11. かけがえのない魔法

 エニカの体はボロボロで、血と涙にまみれている。

 だというのに、その心は晴れ渡り、風を受け大空へと舞い上がる。

 大きく翼を羽ばたかせ、広い空を駆け回る。


 ここまでずいぶんと時間がかかってしまった。

 想像していたより体が痛く、息苦しいが、ようやく飛び立つことができた。


 例えここで殺されることになったとしても、その前にたった一度だけでも、この空を飛べてよかったと、エニカは思った。


 すると、レティが魔法銃に魔力を注入しながらエニカの傷だらけの体を眺めて言った。


「それにしてもあんた、魔法は使えないのかい? 多少なりとも使えるなら、攻撃するなり防御するなりすればいいのにさ。まあ、手間がかからなくて楽だからいいけどね。それとも、あたいらをなめてるのかい?」


 レティの鋭い視線を真正面から受け止め、エニカは小さく首を振った。


「魔法は使えます。でも、戦いでは使いたくありません」


 エニカの言葉に、レティは思わず吹き出した。


「ぶはっ! ははははっ! バカじゃないのかいあんた、魔法は戦うために使ってなんぼじゃないのさ。それを戦いでは使いたくないだって? 自分の命がかかってるってのに、本当にバカだね!」


 誰かを守るために自分の命を危険にさらす。

 そんなことは普通できない。なぜなら、人はいつでも生きたいと願うからだ。


 自分の人生は自分のものでしかない。

 他人の人生に手を出して自分の人生を壊してしまうなんて、愚か者のすることだ。


 ましてや、そのせいで自ら死の方向に向かうなど、頭のおかしい行動でしかない。

 家族や友人ならまだしも、今日会った赤の他人のために命を張って傷ついていく。

 そんな行為を、多くの者は愚行と罵るだろう。それが生物として正しい感覚だ。


 それを十分に理解した上で、エニカはその口に小さな笑みを浮かべた。


「はい、私バカなんです。すごく頭が悪くて、愚か者で、どうしようもなくて……。それでも、これだけは譲れません。いくら危険な目にあっても、魔法を戦うためには使いません」


 魔法は使える。

 しかし、戦うためにそれを行使することは決してしない。


 それは生物として間違った行動だ。レティと同じようにバカだと笑う者が大半だろう。


 守れるはずの自分の命を守らず、意識が飛びかけるほどに体を張る。自分でもバカだと思う。とんだ愚か者だと思う。


 しかし、エニカには必ず守ると心に決めた、たった一つの誓いがあった。

 その確固たる意志を持って、エニカは遠い記憶に思いをはせる。


「だって、私にとって魔法は、大切な友達ですから」



 ◇◇◇◇◇



 5年前、当時10歳のエニカは、小さな自分の部屋で一人、本を読むだけの毎日を過ごしていた。


 両親には外に出るなと部屋に閉じ込められ、エニカは狭く空虚な世界で日々を生きていた。


 友達はおらず、学校にも行っていない。勉強はたまに母が教えてくれる程度。

 後はすべて、絵本から学んだ。

 絵本に出てくるキャラクターはみんな楽しそうに外の世界を冒険していて、羨ましかった。


 窓の外では子供たちが青空の下を元気に駆け回り、友達と一緒に笑っている。

 自分もいつかこんなふうに、誰かと一緒に外の世界を駆け回りたい。

 それがエニカの願いだった。


 誰もいない小さな部屋は、エニカにとってあまりにも寂しすぎた。

 泣きそうになるのをグッとこらえて、それでも溢れてくる涙を拭う日々。


 そんなとき、エニカに魔法が発現した。

 正直、エニカは魔法なんてどうでもよかった。

 いくら魔法が使えたところで、外に出られるわけじゃない。その魔法を見せる相手もいなければ、自由に使える場所もない。


 せめて、この寂しい日々を紛らわせてくれるような華やかな魔法であれば、少しはこの虚しい日常が明るくなるかもしれない。

 その程度の淡い期待を込めて、エニカは魔法を発動した。


 それは、激しい炎でも冷たい氷でもない。

 いななく雷鳴でも巨大な樹木でも頑丈な岩でもない。

 光でも闇でも体術でも空間魔法でもない。


 どんな絵本でも見たことのない魔法。


 エニカの目の前に魔力が結集して少しずつ形を成していく。

 それは、四本足で長い首を伸ばし、頭には立派な二本の角が生えている。

 体全体が淡く白く光っており、優しい輝きを放つ。


 まるで鹿のような見た目のその生き物は、まっすぐにエニカの目を見つめた後、静かに頭を垂れた。


「主様、お初にお目にかかります。私は主様の忠実な下部。名前はございませんが、これから主様をお守りし、主様の盾となる存在。どうか、ご用があるときはいつでも呼びつけていただければと思います。早速ではありますが、なんなりとご命令を」


