第5話

 佐島はこれから起こるであろうことを順に考えている。伯父さんは佐島の父に電話し、父は持ち前の陽気さで切り抜けようとする。おそらく、伯父さんは電話口に奥さんも同席させる。言い逃れできないように用意周到に準備する伯父さんは、怒りに任せて今すぐ電話をすることはない。


 俺は口角を歪めて微笑み、玄関から一階へと階段を駆け下りた。何をするにしても、猶予は父が実家に帰宅する夕方だろう。


 俺はコンビニでタバコを買って来いと佐島に命じた。佐島は俺の欲しいものの察しがついたので暗い表情で足取りも重くなる。俺がこれからお前の深層心理に眠っている嫌悪感を解消してやる。そうすればお前はさらに自由になれる。


 二時前のコンビニは閑散として、客は小袋の菓子類を買っていく若い女性が二人いるだけだ。


 佐島は俺の考えを思いとどまらせるために、一度レジから一番遠い飲料水の冷蔵庫に向かう。さっきも来たことを思い出したようで苦笑する。


 レジで俺はタバコを注文した。目的はタバコではなく、ライターだ。タバコを吸う習慣はない。ライターとついでにタバコの会計を済ませて満足すると、佐島が不満そうになる。懐が寂しくなったのか。はたまた俺のライターの向かう先の予想がつくのか。佐島の予想したのは桜だ。正解。


 桜は人々の光。


『――人生はじめから格差があっていい訳がない。温かい家庭。何不自由のない暮らし。生きているだけで幸せそうな人生。人間は不幸をベースに徐々にのし上がるものではないのか?』


 いやいや、俺は否定する。


《俺は生まれながらに幸福だ》


 佐島は理解に苦しんでいるので詳しく説明してやる。


《アニマルである人間の俺たちが衣食住を与えられ、飲まず食わずで餓死することがないのは幸福なことだろう。俺は幸福な生き物だ》


 日本で餓死するのは難しいということを佐島は理解したようだ。だが、精神的な餓死ならできるだろうか? と消えてしまいたい衝動を佐島に与えてしまったようだ。

南H公園を過ぎ、大通りを抜けて片側一車線の道路に赴く。川沿いの桜の名所であるI公園が現れる。


 午後二時半。眩しく白い光さえ放っている桜。風が花びらをさらって人々の元へ運んでいくのを俺は幻視する。佐島一人ではあれをどうこうする力はないが、なんとかしたいとは思うはずだ。見る者の心を捉える桜など、佐島の代わりに俺が燃やしてやる。佐島だってそうしたいと思うから俺に意見しないんだ。桜は無条件に人々から愛されている植物で、その場から一生動くことなく寵愛を受ける。


 佐島は車道から公園にどう入ろうかと考えあぐねいている。横断歩道が遠いが、そちらまで歩いて行った。


 バスが通り、道路は排ガス臭くなる。遠くに雨雲が湧き上がっている。


 家族連れが自転車で桜を見ながら走り去って行った。


『脇見運転するならそのまま死ねばいい。自分には夢がないけれど、あの家族には夢が詰まっている』


 佐島もなかなか過激だな。


『人間もアニマルなのだから、好き勝手に生きるのが本来の姿だろう? 理性なんてもので欲望を制御しようとするから人間はストレスが溜まるんだ。自然の生き方に反している。本来人間は野生生物のように自由に生きなければならないはずだ』


 佐島が感情を失くしたように突然立ち止まる。


『本当にあの桜を消せるのか? D、お前がやるのか?』


《俺がどうするかはお前がよく分かってるはずだろ》


 俺は凄むと佐島は何も抗議しない。


 佐島は俺ならなんでも実行に移すことができると信じている。だが、ついてくるのに必要な自信がない。身体の大部分を律っしているのは佐島なのにな。


 もう一度冷静になって考えてもらいたいところだ。佐島が俺をDと呼んで必要としたから俺はここにいる。俺は佐島の生命を脅かす敵を打倒するための防護壁となるべく生まれた。佐島のおぼつかない手と足の代わりに前進するのはこの俺だ。佐島の分身であり、佐島より『今』を謳歌している。だから、俺と同じ次元にこいつをつれて行くんだ。佐島が自信喪失で未来を悲観し、絶望しているのなら俺はお前が幸福度のどのレベルに位置しているのか教えてやる。


