刺に『警部補』とあったから六十手前のおっさんを予想していたのに、ぱっと見は四十辺りだ。冴え冴えとした銀縁眼鏡が切れ者っぽくて鼻につくが、実際怜悧なのだろう。不躾な俺を一睨みした炯眼にはっとして、居住まいを正した。

「突然申し訳ありません。私、本絹地にあります堂島どうじま不動産の園譜と申します」

 折辺は名乗った俺に頷き、顎で外へと促す。受付に軽く手を挙げたあと、俺を連れて外へ出た。

「半年ほど前、うちの賃貸で入居者が首を掻っ切った一件の捜査をされましたよね」

「ええ。自死と判断されて途中で打ち切られましたが」

 裏階段の近くで足を止めた折辺に、手持ち無沙汰で取り出した煙草を勧める。吸いませんので、と拒まれて驚くと、皮肉げな薄い笑みが応えた。

「実はその部屋で度々『奇妙な現象』が起きてまして、私も昨晩、実際にその現象を体験しました。それで今朝から調べてて大家にも話を聞いたのですが、刑事さんの方が詳しいのではないかと教えてもらいまして」

 俺だってできれば現実的な話をしたかったが、致し方ない。オブラートに包みながら経緯を端的に伝えると、折辺は心当たりがある様子で頷いた。取っ掛かりは成功か。

「あの一件は精神疾患による衝動的な自死と処理されましたが、前の大家に少し丁寧に話を聞いたら、以前にもあの部屋で似たような自死があったことが分かりました」

 脅したんだな、と察すのは難しくない。

「六年ほど前、当時は母子の二人住まいでした。ただ母親が新興宗教の熱心な信者で、近所やアパートの住人にも布教して回ってましてね。かなり苦情は寄せられていたようです。ただ布教への意見や苦情といった状況は、彼らにとって修行か極楽行きへの布石といった扱いなんですよ。『耐えれば耐えるほど徳を積む』とか『神の道では正しい』とか、洗脳された連中は皆似たようなことを言います。多分、その母親もそうだったんでしょう。それに、娘が耐えきれなくなったんです」

 続いた折辺の話は俺にも身に覚えがあるもので、冷水を浴びさせられた心地になった。

「当時娘は小学六年生で、母親の布教活動を嫌っていた。だから母親が布教活動に出掛けた時に鍵をして、締め出したんです。当時は『入れろ』『入れない』で騒ぎになって、警察うちにも通報の記録がありました。その時はひとまず不動産屋に鍵を開けさせることで解決したんですが」

 初めて見えた翳りに、奥歯を噛み締める。こんな勘は当たらない方がいいが、きっと当たってしまうのだろう。

「その晩、母親が無理心中を図ったんです。娘を刺したあと、自分は首を掻き切った。娘は一命を取り留めましたが、本人は死亡しました」

 少しだけ救われた結果に安堵したと同時に、母親の霊が現れる理由も察せた。あの母親は今も、娘に開けて欲しくてさまよっているのではないだろうか。だから、娘ではない人間が開けてしまったら。

「娘さんに、会えませんか。信じてもらえないのは承知ですが、その母親の霊が今もアパートにいるんです。前の入居者が首を掻き切って死んだのも、その霊のせいです。どうにかしないと死人が増えます」

 解決には多分、娘の力が必要だ。端から見れば頭のおかしい男だろうが、死人が増えるよりはいい。訴えた俺を、折辺は黙ったまま見据える。相変わらず突き刺さるような視線だが、意外にも蔑む色はなかった。

「チハラユミ。身寄りがなく、今は隣の市にあるさくらがわ福祉会の児童養護施設にいます。彼女にとっては二度と触れたくない過去かもしれませんが、訪ねてみたらいいのでは?」

 あっさりと与えられた情報に、半ば呆然と折辺を見つめる。確かに身元は明かしたが、それだけで俺を信用したのか。どうでもいいことまで疑うのが刑事だと思っていた。

「ありがとうございます。あの、さっきの話、信じてくれたんですか」

「この仕事してると、いろいろありますから。あとはまあ……少しばかりそういう向きには縁深いもので」

 苦笑で眼鏡のブリッジを押し上げる折辺の手首には、黒い紐が結ばれていた。懐かしい、ミサンガか。見える人なのかもしれない。では、と踵を返した折辺に改めて礼を言い、俺も警察署を後にした。