 幻獣魔法。自分自身の使い魔として、幻の獣を生み出す魔法。

 それは、前例のない極めて珍しい魔法だった。


 エニカはその幻獣の姿を見て目を見開き、開いた口を塞ぐことができなかった。


 親以外の誰かに話しかけられたのは初めてだった。

 こんなにまっすぐ目を見つめられたのは初めてだった。

 こんなにも優しさと温もりに溢れた声を聞いたのは初めてだった。


 その瞬間、エニカは側坐に命令を下した。


「お友達になってください!」


 友達は一人もいない。外で元気よく誰かと遊んだこともない。

 学校で誰かと一緒に勉強したり、ご飯を食べたり笑い合ったこともない。

 いつかそんなことをしてみたいと、目をつぶって妄想する日々。


 ゆえに、エニカが友達を望んだのは、あまりにも必然だった。

 鹿の幻獣はその返答に驚き、困惑した。


「あの、主様、私は主様の忠実な下部でございます。主従関係がある以上、お友達……というのは、いかがなものでしょうか?」


 幻獣という存在は、あくまで術者に忠誠を誓う従者でしかない。戦いの最前線に送ったり、自分を守る盾として使う。

 それが当たり前で、そうやって主の役に立つことが幻獣の存在意義だった。


 しかし、エニカは決して首を縦には振らなかった。


「ダメです! あなたは私のお友達です!」


 戦える魔法などいらなかった。自分の身を守るための魔法などいらなかった。

 エニカがほしかったのは、魔法でも力でもない。


 ただ、話しかけたら話し返してくれる、そんな普通の友達がいればそれでよかった。


「しかし……」


 視線を彷徨わせて渋る鹿の幻獣の目をまっすぐ見つめて、エニカは力強く言った。


「これは命令です!」


 その圧力に押され、鹿の幻獣はゆっくりと頷いた。


「……かしこまりました」


 命令という言葉には弱いのか、鹿の幻獣は渋々、友達になることを承諾した。


 主を守るという宿命を持って生まれたにもかかわらず、その主の友達になるなど、鹿の幻獣にとってはあまりにも恐れ多いことだった。


 しかし、そんなことは意にも介さず、エニカは嬉しそうに笑った。


「あなたは名前がないんですよね。なら私が考えてあげます!」


「そんな、私に名前を付ける必要などございません。名前など呼ばず、命令だけしてくださればいいのです」


 個性などないただの量産型の兵隊のように扱う。それでいい。それが宿命だと鹿の幻獣は思っていた。自分に注目すべき価値などないと理解していた。


 しかし、どうやら主にとっては、そうではないようだった。


「そんなのダメです! 私は名前を呼びたいんです! そうだ、“鹿さん”なんてどうですか?」


「それはあまりにも安直すぎるかと……」


 エニカはうんうんとうなりながら鹿の幻獣の名前を考え始めた。


 絵本からヒントを得ようとしたり、ベッドでごろごろしたりしながら考え続けた。

 しかし、悩んでいるにもかかわらず、その顔はずっと楽しそうだった。


 それはなぜか。主はなぜ、ただの駒でしかない自分の名前を、こんなにも嬉しそうに考えるのか。

 それがわからず、鹿の幻獣はエニカに声をかけた。


「主様、あなたが求める友達とは、一体何なのですか? 私にはその概念がよくわからないのです」


 友達とは何か。友達という枠組みの中では、どのような基準で上下関係が決まるのか。


 どんな友達が偉く、どんな友達がその配下となり忠誠を誓う必要があるのか。

 鹿の幻獣はどうしても知りたかった。


 その問いに、エニカは目を閉じてしばらく考えてから答えた。


「私にもよくわかりません。でも、友達はお互いを名前で呼び合うそうですよ」


 そう言ってまたエニカは絨毯の上で寝転び、頭を悩ませ始めた。


 エニカの返答はとても曖昧で、結局友達とは何なのか、判然としないままだ。

 それでも、鹿の幻獣の中で友達というものの形が、ぼんやりとだが見えてきた気がした。


「もしかしたら友達には、上下関係というものがないのかもしれない……」


 夜が更ける頃、エニカは眠たい目をこすりながら、なおも考え続けていた。

 子供はとっくに寝る時間だ。これ以上はエニカの健康にもよくない。


 そんな主の姿を見かねて、鹿の幻獣は近づいた。


「もうそろそろお休みにならないと、お体に障りますよ」


「うん……でも、もうちょっとだけ……もう少しで良い名前が……」


 エニカは何とか眠気に抗っていたが、とうとう耐えられなくなってすやすやと寝息を立て始めた。


