第21話/シークレット・クライシス



 ――このまま首を締めたら、永遠に私のモノに。

 愛しいヒトの寝顔を眺めながら、紫苑はぼんやりと考えた。

 呼吸にあわせてゆっくりと上下する七海の胸板の様子に、彼女は安堵して。


(生きてる……)


 それは泣きたくなる程、暖かい現実だった。

 喪いかけたからこそ、大切な想い出を喪ってしまったからこそ、生きている今が大切な宝物。

 だからこそ怖い、この先の未来が怖い。


(また……私の不幸で先輩を傷つけちゃった、もうこれ以上私の所為で傷つく姿なんて見たくないのに――)


 七海が紫苑の知らない所で傷つき死んでいくのが怖い、紫苑の手の届かない所で傷ついて死んでいくのが怖い。

 なら、このまま紫苑自身の手で殺してしまえば、その後を追えば、幸せのままで居られるのはないか。


(七海せんぱい…………)


 起こさないように静かにゆっくりと、彼の首に両手を添える。

 力を籠めて、己の体重をかけて喉を潰すように絞め殺してしまえば。

 そんな具体的な方法まで思い浮かんでしまい、紫苑は微笑みながら己の首を弱々しく横に振った。


(まだその時じゃない、もっと、もっと時間をかけて愛/殺意を育ててから、ね? 待っててよ七海先輩っ!)


 もっと、もっと、もっと、唇だけが動く。

 どうしたら七海は紫苑と同じ熱量で愛してくれるのだろうか、――唇は醜く歪んで。

 分かっているのだ、そんなものは恋に憧れる幼子の幻想だって。


(それでも……、もっともっと、私に狂ってよ…………)


 憎たらしい程に守ってくれる愛おしい騎士様、このまま時が止まったらいいのに。

 紫苑は飽きもせず、そのまま寝顔を見つめ続けていたが。

 ――二時間後のことである、彼女の眉が顰められ額から汗が流れ始めた。


(お、おしっこしたあああああああああああああああああああああああああああいっ! うわ、うわっ、意識したら何かすっごい尿意がッ!? 漏れるっ、漏れちゃうっ、起きてぇっ、先輩起きてええええええええええええええええっ!!)


 平たく言って、大ピンチである。

 どうする、このまま待つかそれとも起こすか。

 紫苑は迷いもせずその二つを却下した、寝ている七海を起こすなんて可哀想であるし、むざむざ待って限界突破するのも馬鹿らしい。


(起こさないように、起こさないように、そぉっと、そぉ~~っとぉ…………ッ!?)


 瞬間、彼女はぴえぃっぷと変な叫びが喉から漏れそうになった。

 突如として、七海が紫苑の手首を掴んだからだ。

 しかし起きた様子はない、恐らくは寝ぼけて無意識に行ったと思えるが問題はそこではなく。


(動けないっ!? くそッ、先輩を起こさず立ち上がる計画だったのに!! これじゃあ絶対起きんじゃんかぁ~~!! もおおおおおおおおおっ、先輩のバカああああああああああ! 早く起きてよおおおおおおおおおおおおおお!!)


 少々偏執的すぎる愛情故に、彼を起こすという選択肢が今に至っても現れず。

 紫苑は涙目で、焦り散らかした。

 一秒一秒が非常に遅く感じる、限界はすぐそこにあるように感じる、まだかまだかと三十分後。


(よし…………漏らそう!! しゃーねぇ、私悪くないもーーーんっ!!)


 彼女の表情は聖母マリアを思わせる愛と慈悲に満ちた、とてもとても静謐な顔で。

 誰かが見れば、人間とはこんなにも穏やかになれるのだろうかと驚いた事だろう。

 さぁ漏らすか、と諦観に紫苑が支配されそうになったその時であった。


「ん…………ぁ。紫苑……?」


「ッ!? ~~~~ッ、せ、先輩やぁ~~っとお目覚めですかぁ? まったくお寝坊さんなんだから、もお」


「…………どうしたんだい? 妙に声が震えてるっていうか、体も震えて――――あっ、ごめん、膝枕ずっとしててくれたんだ! もしかして痺れちゃったかい?? 今すぐに退くからっ!!」


「いやいや、どーってことないですよ。むしろ超ニクイタイミングというか、丁度良いっていうか助かった? みたいな? …………ぁ、やば」


「…………紫苑? 本当に大丈夫? 顔が真っ青だぞ?」


 起きあがった七海は、目の前でベッドに座ったままの紫苑を見て顔色を変える。

 どう見ても何かが起きている、それも悪いことが。

 長時間の膝枕で痺れた、とは別ベクトルの何かがあったのだ。


(くっ、どうすればいい救急車か!? 俺に出来ることは何だ!!)


(ヤバいっ、もう限界すぎて立ち上がる事すらできないッ!! 少しでも動いたら漏れちゃうっ、――起きてる先輩の前で漏らすなんてイヤアアアアアアアアアア!!)


