この百合はいつ咲くのだろうか?

椿ハルン

第1話 社会人

「将来、かなでお姉ちゃんと結婚する」


 これは昔の記憶。


 小学生の従妹が、高校生の従姉──奏に無邪気な笑顔で言ってきた言葉。


 そこに本来の意味なんて含まれていない。


 結婚は仲良しな人とするもの。


 そんな認識で言ってきた言葉だと奏は思っていた。


 でも。


 ……え? 可愛すぎ!


 奏は衝撃を受けた。


 数回しか会ったことのない従妹に、こんなにも好かれていることが嬉しかった。


 だから、奏は従妹と会うたびに可愛がった。それはもう親から異常と言われるほど構って構って構って構いまくった。


 しかし、従妹の家族は突如、遠くの街へと引っ越してしまった。


 奏が従妹に会いたいと親に言っても会わせてくれない。そもそも、親は引っ越し先の住所も知らず、従妹の家族と連絡がつかなくなったらしい。


 それならしょうがない。


 と、納得するしかなかった。


 奏は従妹と会えないまま、大学生となり。そして、社会人となった。


 そんなある日。春が近づいていた時期。親からメールが届いた。


『従妹の美咲みさきちゃんって覚えてる?』


 奏はすぐ親に電話をかけた。


「覚えてる! すごく覚えてるよ! あの目に入れても痛くなくて! 食べちゃいたいほど可愛すぎる美咲ちゃんのことだよね!」

『……相変わらずね。あんたは……まぁ、その美咲ちゃんのことなんだけ……』


 親の言葉を要約するとこうだ。


 突然、従妹の両親から連絡がきた。


 従妹が入学する高校は奏が一人暮らしをしているアパートの近くにある。


 そして。


 従妹を預かってもらえないかと、従妹の親にお願いされている。


「もちろん預かるよ!」


 断る理由なんてない。


 天にも昇る心地だった。だって、あの可愛すぎる従妹と生活する。


 いつ何時も従妹がいる。存在を目で、肌で感じられる。


 これ程の幸せがあるか。否。絶対にない。


 奏は浮かれていた。それはもう浮かれすぎていた。


 ……従妹が来る日まで。



◇◇◇◇◇



 ある会社の一室。十人ほどが集う仕事場はフリーアドレス。決まった席はなく、その日の気分で自由に席を決めることができる。しかし、今日だけは、特定の場所が避けられていた。


