第2話 番組内ドラマ

 だが、そんな考えはしっかりと当たっていた。実際にその通りに予言をすると、本当に当たるのだから、困ったものだ。そんなことを考えながらでいると、下手に評判が評判を呼ぶようで、一部地域だけで、流行っている分にはよかったのだが、それがどこでどう伝わったのか、ある時、地元のケーブルテレビが、

「取材いいですか?」

 ということで、取材交渉に来た。

 最初は、一人で勝手にしていることだったので、丁重に断っていたのだが、そのうちに、予言によって、成功を収めた人が、

「テレビ取材ですか? いいじゃないですか。私はあなたのおかげで成功を収め、会社が軌道に乗ったんです。私が会社ぐるみでバックアップしますので、出て見ればいい。地元のケーブルテレビが取材してくれるなんて、いいことではないですか」

 といって、背中を押してくれた。

 少年は、最初こそ戸惑っていたが、本当は最初から嬉しかったので、背中を押されたという感覚で、取材にOKする形になった。

 そんな、スポンサーと言ってもいいのか、後ろ盾を得たことで、気が楽になった彼は、テレビ出演に前向きなことを相手にいうと、かなり喜んでくれたようだった。

 少年は、名前を荻谷という。基本的には苗字だけを公開する形だったので、本名で活動することにした。だから、基本的には、

「荻谷少年」

 と呼ばれるようになった。

 中学2年生なので、親権者の許可が必要だったが、親も別に反対することもなく、承諾してくれた。

「どうせ、地元のケーブルなんだろう?」

 ということで、正直、少年の力に別に興味を持っているわけでもなく、

「勝手にやればいい」

 というスタンスであった。

 乗り気だったのは、スポンサーとケーブルテレビ側で、皆が乗り気になってくれているおかげで、荻谷少年も、すっかりその気になっていた。

 とは言っても、やはりしょせんは、地元のケーブル。地域の番組における数十分くらいの紹介インタビュー程度のもので、正直、ほとんど原稿はできていた。3割くらいはアドリブになったのが、実際に撮影してからオンエアされると、反響はそれなりにあったようだ。

 局に、問い合わせのようなものが、数件あったようで、最初のうちは、返事をしていたが、そのうちにしなくなると、その熱も冷めていった。

「まあ、地元のケーブルなので、こんなものですよ」

 ということであった。

 そもそも、企画の内容は、

「最初、予言ができる気がしたので、それを友達の間で口にしていたが、実際に、それが本当のことになることはなかった。だが、そのうちに、感じたことの反対を口にすると、それがことごとく的中するようになった。それが最初のうちは、オオカミ少年と言われていたのに、急に当たるようになったことで、却って、まわりが注目し始めた。当たるようになった最初の頃は、皆、どうせウソだろうといってうて合わなかった人ばかりで、それが、オオカミ少年と言われるゆえんとなったのだが、それでも、懲りずに予言をしていると、本当に当たるのが、皆に浸透してきたようで、それが、今度は恐怖になってきたようで、次第にまわりも、無視ができなくなったようだ。そのことで、少しずつ、有名になってきて、個人的に相談に来る人が増えたのだ」

 というような内容をドキュメントに纏めて、インタビュー形式の番組を作成したのが、ケーブルテレビだった。

 再現VTRなどの予算があるわけではないケーブルだったので、それはそれでしょうがない状態になっていた。

 だが、そのことがどこからか、民放と呼ばれる全国に地元の放送局を持つ、東京のキー局が聞きつけたようで、取材をしたいということで、スポンサーになってくれた人のところに交渉にきた。ケーブルテレビに問い合わせたのだろう。取材依頼があったことを、スポンサーの人が話にきた。

「やってみればいかがですか? 今回は、再現VTRを作るという話だったんですよ。それを、どちらかというと、コメデイタッチにするということだったんですが、それに対して、荻谷さんが問題なければ、私はいいと思ったんですがいかがでしょうか?」

