RはリドルのR

GB(那識あきら)

無音の響き (1)

「ヒーカーリー! たーすけてー!」

 初夏のキャンパスに、素っ頓狂な声が響き渡る。

 名を呼ばれた雛方ひながたひかりは、渋々といった様子で足を止めた。大きな溜め息一つ、胸元にかかる髪をばさりと揺らして、声の主を振り返る。

「助けて、ヒカリ! 壊しちゃった! サトル兄ちゃんのっ、姉ちゃんがっ、姉ちゃんでっ、おこっ、おこここ、怒られるー!」

 勢いよく駆け寄ってきたのは、ヒカリの友人の松山茉莉まりだった。さらさらのショートヘアを振り乱しながら、半べそをかいて、助けてくれと繰り返す。

 ヒカリはもう一度大きく息を吐き出してから、やれやれ、と両手を腰に当てた。

 いわゆる女性らしい体形をしていることや、美容師さんに「天然のゆるふわウェーブ、ズルいわぁ」と羨ましがられる髪型のお陰で、見た目で性別を間違われることはないものの、飾り気のないパンツスタイルが常態のヒカリは、ガーリーな茉莉の横に立つとまるで女形か男役といった風情だ。剣道部の紅一点を三年間経験すれば、誰だってこうなる、というのがヒカリの持論だが、誰だって、の部分に異議を唱える者は少なくない。

「ちょっと落ち着け。誰が何をどうしたって?」

「だから、壊してしまったの! どうしよう、ヒカリ、直せる? 直せないよね? 同じの、どこかで売ってないか知らない? ああ、どうしよう、姉ちゃんに殴られるー!」

 パニックを起こして頭を抱える茉莉を、ヒカリは黙って見守り続けた。この茉莉という人間は、下手になだめたり慰めたりすると、余計に焦って更なるドツボに嵌まりゆく傾向があった。そのことを、ヒカリは三年間の高校生活を通して、骨の髄まで思い知っていたのだ。

 ひとしきり百面相を繰り広げたのち、茉莉はようやく落ち着きを取り戻した。その間にヒカリが知りえた情報は、たったの一点だけ。茉莉の家の近所に、彼女の姉の同級生であるサトル兄ちゃんとやらが住んでいる、ということのみである。

「落ち着いたか。なら、順を追って話せ」

「うん。だから、オルゴールなのよ。どうしよう? どうしたらいい?」

「順番に、だ。いいか? 頭から順番に」

「う、うん。だからね、今日、姉ちゃんの誕生日でね。朝にサトル兄ちゃんが、プレゼント持ってやってきて、生憎姉ちゃんは演奏会前の合宿で留守で、とりあえずプレゼントを預かったんだけど……」