 歩く度にズボンの内で太ももの側面を滑っているライター。これで何に火をつけるのかと佐島は今更問うてきた。


 分かりきったことだ。桜が百五十本もあるI公園を標的にする。繁華街に近い桜の名所なので、多くの人が訪れていた。まずはギャラリーを分析してみる。


 ドーム型のジャングルジムの傍で腰掛ける世間の喧騒とは無縁の老夫婦、白いシーソーで終わりのない上昇と下降を繰り返すカップルの中学生の男女。恐竜の滑り台を上によじ登る幼稚園児たちの群れ。公衆便所横のベンチで横臥している浮浪者の男性。川沿いの桜の木の下で真横の車道の排ガスを吸い込みながら缶ビールとチューハイで乾杯している同じ年ぐらいの二十代女性の二人組。


 佐島にとってはどれもこれも『むかつく』人間たちだ。


《アニマル、人間もアニマルだ》


 俺の連呼に対し、佐島は滑稽な空想をはじめる。


『Dが猿だったなら老夫婦の残り少ない白髪を引っつかみ、引き倒して足か腰に怪我を負わせる。それか、豹なら上昇したシーソーの男子に飛び掛かるし、女子の喉も噛み砕く。恐竜の滑り台が陸ならば、サメになったDが幼児の群れを砂場の砂漠から追い回して、結果幼児らが命からがらあの恐竜滑り台に辿りつくんだ。公衆便所の横の浮浪者には悪いが、Dは偏食家のシャチのようなものだから、あれは食わない。やはり、凄惨な死を迎えてもらうのは同年代の女性二人組か――』


 昼から花見とは陽気なものだと佐島は思う。人は動物のように《生きるための闘争》をしていない。参加する権利もない。佐島は夢もなければ、スキルや経験もない。だから就職活動を書類で弾かれる。勝負を挑む前から除け者にされてしまうんだ。もし、就職活動がバトルロワイヤルならその方がきっと潔く断念できるだろう。体力を基準とした選考だ。銃は流石にないだろうが、斧や包丁を手に、目標とする企業に就職したいライバルたちと血飛沫を飛ばし合いながら争う。佐島にはぴったりだ。力で負けるのなら悔しくもない。


《こうしてはいられない》


 俺は桜の元へ、斜面になっている雑草の上を駆け上がる。


 チューハイを飲む女性二人組の他、奥にもシートを広げて宴会しているサラリーマンもいた。


 俺は枝を垂らして咲いている無邪気な桜の木に寄り添う。その桜は枝垂桜でもないのに、下向きに枝を伸ばしてしまったため、周囲に人気ひとけがない。おそらく昨年の台風で突風にあおられて傷んでしまったままなのだろう。


《これがあるからいけないと思わないか?》


だから浮かれた人が集まってくるのかと佐島はわずかながら頷いている。


『確かに。……春は怒りと絶望と復讐の季節だな』


《なんて凡庸な考えなんだ》


 俺は佐島を嘲笑う。


 佐島はライターをポケットから取り出したとき、スマホにメールの通知が来たのでびくりと身を震わせた。メールの文面を見て肩に岩でものしかかるような重さを感じている。コンビニバイトが決まったようだ。明日から来てくれと書かれている。残念ながら内定の通知ではないが、佐島にはバイトも人生を左右する大きなイベントだと大げさに考えている節がある。


『俺はDとは違って凡人だ』


 妄信が過ぎるが今度は笑わないでおく。業務が複雑化しているコンビニバイトでは佐島は苦労するだろう。


 俺はスマホをズボンのポケットにねじ込み、意味深に微笑む。


 佐島のライターを握った右手が汗で湿っていたが、俺が顔を出したことで乾き始める。


 陽光で透けて見えるソメイヨシノ。


《お前に燃やせるのか?》


『それは――』


 車道から大型トラックが排ガスと温風を運んでくる。咳き込む同年代の二人組の女性。ふと、一人と目が合う。女性はチューハイを手にしたまま固まっている。佐島の手にはライターが握られていたからだ。火はついていないんだが。


 佐島はやっぱり無理だと思い、人に見られていると放火なんてできやしないと怖気づいた。俺に悪態をつく。


『放火は夕方から夜にやるもんだろう』


佐島は駆けるようにして桜から離れた。


《女が怖いのか》


『非難される筋合いはない。敵は女ではなく不特定多数の春を謳歌する者だ』


《まだ火も点けないうちから、憶病風に吹かれて》


 俺は歌みたいな調子で告げる。


『ふざけるな』


《それにしても、親父は潔白なのに、どうしてあんな嘘をついたんだか》


『嘘をついたのはお前だろ』


《気が重いのか? 気楽にやろうぜ。お前は引っ込んでてもいい。そのために俺がいるんだからな》


 佐島は不安な表情で唇を噛む。嫌な思いをさせるつもりはなかった。これから佐島の人生に対してのリベンジを行うのに、しょげてもらっては困る。

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