 帰宅時間を狙い車を走らせて一時間ほど、着いた施設は夕飯時か、腹の鳴る匂いが漂っていた。時間的には問題なかったはずだが、受付で対応した職員は予想どおり面会を許さなかった。まあ児童養護施設の性格を考えれば赤の他人を、しかもユミにとっては忘れたい過去を思い出させる人間を、そう簡単に受け入れるわけがない。この玄関ホールも奥に大きな扉があって、訪問者に中を見せないようになっている。でもこちらも、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。

「折辺って刑事さんに聞いてきたんですが」

 ダメ元で折辺の名前を口にし名刺を差し出した途端、職員の表情が和らぐ。

「ああ、折辺さんの。それでしたら……少しお待ちくださいね、会うかどうか聞いてみますので」

 あっさり許されて驚く俺を残して、職員は受付の奥へと消えていった。あの刑事、どんだけ顔が広いんだ。まあ、とりあえず助かりはした。あとはユミが応じてくれるかどうかだが、そこはもう賭けるしかない。

 すりガラスのはまったドアの向こうに子供達の声を聞きながら、溜め息をつく。六年前に小六なら今は高三、児童養護施設も最後の年だ。独り立ちの準備は、もうできたのだろうか。

――俺は死んでもあんたみたいにはならねえ。

 叩きつけた十八の決意に、親父はいつもどおりの艱難辛苦に耐えるような表情をした。

 聞こえた声に靴先から顔を上げると、向かいのドアからさっきの職員ともう一人、少女が出てくるのが見えた。ユミだろう、華奢で線の細い大人しそうな娘だった。応じてくれたのは嬉しいが、違う不安が募った。

 ユミと挨拶を交わしたあと、面会室へ案内される。同席を申し出た職員を受け入れて、俺は二人にあの部屋で起きたことを全て伝えた。

「このままだと、お母さんはこれからもあの部屋に住んだ人を殺し続ける。君がドアを開けてくれるまでは、終わらないんだ」

「話は、分かりましたけど……私はもう、あの人には会いたくありません。幽霊でも。私を、傷つけることしかしない人だったので」

 向かいの椅子に座ったユミは、か細い声で拒絶する。長い黒髪が、所在なさげに揺れた。

「お母さんが宗教にはまってたのは聞いてる。実は僕の親もそうでね。僕は宗教……多分五世くらいかな。代々クリスチャンの家で育って、父は今も牧師をしてる」

 自分の話を始めた俺に、ユミは明らかにこれまでと違う表情を浮かべた。初めて得た「同類」なのかもしれない。

「小学生の頃、僕のあだ名は『キリスト教』だった。性質の悪い奴に目をつけられて、いじめられてた。僕は父に牧師を辞めて欲しくて、何度も頼んだ。でも父は僕の訴えを信仰の試練と捉えて、親として向き合ってくれなかったんだ。いじめを訴えても『お前は神の道を歩んでいるんだ』と、学校に言ってくれることすらなかった」

「それで、どうしたんですか」

 さっきより生気に満ちた口調でユミは尋ねる。

「分かり会えないまま、十八で家を出たよ。住み込みで働きながら勉強して資格を取って、今は不動産関係の仕事をしてる。家を出て十五年経つけど、一度も帰ってない。それでも、何かあればすぐ殴りに行けるよう同じ市内には住んでる。父のためじゃなく、傷つけられた誰かのためにね」

 最後まで聞き遂げて、あ、と乗り出していた体を引く。

「気持ちが固まるまで待つから、できるなら協力して欲しい」

 俺が差し出した名刺を受け取り、こくりと頷いた。


 連絡は予想より早い翌日に届き、早速この週末で片を付けることになった。迎えに行った時には緊張していたユミも、夕飯を一緒に食う間に打ち解けて今は客用布団で寝ている。眠れないかもと不安そうだったが、日付をまたぐ頃には寝息を立てていた。十八はもう成人扱いだが、まだまだかわいい生き物だ。