 ということであった。

 荻谷としては、コメディタッチということに少し抵抗があったが、

「できたVTRを事前にチェックして、問題なければいいということを徹底できればそれでいいと思います」

 と話した。

 抵抗はあったが、反対するというところまで強い意志があったわけではなく、問題ないという確認が取れればそれでいいということだったのだ。

「それは。もちろん、相手も放送倫理に基づいて作成するわけですから、それは間違いないと思いますよ」

 ということだったので、とりあえず、今回も了承することにした。

 もちろん、事前のインタビューもちゃんとしてくれて、相手からの質問も、別に過激なものもなく、差しさわりのないところでの内容になっていたのだ。

「テーマとしては、オオカミ少年と言われていた人がある時、覚醒して、予言した内容がすべて的中するようになったことで、まわりからの信頼を回復するというものですので、挫折のところは、こちら側のオリジナルで考えさせていただくことになります。もちろん、荻谷さんの心証を悪くするようなものには絶対になりません。逆に少し、いい方に煽る形になろうかと思います。とりあえず、まずはこちらでVTRを作成してみますので、チェックの方をよろしくお願いいたします」

 ということであった。

「いい方に煽るとは、どういうことだろう? だけど、こちらの心証を悪くはしないということだったので、信じてみよう」

 と、荻谷少年は考えた。

「分かりました。楽しみにして待っていますね」

 と、自分があたかも好意的だということを、前面に押し出していたのだ。

 すでに、予言することで、相手の顔色を見ることが、無意識にできるようになっていた荻谷は、少年というよりも、大人に近づいているということを、彼に対する人は、次第に気づくようになっていた。

 しかし、実際に、大人の顔色を見るのは、子供の方が得意なのかも知れない。だが、実際に、子供が大人に対して気を遣っている姿というのは、他人から見ていると痛々しいものであるにも関わらず、実際には、そこまで痛々しいものではなく、気が楽なものだったのだ。

 自分が大人に近づいているということは、最近意識するようになっていた。それまで子供だとばかり思っていた自分が、次第に大人の仲間入りとしているのは嬉しかった。

 ケーブルテレビに出た時、テレビ番組というものを、

「こんな形で作っているんだ」

 と、獏前と感じている中で、心の奥で感じていたのは、

「皆こんなにまじめに取り組んでいるんだ」

 ということは、分かっていたはずなのに、実際に見ると、何とも言えない気分にさせられたことは、新鮮だったと感じたのだった。

 その時に、

「早く大人になりたい」

 と感じた。

「この真面目な感覚は、大人だから出せるオーラなのだ」

 と感じたからだった。

 自分だって、ずっと子供だと思っていたが、そのうちに大人になっていく自分を感じると、最初は、

「子供のままいる方が、ちやほやされていいよな」

 と思っていたのだが、子ども扱いされることで、真面目な大人には、このままでは絶対になれないと思ったのだった。

 それは、まわりが、分かっていないのをいいことに、本当は自分の予言が、ある日をきっかけに正夢になったわけではなく、単純に反対のことを言っているだけだということを誰にも言わないことで、

「まわりを欺いている」

 と思うようになったことであった。

 実際お再現ビデオが出来上がったということで見せてもらった。

 その時は、地元の放送局に、スポンサーの人と一緒に行って、ちょっとしたミニシアターというのか、ラジオのスタジオのようなところがあったので、そこで視聴させてもらうことにした。

 内容は、かなりの誇張があった。主人公である、荻谷少年に扮している少年は、見た目、

「お坊ちゃん」

 の様相を呈していて、見方によっては、まるで、

「探偵少年」

 という雰囲気で、それこそ、少年探偵団に出てくる、

「小林少年」

 のような感じだった。

 その頃はまだ、

「じっちゃんの名に懸けて」

 であったり、

「名探偵コ〇ン」

 などというキャラクターは、それほど有名ではなかったので、何とも言えない感じだったが、今の人が見れば、どうしても、比較してしまうことだろう。

 その少年は、裕福な家庭に育ち、英才教育も受けているような少年だったが、どうしても、生まれつき、

「身体が弱い」

 という弱点があったのだ。

 そんな状態を気にした当主である父親が、わざわざ別荘を買って、一年に数か月ほど、その別荘で過ごすことで、自然に囲まれた環境の中、新鮮な空気を吸うことで、少しでも、静養になればと思っているようだった。