 大学生協前の木陰のベンチに、並んで腰をおろすや否や、茉莉はまたも興奮した面持ちでヒカリに迫ってきた。

「それがね、壊しちゃったみたいなのよ!」

 ヒカリは、馴れたものとばかりに冷静に先を促した。

「オルゴールを? 落としてしまったとか?」

「ううん、落としてもぶつけてもないよ」

「それなら、なんで壊れたってわかるんだ?」

「…………」

 ヒカリの問いを聞いた途端、茉莉の目がいきなり泳ぎ始めた。

「待て。もしかして……」

 刺々しいヒカリの声音に、茉莉はあたふたと両手を振りまわした。

「だって、あのサトル兄が姉ちゃんに何渡すんだろ、って、気になって……」

「……他人へのプレゼントを開封したのか……」

 がっくりとヒカリが肩を落とす。

「開封ってったって、箱剥き出しで、この紙袋にぞんざいに突っ込んであるだけだったし……、しかも箱の蓋、封されてなかったし。って言うか半開きだったし!」

 冷ややかなヒカリの眼差しに負けじと、茉莉が両手を固く握り締めた。

「だってだって、お互い気にしてるのバレバレの状態で、もう十年だよ? 今更何をプレゼントするんだろ、って気にならない?」

「つまり、お互い意識し合っている男女の、その男のほうが一念発起して贈ったプレゼントを、贈られた本人のいないところで、その妹が勝手に開封して、壊してしまった、と」

 ヒカリはそこで小さく溜め息をつき、それからナイフのごとき一瞥を茉莉に突き刺した。

「最悪だな」

「反省してマス」

 身体を小さく縮ませた茉莉が、神妙な声で頭を垂れた。

「正直に話して、怒られな」

「そうだね……。やっぱりその場凌ぎはだめだよね。マジ殴りされるかもだけど、きちんと謝るよ」

 弱々しくうなだれる茉莉が、微かに身を震わせているのを見て、ヒカリは思わず首をかしげた。

「殴られる、って、茉莉の姉ちゃんって、そんなキャラだっけ? 優雅にピアノ弾いているところしか知らないんだけど」

「それは思いっきり騙されてるって。怒ると、それはそれは凶暴なんだから」

「へー、意外だ」

 佳人の思わぬ一面に感心する一方で、ヒカリは眉間にそっと皺を寄せた。

 ヒカリと茉莉は、高一で同じクラスになって以来の腐れ縁だ。長い付き合いのお陰で、お互いの長所も短所もそれなりに把握し合えている。

 そう、ヒカリの知っている茉莉は、確かにおっちょこちょいの調子乗りであるが、礼儀知らずではない。姉妹同士ということで対応が多少ルーズになったのだとしても、彼女が他人への贈り物をぞんざいに扱うとは、ヒカリにはどうしても思えなかった。

「ちょっと、それ見せてみ」

「あ、うん」

 茉莉が弾かれたように背筋を伸ばして、紙袋の中へと手を突っ込んだ。滑稽なほど急いた様子で、小さな箱を引っ張り出す。ヒカリと違って茉莉は自宅生だ。隣県にある家から大学までバスや電車を乗り継いで一時間半、彼女が必死の思いでこの紙袋を抱えてきたことを思うと、なんとかしてやりたいという気持ちがヒカリの中に湧き起こる。

 箱の蓋が開いた瞬間、眩い反射光がヒカリの目を射た。

 箱から出てきたのは、一辺が五センチほどの透明な立方体だった。何の飾りもついていないアクリルの正六面体の中、真鍮色のムーブメントが、まるで宝物のように鎮座している。箱の横に突き出した小さなハンドルが、シリンダの動力源なのだろう。よく見ると側面の下部に小さなかみ合わせがあり、どうやら底面が外れるようになっているらしい。

 ヒカリは、木陰の映り込みを避けるようにして、箱の内側へと目を凝らした。それから、大きな溜め息をついた。

「これは、直せんなあ」

 ゼンマイ式ではなかったが、その構造は普通のオルゴールに同じ。回転するシリンダに植えられた小さなピンが、すぐ横に設置された金属製の櫛の歯を弾いて音を出す。その、幅僅か一ミリほどの歯の一本が、途中で折れて、短くなってしまっていた。

「瞬着(瞬間接着剤)で……とか、無理かな?」

「この狭い断面じゃ接着できないだろうし、仮に着いたとしても強度がもたない。そもそも外見を取り繕ったところで、元どおりの音が出るわけがない。つうか、このカケラはどこ?」

「それが……、見あたらないのよ」

「じゃあ、何を接着するつもりだったんだ?」

 あきれ返るヒカリの視線を避けるように、茉莉は小さく身をすくめた。

「何か……カケラの代わりになるものが無いかなあ、って……」

「あると思う?」

「ああ、やっぱりぃいー?」

 茉莉が悲劇のヒロインさながらの身振りでその場に突っ伏した、その時、ベンチに何かの影が差した。

「最初っから折れてた、ってことはないのか?」

 驚いて振り返った二人の目の前、一人の男子学生が立っていた。

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