第4話 夢まぼろしと、逃げ水

 そんな記憶喪失の相手が、どのような発想になるのかということがよく分かっていないのだが、とりあえず、今回は、

「不本意ながら」

 相手にマウントを取らせてしまっていた。

 相手は普段であれば、すぐに相手にするのをやめてしまいたくなるような、高飛車な態度を取ってくる。

 だからと言って、ここで相手に対して怒りをぶつけても、その結果としては、自分が不利になるだけである。

「何も記憶喪失の相手に、そんなにムキにならなくても」

 と言って、

「大人げない」

 と思われるだけのことである。

 それを考えると、

「堪忍ブクロの緒」

 というものを、何とか切らさないようにしなければいけないのだった。

 正直、今まで相手に対して怒りがこみ上げた時、あまり我慢をしたことがなかったのだが、この時はさすがに、ここでキレてしまうと、最後に不利になるのが自分だということは分かり切っているからであった。

 だからと言って、杭瀬も、どこまで我慢できるかと思っていたが、何とか我慢することができた。

「何だ。しようと思えば我慢なんて難しくないではないか」

 と感じたが、何かムズムズしたものがあることを意識はしていた。

 心の中では、

「せっかく来てやったのに、なんで俺がこんな感覚にならなければいけないんだ」

 という風に怒りがムズムズした感覚に変わるのだった。

 その日は、気を取り直して、

「じゃああ、また来ます」

 と口では言ったが、本音とすれば、

「誰が二度と来るもんか。もうお前の顔を見るのも嫌だ」

 と思い、そして、

「今度何かあっても、こいつだけではなく、他の人だって助けてなんかやらないぞ」

 というくらいに思うのだった。

 そんな状態のまま、帰宅したが、そのムズムズした感覚はしばらく続きそうな気がした。

「こんな感覚、このまま続くのは嫌だな」

 と思っていたが、前にも似たような感覚を味わったことがあったのを思い出した。

 確かあれば、電車の中であっただあろうか。

 大学時代のある時、彼女と一緒に、遊園地に出かけた。まだ彼女ともいえる段階ではなかったので、デートのとっかかりということで、遊園地ということになったのだが、その交通手段として乗った電車で、対面式の席に座ったのだが、我々が窓際で、相手は、通路側に対面式で座ったのだ。

 彼女は何とか、二人の間を抜けたが、杭瀬の方は、相手は足を引こうともせずに、足を出したままにしていたので、

「すみません」

 と言いながら、足を超えようとした時、相手の足に軽く触れたのだ。

 その時、

「何じゃお前は」

 と言って、因縁を吹っかけてきたのだ。

 まるでチンピラ並みで、相手の女も、黙っていた。こちらも腹が立ったが、彼女の手前、しょうがないので、

「申し訳ありませ」

 と屈辱感に塗れながら言ったのに、さらに、

「こっちにも謝れ」

 と、女に対しても謝罪をさせられた。

 その時はそれで済んだのだが、この時の屈辱感は、正直、

「一生忘れない」

 と思ったが、実際に今もその時のことが頭によみがえってくるのだった。

 いわゆる、

「トラウマ」

 である。

 その時の記憶は今でも鮮明に覚えている。きっと本当に一生忘れないような気がしている。

 相手は最初から計算ずくだったのだ。

「この男、女を一緒に連れているから、どうせ逆らわないさ。逆らってキレてきたら、こっちが被害者面をすればそれでいいんだからな。どうせ野次馬なんていうのは、騒ぎ始めてから初めてやってくる連中だから、相手がキレてからしか見ていない人は、完全に向こうが悪いと証言するさ。多数決からいけば、こっちの勝ちに間違いはない」

 と思っているに違いない。

 そんなことを企んでいたのだと思えば、怒りも若干は収まるが、あの時の屈辱は、理解を絶するものがある。それはトラウマになってしまったことで、理性は尋常ではなく、我慢してしまった自分が、まるで悪いことをしているかのような錯覚に陥るのだ。それはトラウマというもので、トラウマというのは、意識を超越したものだと言っていいのかも知れない。

「俺が我慢したことを彼女はどう感じただろうか?」

「よく我慢したわ。偉いわ」

 と思ったのだろうが、男としては。そうは感じられなかった。

 彼女が自分を見る目が、まるで気の毒そうな目をしてはいるが、明らかに、

「上から目線」

 だったのだ。

 しっかり我慢したことはいいのだが、他のことで何かがあった時、

「この人は、本当に毅然とした態度で接してくれるのかしら?」

 と思うのではないかと感じたのだ。

 だからと言って、あの時、キレていたとすれば、

「この人は、すぐにキレる人だ」

 と思われて、毅然とした態度以前のところで嫌われていたことだろう。

 ということになるのであれば、

「俺はいったい、どうすればいいんだ?」

 と思えてならない。

 どっちに転んでもロクなことを感じられない。それが女というものだとすれば、女に何を期待するというのか。そんなことを考えていると、彼女が欲しいなどと思いたくもないように感じた。