 それだけ、親からは期待され、かわいがられていたのだが、半分は、

「家の跡取りだ」

 という意識が強かったというのが本音だった。

 田舎の、避暑地のようなところだが、確かに別荘が周りにたくさんあって、軽井沢のようなところであるが、実は、ペンションなどの、一般人がくるようなところではなかった。

 本当にどこぞの会社の社長だったり、政治家が別荘地位として選ぶような、特区に近いような場所だった。

 そんなところに、ペンションを作っても、さすがに一般人は気後れして、訪れる人はいないだろうと思われるようなところだったので、そういう意味では、

「隔絶された場所」

 ということで、まわりから見られているところであった。

 そんなところで、少年は、自然に触れることで、それまで感じなかった予感が、いつの間にか漲るようになってきた。

 それを、自分だけの中にしまっておくことが、病弱である彼には耐えられなかったのだ。

 人のことが分かるのを、自分の中に抱え込んでしまうと、病弱の身体に、今度は精神的な圧迫が加わるのは、子供の小さな身体には耐えがたいものがあるという設定だったのだ。

 病弱な身体を癒すために、自然という癒しを精神的に受け入れることで、精神が噛み砕いてくれた精神的な癒しが、身体に影響を及ぼすことで、大いなるリハビリのような形になっていたのだ。

 それなのに、肝心な精神に圧迫があると、せっかくの自然環境がうまく浸透してこなくなり、

「この土地にいること自体が、本末転倒になってしまう」

 というのが、困ったことになるのだった。

 そんな状態になってはいけないということで、

「感じたことは表に発散させないといけない。人に迷惑の掛からないことであれば、発散させる方がいいんだよ」

 という、別荘に連れてきた専属の医者のいうこともあって、その指示に従うことにした。

 だが、せっかくの発散も、最初の頃は、ウソの情報が多く、

「せっかく話してくれたのだから」

 というまわりの忖度もあって、ウソはウソとして解釈するようにまわりが感がえていたというのが、前半の主な内容だった。

 後半になると、主人公の少年が、ある時、別荘地の奥にある鎮守の森に迷いこんでしまったというエピソードがあるのだが、そのエピソードというのは、少し、オカルトチックな話になっていて、そこに迷い込んでしまうと、抜けられないという状況に陥るというものであった。

 ただ、こんな状態になるのは、皆ということではない。偶然に偶然が重なるような形で、うまくすべてが絡み合わないと、発生しないというような形になると、そこから抜けられないのだ。

 ちょうどそんな状況に嵌ってしまったのだろう。それを少年は、恐ろしく感じているはずなのに、表向きには、まったく動じていないように見えていた。だが、本当は、泣きだしたくて仕方がないのに、泣くことができないということ。そのことが一番の恐怖だと感じたのだ。

