月に叢雲、俺に君

ニル

一、いたちごっこ

 乱暴な風に乱され、寺の中庭の枝垂れ桜が廊下に白く散らされた。

 障子戸の開く音がして、間も無く背の高い尼僧が寝巻きのまま廊下に現れた。彼女は口を一文字に結び、涼しげな表情の中に一抹の不満を滲ませている。

 

珠景すかげ様!」

「おさと、ちょうどいいとこに。何がやられた?」

 二人は青白い月影に染まる外廊下を大股で急いでいる。お怜と呼ばれた若い尼は、小走りになりながら眉を八の字にした。寺の庵主あんしゅ珠景の眉目秀麗な面立ちを見上げる。

「鶏を四、五羽と聞いております」

「十日も経たずにこれなんだから」

「今法衣を……」

「いらんよ、邪魔になるだけさ。それより弓の用意を」

 珠景は持ってきた腰紐を口に咥え、手際よく襷掛けをした。

 

「すぐにっ」

 お怜は神妙な面持ちで頷くと、背を向けて走り去った。それを微笑ましげに見送った後、珠景の切れ長の目がすっと細められ、視線が風上へと流れる。

 

 参道に出ると、鬱陶しい疾風が珠景の頬に塵を叩きつけた。薄い夜雲が有明月の輪郭をぼかしている。それを仰ぎ見て、珠景はふんと鼻を鳴らした。

「懲りないねえ」

 駆け寄ったお怜から弓具を受け取ると、珠景は胸当を被りかけを右手に巻き付けながら、月光に白く光る石段を駆け下りた。

 

 里の外れの芒野原すすきのはら鎌鼬かまいたちが人を斬った。そんな噂が流れてきたのが一月前。芒の葉で切ったのだろうと放っておけば、その数日後には家畜を襲う獣の噂ときた。ついに半月ほど前、里の端にある尼寺の庵主、珠景に物怪退治の話が舞い込んできたのだ。維新だの神仏分離だので慌ただしいこのご時世に、余計な面倒ごとで夜半に起こされゆっくり寝ることもままならない。

 

「今宵はとりわけ、きっちり仕置きをしてやろうか」

 不敵に笑う珠景は、ぐっと力を込めて弓につるを張った。そのしなりを確かめて「上等、上等」と独りごちると、芒の藪へと踏み入る。

 無数の葉の擦れ合いが一層大きくなり、強風の勢いで袖から伸びる白い腕を薄く切った。

「お怜、お前はそこに。葉っぱで肌を傷つけてしまうからね」

「しかし珠景様は」

「あたしはいいのよ。葉の動きで奴を捉えやすい」

 

「余裕綽々だな、尼法師あまほうし

 

 星月夜に青白い野の奥から、旋風と共に声が駆け抜けた。

「若い娘を土産に持ってくるとは、気の利く女だ」

 芒のさざめきから、若い男とも老爺とも取れる低い声。愉快げなそれが左右に動き回り笑うと、珠景の細い眉がぴりりと釣り上がった。

「お怜、鏑矢かぶらや

「ここに」

 珠景は後ろ手に矢を受け取り、矢羽を鉉につがえた。

 

「姿が見えなくて弓を引けんだろ」

 かかか、茶化す笑い声が縦横無尽に駆けける。珠景はさして気にせず、芒の葉がたなびく音に耳を澄ませた。

「骨ばった年増なんぞ好かんが、切り刻んだ暁にはその血を存分に味わわせてもらおう」

 珠景は何も語らないまま弓を打ち起こし、引き絞った。朱漆のまあるい矢尻が、雲間に差す白光をきらりと反射した。


「はははは、当てずっぽうで俺が——」

 放たれた矢が、甲高く戦慄き風を切り裂く。

「ぎゃあっ」

 かと思えば、矢の行方からしゃがれた悲鳴が聞こえ、微風が芒の群れくすぐる音だけが残った。

 

「やれやれ、ようやく静かな夜が来た」

 残心をとりながら呟き、珠景は芒をかき分け鏑矢と声の主の回収に向かう。

 彼女が立ち止まり見下ろす先には、無雑作に転がる矢、そして前足が鋭い鎌となった大鼬おおいたちが伸びていた。

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