 ということは、あの時、当事者の4人のうち、3人までは敵だったということになる。完全に、自分が孤立していて、味方であるはずの彼女までもが、相手の味方ではないが、こちらの味方をしてくれるわけではない。

 ひょっとすると、

「こんなことになったのも俺のせいだと、この女のことだから思っているに違いない」

 と思えるのだった。

 相手の女もそうである。因縁を吹っかけている男を戒めるくらいしてもよさそうなのに、何もしないで完全に他人事を装っている。

「私には関係ないわよ」

 と言いたげで、しかも、別に男に怯えている様子もない。

「この女は、男がどうであれ、その場を乗り切れればそれでいい」

 というだけの考えしかもっていないのだろう。

 それを考えると、

「この男にして、この女あり」

 ということであろう。

 ということは、こちら側も、

「俺というこの男があっての、この女だということか?」

 と感じると、

「こんな女のために我慢しようなどと思ってしまった自分が情けない」

 と感じるようになっていたのだ。

 付き合いかけようとしていたその女とは、それから何となく気まずくなってしまい、自然消滅した。それまでの杭瀬であれば、相手が別れそうな雰囲気になった時は、必死になって、別れを阻止しようとするものだったが、さすがにその時だけは、

「あいつがそういうつもりだったら、こっちからお払い箱だ」

 という気持ちになった。

 そんな気持ちになったのは、後にも先にもその時だけだったのだ。

 その時は完全にトラウマだった。その頃から、明らかに怒りっぽくなった。

「腹が立ったのを抑えていたって、何にもなりゃしんあい」

 というのが、最終的な結論だった。

 あの時は、

「彼女のために、ここは怒ってはいけない」

 と思って、怒りを抑えたのに、それが却ってあだになってしまったのだ。

 もちろん、彼女と別れることになったのは、それだけが原因ではなかったが、別れたことが問題ではなく、

「どうせ別れるなら、ひと暴れした方がよかった」

 と、結果論で考えるのだった。

 それから、杭瀬のことを陰で。

「瞬間湯沸かし器」

 と言われるようになった。

 そして、その頃からであろうか、杭瀬は自分のことを、

「俺は、勧善懲悪なんだ」

 と思うようになったのだ。

 実際に、その頃は何が正義で何が悪なのか分からなくなっていた。よかれと思ってやったことが裏目に出てしまったのだから、正悪の基準が分からなくなって当然だ。

 しかし、一つ言えることは、

「自分の中の、正義と悪は、自分で決めることができる」

 という考えで、自分独自の勧善懲悪であった。

 だから、自分が正しいと思うことは、少々相手の感情を逆撫ですることになっても、かまわない。むしろ、

「相手が怒ってくれれば、こっちも攻撃するのに、大義名分が立つというものだ」

 と考え、自分の中の正義のために、敢然と立ち向かっていくことが結構あった。

 いくら自分に正義があっても、怒りをむき出しにして、まわりの理解が得られないと、結局損をするのは自分である。

 それが社会の摂理のようなものなのかも知れないが、それでも、また同じ目に遭ったとしても、また杭瀬は同じことを繰り返すだろう。

 勧善懲悪を口にする人や意識をしている人は、嫌いではない。しかし、損をするかもしれないということを覚悟しておかないと、いけないのではないだろうか。

 それで問題を起こし、会社に迷惑をかけ、訓告を受けたこともあった。相手は明らかに悪いので、こちらが成敗をしたのに、相手は自分が悪いのをいいことに、警察に通報したのだった。

 何とか示談となったが、その時のこともトラウマである。

 しかし、前回のトラウマに対しては、自分がしなかったことに対してのトラウマだったので、正直、後悔している。

「今度、同じことがあったら、絶対に泣き寝入りなんかしないぞ」

 という思いである。

 しかし、2回目のトラウマは、初回のトラウマの結果、起こったことであるから、2回目のトラウマに対しては、

「今度、同じことがあったとしても、絶対にまた同じことをするだろう」

 という思いを持つだろう。

 ただ、やりように関しては、前と少しは変えなければいけない。今度、へまをやったら、クビになるのは必至だからだ。

「筋の通った考えでなければいけないが、感情的になってはいけないというのは当たり前のことなのだろうが、どうしても感情的になってしまうのは、最初のトラウマが頭の中にあるからだ」