「まったく、私の主様はなんとも頑固なお方のようです。主様にとって友達とは、そんなにも大切なものなのですか?」


 その顔に笑顔を浮かべながら眠るエニカに、鹿の幻獣はそっと毛布をかけた。


 エニカにとっては、初めてできた友達だったから。

 今まで、望んでも手に入らないものだと、諦めていたから。だから、友達の名前を考えるのは、まったく苦ではなかった。むしろ楽しくて仕方がなかった。


 自分がしていることに興味を持って話しかけてきてくれる。

 自分の体を気遣って注意してくれる。

 誰かがそばにいてくれる。そんな寂しくない夜は初めてだった。


 この日、今まで一人しかいなかったエニカの小さな世界に、友達が一人増えた。


 翌日の昼下がり、エニカは満面の笑みを浮かべて鹿の幻獣に言った。


「決まりました! あなたの名前はルーワンです!」


 紙に大きく書いたその名前を掲げて、エニカはキラキラと目を輝かせて笑った。


「ルーワン……それは、どのような意味なのでしょうか?」


「私の大好きな絵本に出てくる主人公のお友達の名前がルーなんです。そしてあなたは私の一人目のお友達で、一はワンとも言うから、合わせてルーワンです!」


 エニカの嬉しそうな顔。

 自分にとっての幸せは、主の忠実な下部として働くこと。


 しかし、主のこんな笑顔が見られるなら、友達も悪くないのかもしれないと、鹿の幻獣は思った。


 主が時間をかけて一生懸命考えてくれた名前。

 その名前を、こんなにも幸せそうな笑顔で呼んでくれる。


 鹿の幻獣の心に不思議な感情が芽生えた。

 温かく柔らかい何かが。


「気に入りました。ありがとうございます、エニカ様」


 ルーワンは微笑んで頭を下げた。


「あれ、今エニカ様って……!」


 今までエニカのことを主様と呼んでいたルーワンは、その日初めて、主の名前を呼んだ。


「はい、友達とはお互いを名前で呼び合うものだそうですから」


 嬉しそうに腕を振るエニカを、ルーワンは静かに見守った。


「初めて友達に名前を呼んでもらいました!」


 普通の子供なら、当たり前にしていることだろう。


 しかし、エニカにとってそれは、人生で初めての経験だった。

 友達に名前を呼ばれる、たったそれだけのことが、涙が出そうなほど嬉しかった。


 そんな今にも泣き出しそうなエニカの顔を見て、ルーワンは主の友達になることを心に決めた。



 数日後。


「エニカ様、そろそろ魔法にも慣れてきたと思いますので、新しい友達を増やしてみませんか?」


「え、そんなことできるの?」


「もちろんでございます。エニカ様の魔力量に応じて、生み出せる幻獣の数は変わります。今でしたら、もう二体ほど生み出せるでしょう」


「本当に! やってみる!」


 ルーワンの提案を受け、エニカは早速、両手に魔力を込めて幻獣を生成した。

 生み出されたのは、ルーワンと同じように白く光る体を持った、猫と羊の幻獣だった。


「主様! おはようございますにゃー!」


「何言ってるメー! 今は夜だからこんばんはって言うんだメー!」


「細かいことはどうでもいいにゃー!」


 何やら言い争っている幻獣たちを見て、エニカはにっこりと笑った。

 そして、猫と羊の幻獣をギュッと抱きしめた。


「にゃ!」


「メー!」


「二人とも、私のお友達になってください! 名前もすぐに考えますから!」


 さらに月日が経ち、エニカの周りには友達が一人また一人と少しずつ増えていった。


 その一人一人にゆっくり時間をかけて名前を考えた。

 今まで静かだった部屋の中が、だんだんと賑やかになっていく。


 友達と一緒に絵本を読んだ。友達と一緒に名前を考えた。友達と一緒に眠った。


 相変わらず世界は小さく狭いままだったが、エニカはもう一人ではなかった。


 エニカを守るために生まれてきた幻獣たち。

 しかし、エニカにとって幻獣は自分を守る盾でも駒のように操る下部でもなかった。

 そんなものは最初からいらなかったのだ。幻獣たちは大いに困惑した。友達とは何かわからなかったから。それでも、エニカと過ごすうちに、友達がどういう存在なのか、少しずつ理解していった。


 何にも代えがたい存在。

 絶対に何があってもこの存在だけは奪わせない。

 エニカはこの幻獣たちを、一生大事に守っていくことを心に誓った。


 エニカにとって幻獣は、かけがえのない大切な友達だったから。



 ◇◇◇◇◇


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