「……」


 一人の女性の周りにだけ誰も座らない。いや、座れない。


 机に額をつけ、負のオーラを放出している人間の隣に誰が座りたいと言うのか。


「おはようござ……」


 それはけだるげに出勤してきた女性社員も同じ。


 項垂れる女性。他の社員の様子を見て、危険を察知した。女性から離れた席に向かおうとしたが。


「……麻耶まやちゃーん」


 ゾンビのような唸る声をかけられてしまった。


 項垂れていた女性は顔を上げる。


 死んでいた。顔から生気が感じられない。


「……有給取りまーす」


 絶対に面倒くさいことになると察した麻耶は逃走を図る。


「有給の申請は数日前に出してください」


 部長に逃走ルートを潰される。


「風邪は当日でもいいですよね?」

「元気そうですね」

「心の風邪は目に見えま……」


 麻耶は言葉を続けることができなかった。視界に映る重症者によって。


「今、仕事に追われていて、すぐに取り掛からないと」

「大丈夫です。私たちがカバーします。なので、あなたは重要な仕事を行ってください。同期の悩みを聞くという仕事を」


 部長の言葉を受けてこの場にいる社員全員が任せろといった表情を麻耶に向ける。しかし、その表情の裏にはこう書いてある。


 仕事の方がましだ。


「……はっはっは。頼りがいがある同僚だなー」


 麻耶は乾いた笑みを社員たちに見せつける。誰もが視線を逸らした。


「部長。定時過ぎても付き合わされたら残業代出ますよね?」

「定時以降は友人として付き添ってあげてください」

「……くそったれな職場場だな」


 その暴言に怒れる者はいなかった。麻耶は『暴言が吐ける良い職場だ』と改めて心の中で暴言を吐く。


「はぁ。しょうがない。どうした、奏?」


 ため息を吐く麻耶であったが、女性──奏とは休日に遊ぶほどの仲。心配はしていた。


 ようやく誰かに言葉をかけられた奏は立ち上がり、ふらふらとした足取りで麻耶に近づいた。そして。


「ねぇ、私臭い? 体臭ひどい? 麻耶ちゃん、嗅いでみて?」

「……みなさーん。今、目の前でセクハラが行われていまーす」

『……』


 誰もこちらを見なかった。むしろ、安堵している者が多かった。


 関わらなくてよかったと。


「ぶちょー」

「本当にセクハラと思っているなら上に報告します。それでもいいですか?」

「……はいはい。冗談ですよ。会議室、借ります」

「そこの会議室を使ってください」


 部長が指示した会議室はガラス張りで、この場から中を窺える。


 つまり、何かあれば助けには来るということだろうと麻耶は思った。というか、絶対に助けに来い、と社員を睨みつける。


「後、報告書はしっかりと作ってください。情報共有は大事ですから」

「……はーい」


 麻耶はろくな報告書にならないなと思いながら「ねぇ、どうなの? 早く嗅いで」と服の首元を引っ張り、匂いを嗅がせようする奏の腕を取って会議室に入る。奏を座らせ、身を守るために机を挟んだ対面の椅子に座る。


「っで、何があった? どうせ、あんたの従妹ちゃんが原因でしょ?」


 麻耶は知っていた。同僚の全員が知っていた。


 奏の従妹。美咲のことを。


 事あるごとに奏は従妹の可愛さを話す。正直、誰もが異常だと思っている。


 数年も会っていない小学生の従妹の可愛さを熱弁するのだから。


 そんな奏だ。


 従妹と同居生活が始まった翌日。つまり、今日。


 同僚たちは従妹の可愛さを熱弁されるものだと思っていた。


 それがどうだ。蓋を開けてみればこのありさまだ。


 関わりたくないと思うのは当然。でも、逆に気になる。何があったのか。


「昨日ね──」


 語られる。本人の口から。


 久しぶりに会った従妹のことを。



◇◇◇◇◇



 これは昔の記憶。


 高校生である奏の家に、小学生の従妹が来た時。


「いらっしゃーい! 美咲ちゃん! チュ」

「奏お姉ちゃん! 会いたかったよー! チュ」


 二人は会うなり熱く抱擁を交わし、お互いの頬にチュッと口づけをする。


「奏お姉ちゃん。お話しよ」

「うん。じゃあ、リビングに行こっか」


 移動する時は指を絡めて手を繋ぐ。


「あのね、学校でね──」

「うんうん。そっか、美咲ちゃんはすごいね」


 座っている時は美咲が奏の膝に座る。もちろん、向かいあっている。


「美咲ちゃん。あーん。美味しい?」

「うん。奏お姉ちゃんも、あーん」

「あむ。うん。美味しい」


 食事の時は必ず食べさせあう。


「美咲ちゃん。体洗うねー」

「きゃはは! くすぐったーい」


 一緒にお風呂に入り、体を洗い合う。


「美咲ちゃん。おやすみー。チュ」

「お休みなさい。チュ……奏お姉ちゃん温かーい」


 お互い額にキスをして、同じ布団で寝る。


 ……そう。


 これこそが二人の普通だった。



◇◇◇◇◇



「……つまり」


 奏から昨日の話を聞き終えた麻耶は頭を押さえていた。パソコンに映し出されている奏の言葉を目で追う。


「従妹ちゃんが抱擁も、頬へのキスも、手を繋ぐことも、膝に座ることも、食べさせあいも、一緒にお風呂に入ることも、お休みのキスも、一緒の布団で寝ることも……他、もろもろ。昔のようなことをしてくれなかったと」