 と言えるであろう。

 徹頭徹尾の柱を持った信念でなければならないと思っているので、どうしても相手と衝突するのは仕方がなく、

「正義は自分にある」

 と思っているので、その分、

「強く出ないといけない」

 と思ってしまうのだ。

 そのあたりの心理は、学生時代のトラウマから来ているのだろう。だから、普段は人一倍落ち着いている。しかし、怒った時は怒りが爆発し、自分を見失ってしまうことがある。勧善懲悪が原因なのか、それとも、自分の中にある性格として、

「ハンドルを握ると人間が変わってしまう」

 という二重人格性が関わってくることで、悪い方に結果が出てしまったのかも知れない。

 怒りに身を任せるのは仕方がないとして、後のことも考えなければいけないだろう。怒りながらも、自分の正当性を見極めていく力が必要だと思うようになっていった、

 理屈が分かっても、こればかりは、練習するというわけにもいかない。だからぶっつけ本番ということになるため、正直リスクが大きい。そういう意味で、

「2度目のトラウマになったような状況には近づかないようにしよう」

 と考えるようになったのだ。

 こちらが近づかなくても、向こうから近づいてくることもある。その時は、

「最初のトラウマを思い、また2度目を繰り返すか」

 それとも、

「2度目のトラウマを怖がって、またしても、最初の我慢をすることになるのか?」

 と考えてしまうが、今のところ結論は出ない。

 なぜなら、その時にならないと、自分の感情が分からないからだ。その時になって、冷静でいられるか、それとも、感情に任せて動いてしまうかというのは、自分の意識ではどうなるものでもない状態になってしまうのであった。

 それを思うと、

「やはり、俺は二重人格なのかもしれ合い」

 と考える。

 しかも、その二重人格は、

「ジキルとハイド」

 のようなもので、ジキルが出てきている時は、ハイドは奥に隠れていて、ハイドが出ている時はジキルが後ろに隠れている。

 この時の自分の中のジキルとハイドはお互いの存在を知っているのだろうか?

 冷静な時は、分かっているはずだ。お話のように、ジキルが自分の中にいるハイドを呼び出す薬を作ったのだから、ジキルは知っているはずである。

 この時、ふと、

「おやっ?」

 と感じた。

「お互いにお互いが表に出ている時、その存在を知らないとすれば、これは、まるで記憶喪失のような状態なのではないか?」

 と思うのだ。

 これというのは、今の彼女のようなものではないかと思うと、

「彼女は二重人格で、もう一人の性格が表に出てきているから、普段の自分を思い出せないのではないか?」

 と感じた。

 そもそも、普段の彼女がどういう性格で、どういう女なのか分からない。もし、危険が孕んでいるような性格であれば、誰かに狙われたとしても、無理もないことなのかも知れない。だが、果たして、どっちが本当の彼女なのか。あるいは、潜んでいる性格が一つだけなのかどうか? いろいろ考えてしまうと、どうしても暴走してしまう。なぜなら、今の段階で、何も分かっていないからであった。

「ということは、自分も二重人格性があり、彼女が、二重人格のため、記憶を失ったようで、その性格が災いして、命を狙われるまでになったのだとすれば、これは、俺にも言えることではないか?」

 と、杭瀬は考えた。

 そういう意味で、彼女の危険を救ったのが、杭瀬だというのも、実に皮肉なことではないだろうか。

 それを思うと、

「ただの偶然なのか、それとも何かの必然を自分で証明しているのではないか?」

 という考えに至ってしまうのだった。

 杭瀬は、彼女に高飛車で言われた時、怒りはあったが、どこか冷静で見ることができた。今までの自分であれば、こんな状況に耐えられるわけもなく、こみあげてきた怒りをぶちまけていたのだろうが、ひょっとすると、彼女の後ろに隠れているもう一人の彼女を、無意識に怒りに耐えている間、感じていたのかも知れない。