「俺はここから一生出ることはできない」

 と思うと、恐ろしくて、考えれば考えるほど、悪い方に発想が行ってしまうのが分かる。

 それが怖かったのだ。

 だが、そんな恐怖は長くは続かなかった。

「夢を見ていたんだろうか?」

 と感じ、目を覚ましたのが分かった。

 祠から出てくることができなかったはずなのに、目が覚めると、ちゃんと、自分の部屋のベッドで寝ていたのだ。

 しかも、ちゃんと着替えまでして。

 ということは、最初から夢だったとしか思えない。

「そういえば、以前見た夢で、眠れない夢というのがあったな」

 と感じた。

 それは、

「眠れないという夢を見ていた」

 というオチであり、眠ってしまっているのに、眠れない夢を見ていたということを感じると、以前に見た、

「マトリョーシカ人形」

 というのを思い出した。

 ロシアの民芸品だという、

「マトリョーシカ」

 というのは、

「人形の中に人形が入っていて、どんどん小さな人形が中から出てくる」

 という、一種の、

「入れ子状態になった人形」

 のことである。

 その発想が、夢の中で、

「入り込んだら出られない。出たつもりなのに、またその場所に入り込むという状態」

 を考えてしまうというのだった。

 VTRの中では、その発想を、

「実はずっと頭の奥に潜んだ、潜在意識というものに格納されていて、何かの瞬間に表に出てきて、それを夢として見せるかも知れない」

 と感じると、

「普段の予言も似たようなものなのかも知れない」

 と思うようになっていた。

 それは、自分で感じたくもないのに、勝手に感じてしまうという、

「潜在意識のなせる業」

 という意味で、夢に近い物なのではないだろうか。

 夢についても、絶えず意識の中にあるもののようで、夢自体が、潜在意識だと考えると、堂々巡りを繰り返しているようで、反射的にマトリョシカを思わせるのは、まるで、条件反射を感じさせた。

 そう、まるでこの発想は、

「パブロフの犬」

 といっていいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、後半の入りに少し違和感を感じたが、そんな気持ちにお構いなく、VTRは進んでいく。最後まで意識が遠のいていくようで、見ているVTRに何も感じていない自分を感じてくるのだった。

 そんな田舎町で、彼は、予言を初めてから、最初はまったく当たらなかった少年が、ある日を境に、ピタリと当たるようになった。

「実際には、反対の予言をするという、こんな事実など、夢をぶっ潰すかのような内容なので、描けるわけはない」

 もっともそんな事実を知っているのは自分だけなので、出てくる発想は、もっと夢のあるものなのだろう。

 すると、映像が後半に入ってきて、迷い込んでしまった鎮守の森から抜けられなくなったところで、少年が頭を絞って、どこなら抜けられるかということを、見つけ出すことができた。

 その時から、彼の中の予言はピタリと当たるようになった。

 これを彼は、

「今まで、少し狂っていた発想をちょっと修正することで、正常になる」

 という、秘訣のようなものを手に入れたのだ。

 まるで、RPGゲームにおける、秘密のアイテムを手に入れたかのようではないか。

 そして、その後に予言した内容はすべてが、ピタリと嵌った。それ以降少年は、天才少年として、世間からもてはやされ、いろいろなところで引っ張りだこだった。

 というそんな内容だった。

 荻谷少年とすれば、少し気になるところもあったが、途中だけを、オカルトっぽくしたわけではなく、そもそも全体的に、田舎町のようなところが舞台だったりすることで、全体を暈しながら、視聴者にアピールできるところが悪くはないと思ったので、番組放送を了承することにした。

 荻谷が気になったのは、最後のところだった。

 最後を暈す形にしたのは、問題ないのだが、最初の設定が、

「身体の弱い少年」

 ということだったはずなのに、最後には、引っ張りだこになっているのに、別に問題なく動けているのが、矛盾しているように思えた。

 だからこそ、田舎町も別荘地にいるわけだし、違和感があるのは、当たり前だった。

 だが、逆にいえば、鎮守の森に迷い込んで、彼の奇才が抜け道を見つけたその時に、肉体的にも強くなれる力も一緒に手に入れたのではないかという発想もできることで、

「ドラマとして製作したのだから、そのつもりで見ていればいいだけなので、気は楽だ」

 と思うのだった。

 そこで、番組に注文として、最初でも最後でもいいので、

「この番組はフィクションです」

 という内容のテロップを出すことを条件とすることで、話を付けたのだった。

「分かりました。じゃあ、最後に出すことにしましょう」

 と、プロデューサは言った。

「最後の方が、見たあとで、印象が残りますからね」

 と、彼は言ったが、実際には、別の含みがあった。

 プロデューサーとしては、なるべく、フィクションだということを視聴者に思わせたくないという感情があった。

 もし、そう思わせてしまうと、せっかくのドラマが色褪せる感じがしたのだ。なんと言っても、これは、

「番組内ドラマ」

 なので、時間というのは、番組構成で決められる。番組全体の総括プロデューサの思惑もあって、時間は、普通のドラマと違って、中途半端なのだ。

 実際のドラマは、その時間に合わせた作り方がある。このプロデューサーも分かっているので、30分、1時間番組を作るのは得意なのだが、番組内ドラマのような中途半端な時間で、感動を与えるのは難しかった。しかし、プライドがあるので、ドラマを楽しくしたいという気持ちが誰よりも持っていて、そのため、視聴者にフィクションだとは思わせたくなかったのだ。そういう意味で、最初に持ってくるよりも、最後は、ある意味印象が薄い。なぜなら、その後も番組は続くからだった。

