《黒紅》序 - 肆

「……じゃあ、言うけど」

「うん」

「出勤前に仕事関係の話は聞きたくないんだけど。……じゃない。きみ……えっと、瑠璃るりだったか? 何で俺の部屋にいる訳? 確かに個人部屋は鍵さえあったら誰でも入れるけどさ、普通は用があってもズカズカ入ってこないだろう。便宜上は新年度だって言っても、特に出勤時間の変更もない訳だし……寝ていても問題ない時間だろう?」


 そのような相手には、立板に水となる。


「……」

「……」


 壁に掛けられ、カチカチと時を刻む針は未だ出勤時間の捌時はちじよりも程遠く、漆時しちじを指している。


「――職員の中でも『黒』系統の眼を持つ人間は稀に見かけるが、どうにも全員が揃いも揃ってなよなよしていて好かない。『黒』は『赤』などと違い希少なのだからそれ相応の態度――皆の模範となるような態度をとるべきではないのか? しゃんとしろ」

「はぁ……」


 黒紅が嘆息混じりの相槌を打つと、瑠璃は柳眉を顰め絶句した様な表情をした。


「なんだよ」

「こっちの台詞だ」

「はぁ、朝から疲れる……」

「……瑠璃も疲れた。何なんだ、あんた」


 想像以上にヒトの話を聞かない事と、我が道を突き進む傲慢さに辟易すると共に、思わず何度目かの溜息が零れた。

 初対面でどうしてここまで貶されなければいけないのか。何が瑠璃の気に障ったのかは分からないが、相性は最悪だという事を黒紅は理解する。


「本当に何しに来たんだよ、きみは。俺を貶しに来ただけな訳じゃないんだろう?」


 そうして、また一つ溜息。

 一瞬、そうだった、とばかりに口を開きかけた瑠璃であったが、ふと思い立ったかのように徐に窓へつかつかと近寄る。白く汚れ一つないカーテンを掴む両手。それが、左右へ勢いよく引かれた。


「うわっ、眩し…っ」

「まず、この陰気な部屋を明るくさせるためにカーテンを開ける。話はそれからだ」


 広い部屋に、ポツンと一つだけある窓から陽光が零れ落ちる。一気に部屋が明るくなった事で、思わず黒紅は眼を細める。

 ベッドの向かい側から降り注ぐ光。徐々に、部屋がその光に浸食されるかのように、明度を上げ、そして部屋の隅々まで明かりが行き届いた。

 先程まで薄暗かった部屋は、窓からの陽光のおかげでじわじわと明るくなった。


「急に明かりを広げないでくれ……」


 此方へ背を向ける形の瑠璃に、黒紅は抗議の声を上げる。

 黒紅の訴えに頷く様子もなく、瑠璃はちらりと顔だけで振り返る。何かを企んでいるのか、口角が僅かに持ち上がり、紅の引かれた唇が陽光に当てられ、てらてらと艶めく。


「空気も入れ替えるか」

「馬鹿言わないでくれ、外の水が入るだろう。俺を溺れさせる気か、きみは」

「本当に入るのかな。これ、試した職員なんていないだろう。瑠璃は聞いたことも、視た事もない」


 水。

 黒紅と瑠璃が視つめる先。窓の向こう、ガラスを隔てた先には、一面の水が拡がっている。

 黒紅達が住まう建物……宿舎自体が水の底に在り、上空から光が照っているのだろうか。それとも、水自体が発光しているのだろうか。黒紅の預かり知らぬところではあるが、とにかくその一面の水を介して、光が漏れ出ているのである。それがカーテンを開けることで広がる様に入り込むので、黒紅達は光を部屋に入れたい時などに便宜上「明かりを広げる」と呼称している。

 水、と表現はするが、暗い赤や薄い桃色、はたまた黒色などなど。時折、波に揺られるようにさらさらと、その水の中を色が彷徨うように流れてくる。色づいた水が窓を横切るたびに、黒紅は思わず眼で追ってしまう。あれが何なのかは、黒紅も、恐らく瑠璃も知らない。本で視た「海」や「川」の水の色とは異なる事は理解できるが、それ以上の事は杳として知れない。しかしながら、考えたところで答えが出る訳でもなく、あの「厄介」な司書姉妹たちに聞いてもはぐらかされるのは眼に視えている。


「瑠璃の方が驚いた」

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