 なんて不幸、助かったと思ったのに紫苑の体は先に限界を迎えてしまって。

 寝ている状態の七海だったから、漏らす決断ができたのだ、己を騙せたのだ。

 乙女の尊厳にかけて、正気のまま漏らすことなんてできない。


「やっぱ漏らすわ、無理、もうダメ」


「漏らすって何!? え? トイレ我慢してたのゴメンよ!! 早く行ってトイレ行って遠慮しなくていいから!!」


「一歩も動けないんだなぁコレが……」


「すっげぇ青い顔なんだけどぉ!? どんだけヤバいのマジで漏らすの!? 俺が運ぶからもうちょい我慢して!」


「だ、ダメっ、触らないで揺らしたら漏れちゃう!!」


「くっ、俺は紫苑を救えないのか!?」


「私の事はもう…………諦めてっ!!」


(――どうするッ、俺はどうしたらいいッ!!)


 紫苑はもう菩薩のように悟りを開いた顔のままプルプルと生まれたての子鹿のように震えている。

 この分だと、出来るだけ揺らさないように持ち上げてもダメだろう。

 そして長々と考える時間もない、一刻を争う瞬間だ。


『諦めろご主人、未来予知は幸運にもこの件では死を告げていない…………恋人として介錯してやるのも優しさというものだ』


(――ッ!? 紫苑の膀胱と尊厳の絶体絶命的ピンチなんだ!! 諦めるもんか!! 考えろ、考えろ道はある筈だ!!)


 七海の脳が超高速で思考を始める、彼自身の体力は数時間寝たとはいえ回復しきっていない。

 これではトイレまで紫苑を運べても激しく揺らしてしまうだろう/漏らすのを看過するのは論外/ならば漏らさせずに/しかしてこの部屋で済ませる他はない。

 オムツはないし仮にあっても装着不可能だろう/ならばならばならば――――。


(――見えたッ、空のペットボトルとトイレットペーパー!!)


 コンマ一秒以下で答えを出した七海は、再び全力で体を動かした。

 きっと明日はベッドから動けないだろう、しかしそれで尊厳が辛うじてでも守られるなら。

 恐らく、この時の七海は人生で一番素早く動けた瞬間で。


「――――ッ」


「…………ぁ」


 言葉なんていらない、彼は彼女と目だけで通じ合って。

 七海が自室から台所へ避難して五分後、何事もなかったかの様に紫苑がやってきて。

 トイレがジャーと流れている音は聞こえないフリ、何がどうなったかも知らないフリだ。


「――やっぱり、先輩は私のヒーロー。ありがとうございますっ!! ……今日はもう帰りますね、またお泊まりに来ます。じゃあ、またねっ!」


「う、うん、またな紫苑」


 あっさりと帰宅した彼女に、七海は拍子抜け。

 とはいえ、昨日の今日で沢山のアクシデントがあった、帰ってぐっすり寝たいのかもしれないと彼は己を納得させる。

 彼もまた、酷く、非常に疲れていたからだ。


「――――寝るか、ちょっとマジで明日は学校休まないと体力回復しないかも…………」


 明日の朝になったら紫苑にメッセージの一つでも送ろう、そんな事を考えながらベッドに入った七海であったが。


『ッ!? ご、ごごごごごごっ、ご主人ンンンンンンンン!! ヤバ、ヤバヤバヤバイイイイイイイッ!! 新たな死の未来を受信した!! い、いや落ち着くのだ、このシステムめが動揺してどうするッ!!』


「システム!? いったい何が――ッ」


『……………………明後日、いやこれは……明明後日か? くっ、日時が激しく揺らいでいるッ、確定なのは夜、体育倉庫にご主人が閉じこめられて、焼け死ぬ、佐倉紫苑に閉じこめられて、佐倉紫苑の焼身自殺の一部始終を聞きながら……糞尿を漏らしながら焼け死ぬ』


「――――――――――――――どゆことぉ??」


 どうやら明日、筋肉痛という名の体調不良で休むコトすらできないらしい。

 それどころか今までの比ではないぐらい、殺意と憎しみが高いと言える。


『佐倉紫苑……恐ろしい女よッ、この人ではないシステムめも恐れさせるとはなァ!! 己が焼け死ぬさまを扉越しに聞かせてご主人の心に深すぎる傷を追わせながら強制的に後を追わせるとはッ!! なんたるメンヘラの鑑よ!!』


「………………よし、朝になったら考える! 今日はもう起こさないでくれ!!」


『あっ、はい、どうぞご主人、ゆっくり休めないだろうが休んでくれ』


「おやすみ! ――負けるもんかッ、俺は負けないぞ!!」


 ここが分水嶺なのかもしれないと、七海は鼻息荒くベッドに入り。

 十秒後、泥のように眠りについたのであった。

 ――少しだけ、懐かしい夢を見ながら。


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