 煙草を取れない指でDKの床を連打することしばらく、携帯の時計が二時を示す。聞こえ始めた靴音に、和室へと這った。

「起きて。音が聞こえ始めた」

 掛けた声にユミはすぐ反応して起き上がると、髪を一つに結ぶ。大きく深呼吸をして俺を見上げた。頷いて玄関を指差し、揃ってDKへ向かう。

「聞こえる、この音だよ。せめて近所の人のところに行くのはやめてって言ってたのに、やめてくれなかった。すごくきらいだった」

 苦しげな声に手を伸ばし、頭を撫でる。今日は明るいDKで、はにかむ笑顔がよく見えた。

 玄関前でしゃがみ込み、耳を澄ます。少しずつ近づく音に、否応なく緊張が増していく。部屋の前で止まった音に、頷き合う。かり、といつものようにドアを掻く音が響いた。

「お母さん」

 小さく呼んだユミに、音はぴたりと止む。

「……あ、ああ……ユ、ミ……あけて、え」

 これまでと違う猫撫で声だった。ユミは青ざめて、呆然とドアを見つめる。

「大丈夫だ、絶対に守る」

 触れた肩は小さく揺れたが、やがて意を決したように立ち上がりドアへ向かう。大丈夫だ、念のため刃物は全部処分してあるし、母親はユミに開けて欲しかったのだから、これで。

――その晩、母親が無理心中を図ったんです。

 不意に蘇った折辺の声に、はっとする。

 ……ああ、しまった。馬鹿か俺は。

「下がれ!」

 ドアを開けたユミの腕を掴んで、勢いよく背後へやる。隙間から滑り込んだ影は一気に膨らみ、俺に襲い掛かった。

「園譜さん!」

「大丈夫だ、隠れてろ!」

 首にまきついた黒いモヤは、やがて人の手に変わる。そのままするすると、長い髪を垂らした女の姿になった。でも、顔は……目が歪み鼻は崩れて、口にいたっては顔の中央から喉辺りまで広がって裂けている。もう、人ではない。

「お母さん、やめて!」

 背後から響く声に、女を睨みつける。

「あんたのしたかったことは、宗教にのめり込んで娘を殺すことだったのかよ。一緒に幸せに暮らしたかったんじゃねえのかよ。あんたはなんのために神様を拝んでたんだ!」

 もがきながらぶつけたが、それ以上は締め上げられて声にならない。顔が熱く、耳鳴りがし始めた。視界の端では、長い髪が刃物を操っている。畜生、自前かよ。

「いい加減にしてよ!」

 背後から泣きそうな声とともに飛び出してきたユミが、女に向かってピンクのプラスチックバットを振り回す。夕食で行った回転寿司の、レジ横で売ってあったやつだ。それじゃ無理だろ、と苦笑で買ってやったが、マジで無理だからやめてくれ。

「私は昔のお母さんに戻って欲しくて、『やり直そう』って言ったの! 生まれ変わってって意味じゃなかったのに、なんで、全部宗教の話にしちゃったの? 頼むから、これが最後でいいから」

 泣きながらも必死に訴えるユミの声に、首を絞める手が少し緩む。見ると、歪んだ目がじっとユミを見据えていた。

「大好きだった、『私のお母さん』に戻ってよ!」

 胸を突く悲痛な願いに手が離れ、俺は為す術なく落下する。荒い咳をしながら確かめた女は、見る間に縮んでどこにでもいそうな「おばさん」に変わった。

「お母さん」

 恋しげに呼ぶユミを見たあと、消えていく。お母さん、ともう一度呼んだ声には、すまなげに笑んだような気がした。

 ……終わった、か。

 うわあん、と突如幼児のように声を上げて泣き出したユミに、咳を静めて手を伸ばす。

「おつかれさん、よくがんばったな」

 抱き締めて震える背をさすり、握り締めていたピンクのバットを回収した。

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