「そう! そうなの! あの可愛すぎる美咲ちゃんがだよ!」

「……従妹ちゃんは小学生か?」

「ううん。高校生」

「高校生が昔のようなことをしてくれると?」

「うん」

「……」


 麻耶は一旦会話を止める、ただ一言。心の中で叫んだ。


『馬鹿だな!』


 感情の整理を済ませ、淡々とした口調で会話を再開する。


「本気で高校生が昔のように接してくると思ってるならただの馬鹿だぞ」


 麻耶の感情は完全に取り除かれていなかったようだ。


「馬鹿じゃないよ。だってあの美咲ちゃんだよ」

「その美咲ちゃんでも昔のようなことをするはずないだろ」

「麻耶ちゃんが美咲ちゃんを語らないで! 何も知らないくせに!」

「……あー、面倒くさ。本気で有給取りたい」


 と言いながらも部長に言われた通り、報告書を作成する。


「うー。美咲ちゃんどうしちゃったんだろ。やっぱり、私のこと嫌いになったのかな……」

「……」


 面倒くさがっている麻耶であったが、情緒不安定な友人を放っておくことはできなかった……むしろ、このまま放っておけばもっと面倒くさい思考に陥る。必ず。絶対に。それだけは避けたかった。


 被害は麻耶に降りかかる。


「それで、さっき言った他にも、従妹ちゃんが笑顔を浮かべてくれない。話しかけても『はい』とか『そうですね』みたいな冷たい言葉しか返ってこない。っで、もっとも奏の心を傷つけたのが」


 ──私の服を一緒に洗濯しないでください、と言われた。


「そうなの! ねぇ、私臭い! 臭いの!」


 奏は立ち上がり、体臭を嗅がせようとする。麻耶は手で頭を押さえつけ、座らせた。


「とりあえず、奏が隣にいて臭いと思ったことはないから体臭は大丈夫」

「だったらどうして美咲ちゃんはあんなこと言ってきたの?」


 麻耶は『1+1は?』と同じほど簡単な問題の答えを提示した。


「ただの思春期」


 誰がどう考えても従妹の行動は思春期特有のものだった。でも、洗濯物に関しては少し同情してしまう。普通は異性の服と一緒に洗われるのを嫌うはず。


「奏の記憶の中では小学生だけど、本人は成長して高校生。思春期真っ只中。可愛げなんで消え去るに決まってる。奏も親とか親戚がどうしようもなくうざかった時期があったでしょ?」

「え? うざいだなんて思わないよ。親は私を育てるためにお仕事とか家事を頑張ってくれてるし、親戚の人も優しいから」

「……そうだった。奏って従妹のことを除けば聖人だった」


 そんな人物がどうしてこうもおかしくなると思う麻耶だったが、考えても絶対にわからないので、その思考を頭の隅に追いやる。


「まぁ、あれだ。思春期に理由なんてない。私も思春期の頃は親と親戚が嫌いだったけど、今はなんであんなにも嫌っていたのわからない。つまり。数年待てば昔の従妹ちゃんにもど……」


 奏から聞かされた思い出が、麻耶の言葉を殴り飛ばす。


「昔の従妹ちゃんは忘れろ」

「嫌だよ!」

「忘れろ。どう考えても昔の従妹ちゃんに戻らない」

「絶対、嫌!」


 頑なに嫌だと言い張る奏だったが、現実を思い出し、机に突っ伏した。


「どうして……私は美咲ちゃんのこと大好きなのに……」


 その言葉に麻耶は少し引っ掛かりを覚える。


「その好きって──」

「はぁ。今日帰宅したら美咲ちゃんが『お帰りなさい、奏お姉ちゃん。ギュー』ってしてくれないかな。いや。むしろ。「寂しかったよ……奏お姉ちゃん……」って泣きそうな顔で優しく抱き着いてくるかも」

「……さすがに違うか。奏にとって、従妹ちゃんは可愛いだけの子供。それに相手は高校生」


 だらしないほど口元を緩めた奏の表情によって、麻耶の考えは消え去った。


「ああー! 美咲ちゃん可愛い! 大好き! 抱きしめたーい!」

「……なんか、奏より従妹ちゃんが心配になってきた」


 麻耶はまだ会ったことのない従妹に警告する。


『あんたの同居人。危険人物だぞ』

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