菜津子の夏

清瀬 六朗

第1話 たぶん、普通未満

 ぱつっ。

 ぱつっ。

 ぱつっ。

 菜津子なつこの右手の親指と人差し指が、キャミワンピの胸のところをつまんで引っ張り上げ、その布で胸をはじいている。

 繰り返し弾いている。

 はっとして、やめる。

 ふうっ、と息をつく。

 こんなことをしてしまうのは、いま解いている数学の問題が解けないからだ。

 手に負えない問題ではない。立体図形と数列を組み合わせた問題で、それぞれの知識を使えば、たいして難しくもないはずだ。

 でも、どういう順番でそれをやればよいか、というのを考えると、頭のなかで線がこんがらがった感じになり、先に進まない。

 右手にシャープペンシルを持って、考える。

 進まない。

 あ。

 今度は、シャープペンシルを持っていない左手が、キャミワンピの上から右胸のふくらみの下半分をむぎゅっとつかんでいる。

 ぽっつりした出っ張りを手でつつみ込んで、つかんでできたボールを上へ投げ上げるように、ぶん、ぶん、ぶん、と揺すっている。

 さっきの「ぱつっ、ぱつっ」のリズムと同じだ。

 このリズムが自分のリズムなんだ。

 そんなことがわかっても、嬉しくもない。

 意識を問題に集中させなければ、と思うけど、それで自由に動けるようになった無意識が、手に、指に、自分の胸をいじらせる。

 最近、急に大きくなってきた菜津子の胸。

 いや。

 高校三年にもなって、ようやく大きくなってきた菜津子の胸。

 クラスの女子のなかで大きいほうではない。

 見るからに「巨乳!」って子がクラスにもいる。白い夏制服で、胸のところが目を見張るくらいに大きくふくらんで張っていて、目のやり場に困る。

 そんなのと較べると、菜津子のは普通。

 いや、たぶん、普通未満だ。

 それに、菜津子はせているので、制服を着るとぶかぶかで、ますます胸が目立たない。

 そんな大きさの胸なのに、気がついてみるといじってしまうのは。

 やっぱり、まだこの胸が自分にとって異物だから、なのかな。

 それで、胸が大きくなくても美人ならばいい。

 でも菜津子は美人でもない。

 鼻は高くはないけど、鼻筋は通っているほうだと思う。唇も小さくて形もいい。頬もすべっとしていて、形はまるい。

 そこまでは美人要素だと自分で思う。

 でも、背が低い。

 それに、目が寄りすぎ。

 中学校卒業から高校一年のころまで、大人の女らしく見えるかな、と思って髪を伸ばしたことがある。

 でも、目が寄っていて、髪が長く背中に伸びて、それで背が低くてちょっと猫背。

 高一の五月、夏服への衣替えのとき、自分で姿見すがたみを見てひやっとした。

 まるで、柳の下の幽霊だ。

 気づいて、次の日に髪を切りに行き、髪の長さを肩の線まで戻した。

 だめだ。

 そんなことを考えている場合ではない。

 この夏が過ぎれば、受験。

 自由の効かない推薦は応募しなかったから、何にしても試験は受けなければならない。

 数列。

 立体座標。

 点と点の距離。

 2乗して、足して、平方根。

 でも、それを使った作業を実際にやろうとすると、手は動かない。

 動かないだけならいいけど、それはほうっておいたら、また胸を……。

 そう。

 いまは、シャープペンシルを持った右手の手首の甲の側で、右胸を下から押している。

 むん。むん。むん。

 同じリズムだ。

 やめよう。

 集中しないで数学の問題に向かっていても、はかどるのは自分の胸いじりだけだ。

 さっき、お母さんにお風呂に入りなさいと言われ、数学の問題を解くまで待って、と答えた。

 じゃあ、お風呂に入ろう。

 お風呂に入っても胸をいじったりこすったりするのかも知れないけど、お風呂ではほかの部位もいじったりこすったり洗ったりするのだから、そのほうがましだ。

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