 荻谷少年はそんな思惑を知る由もなく、違和感を残しながら、番組ができるのを楽しみにしていた。

 そして、出来上がった番組が、実際の番組として、オンエアされる日がやってきたのだった。

 荻谷少年は、最終的なドキュメンタリードラマの出来栄えまでは見ていない。あくまでも、

「番組内ドラマ」

 の内容を見ただけなので、それがどのような出来栄えになっているかということを分かっているわけではなかった。

 これは、番組内ドラマおプロデューサーの意向もあったからで、そこにまさか、彼の思惑が隠されているなどということは、夢にも思っていなかったのだ。

 だが、許可した以上は、どんな内容の番組ができていようと、許可した人間の責任だということくらいは、中学生になっていた荻谷少年にも分かっていた。

 だからこそプロデューサーが、わざわざ許可を取るのに、いろいろ確認してきたのではなかったか。番組を製作する方としても、

「礼儀、仁義」

 はしっかりと果たしているのだから、もう、文句を言える立場にはないことを分からなければいけないのだった。

 実際のオンエアを見ていると、覚悟していたほど、きになるところはなかった。むしろ、しっかりと気を遣うべきところは使ってくれていて、許可した方も、ホット一安心というところであった。

 むしろ、ドキュメンタリーなどの架空のインタビューの危ういところを、ドラマがカバーしてくれているような構成になっているところがありがたかった。

 だが、これはあくまでも、ドラマに最初から重点を置いた形で見ていた荻谷少年の、いわゆる、

「偏った目」

 で、見てしまったことが、言葉通り、偏見となって見ていることで、せっかくの、番組内のバランスを、ドラマ重視で見ていることで、今度は、ドラマを擁護する形で見てしまい、逆にインタビューの部分が、怖く感じられるようになったのだ。

 そもそも、インタビューシーンを見るのは初めてだ。

 他の人で、インタビューに答えられるような人がいないのも事実なので、最初から、架空にするしかなかったわけで、その時点で、このドキュメンタリーが、最初から盛られていて、誇張されていることは分かっていた。

 ドラマをさらに誇張したものにすると、歯止めが利かないという思いが荻谷少年にあったことで、不安が募っていたのだろう。

 それを、ごラマ製作の方で、内容をオカルトチックにしてくれたのは、荻谷少年とすれば、よかったと思う。

「これ以上の誇張はいらない」

 と思っているところに、オカルトチックな内容にすることで、半分は架空になることで、インタビューの架空さを覆い隠してくれているようで、見ていて安心感を与えられる。

 そのため。荻谷少年は、

「この話は、俺の話ではない。俺の中から羽ばたいていった別の主人公が、自分の手を離れて、擬人化されたかのような話にしてくれたおかげで、他人事のように見れた」

 というのが大きかった。

 だが、この物語は自分のことだというのを、他の人には知られることはないが、自分だけで納得できる形だった。

 そこは、番組側が、放送倫理に則って製作してくれたのだと考えると、

「番組作りというのは、大変だけど、何か興味があるな」

 と感じるようになった。

「いずれ、俺も将来になったら、こういう番組制作なんかに携われる仕事につけたらいいよな」

 という思いを抱くようになった。

 しかし、自分が人とは違うということを、一番の特徴だと思っている荻谷少年は、

「人と一緒に作っていくということが果たしてできるだろうか?」

 と考えていた。

 協調性ということだけではなく、自分の主張を表に出さなければいけない番組で、人との協調性という、微妙な線引きを、自分が納得してできるのかどうかが疑問だった。

「妥協と納得」

 この二つがジレンマとなるだろうということを感じていたのだ。

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