 とりあえず、その日は、何となく釈然とはしなかったが、怒りを爆発させずに済んだのは、

「自分が助けてやったんだ」

 という自負と、彼女の後ろにいるであろう、

「もう一人の彼女」

 を感じたからなのかも知れない。

 その日は、そんなことを考えながら家路についた。それでも、釈然としない思いは残ってしまったのか、夢見はあまりいいものではなかったのだ。

 家に帰り付くと、しばらく眠れなかった。夢見が悪そうな気がしたからだ。やはり気になったのは、彼女の様子であった。

「なんであんなに高飛車だったのだろうか? 記憶はなくなっても、元々の素の性格であるものが表に出てきたということで、彼女の素はあんな性格なのかも知れないな」

 と思うと、あんまりあんな女と関わり合いにならない方がいいと感じた、

 何しろ、あの女のあの高飛車な様子を見ていて、昔の自分のトラウマがよみがえってきたのだから、胸糞悪くても、仕方のないというものだ。

 それでも、翌日の仕事を考えれば寝なければいけない。そう思って、何とか眠りに就いた。

 すると、夢の中で、見舞いに行った記憶を一時的に失っているという、あの胸糞悪い高飛車な女が出てきたのだ。

 女は、後ろから追いかけられる相手に、恐怖の形相を見せ、そして追いかけている人間は、女に襲い掛かる。

「キャー」

 という声が聞こえて、しばらくは、追っかけっこが続く、やっと女に追いついて、手に持っているナイフで、女に切りかかるのは、なんと夢の中での自分だった。

 しかし、夢の中だからであろうか。女を襲っているということに、罪悪感はまったくなかった。むしろ、

「あんな高飛車な女、切り付けられたって、ざまあみろという気分だぜ」

 と、心の中でほくそえみながら叫んでいたのだ。

 そして、いよいよ切り付けようとした時。こちらを見ている男がいた。女の悲鳴に反応してやってきたのか、その男の顔に見覚えがある。

「そうだ。あれは俺じゃないか?」

 スポットライトを浴びたように、相手の顔はハッキリと見える。

 自分は顔を見られたと思って、取るものもとりあえず、走り去ったのだ。

 実際の事件現場を夢に見たのだ。それも、犯人は自分ではないか。犯人の顔を見ることができなかったのは、逆光だったのを、犯人だって分かっているだろう。もし分かっておらず、

「男に顔を見られた」

 と思っていたとすれば、杭瀬の命も危ないかも知れない。

 だが、これはあくまでも夢なのだ。

 その夢の中で何となく違和感があった。複数あったような気がしたので、思い出せるかどうか……。

 一つ目に感じたのは、

「悲鳴が聞こえてから、俺が出てくるまでに時間が掛かった」

 ということだった。

 最初声を聞いてから、すぐに駆け付けたので、実際には数秒くらいのものだったように思えるが、今の夢では、数分かかったかのように感じた。

 これが違和感だったが、もう一つは、夢の中だからだろうか。女を追いかけている時、なかなか追いつけないのだ。

「追いついているはずなのに」

 と思って走っていたのだが、その理由もすぐに分かった。

「どうやら追いかけていたのは、女の実像ではなく、影だったようだ。影を追いかけているのだから。追いつけるわけもない。まるで、蜃気楼を見ているようだ」

 蜃気楼というと、逃げ水という言葉にあるように、砂漠などで、見つけたオアシスが、近づくにつれて、消えてしまうというものだ。

 実際にそこにあるわけではなく、見えているオアシスは、別のところにあって、砂漠の乾燥した空気が、湿気もないのに、湯気となって沸き立つことで、錯覚を起こさせるものである。

 そんな蜃気楼を見ているように、影をまるで、本当の姿のように錯覚し、追いかけてしまう。それが、逃げ水と同じ感覚だといえるのではないだろうか。

 時間に関しては、そもそも夢に、時間という概念はない。

 夢というものは、どんなに果てしない夢を見たとしても、それは、目が覚める数秒間のことだという。

 つまり、時間という感覚が、時間を飛び越えるのは、夢の中で、強引に辻褄を合わせようとするために、夢の世界は果てという感覚がないような働きになっているのかも知れない。

「つまり、縦、横、高さという三次元に対し、どの方向に時間軸を引けば、四次元の世界として成立するのだろうか?」

 という考えに至るのではないだろうか?

 夢の中で、蜃気楼を見た感覚になるのは、意識が朦朧とした夢を見ているからだという感覚になるからだ。

 蜃気楼というものは、一体どこにあるのかを考えてしまう。。

「逃げ水」

 というのは、その名のごとく。見えている水に近づいていくと、目の前にあったものが、急に消えて見えなくなるものである。

 実際には、なかったものが見えていたことがおかしいのであって、別に見えていた水が消えてしまったことがおかしいわけではない。見えていたはずのものを、

「絶対に見えていたはずだ」

 と信じて疑わないことから、見えていたものが見えなくなったということを疑ってしまう。

 実際にその場にいけば、存在していないわけだから、消去法で考えれば、

「最初からなかったのだ」

 と考える方が、何十倍も信憑性があるというものだ。

 それが分からないということは、それだけ砂漠において意識が朦朧としていて、思考が停止してしまうほどになるのだろう。

 そもそも、湿気がないのに、砂漠で水が見えるほどの蒸気が上がるというのはどういうことなのだろう?

 日本の都会のような、コンクリートジャングル(死後か?)でも、雨が降らない時であっても、湿気がひどかったり、コンクリートを水平線として見た時、湯気のようなものが沸き立っている。それが誇りと一緒に塵として湧き上がることで、蜃気楼のような現象になるのだが、

「雨も降っていないのに、どうしてこんなに湿気があるかのようになるのだろうか?」

 と考えるのだ。

 まさか、砂塵が舞い上がる時に、水のような効果があるわけではあるまいし、同じ原理で、砂漠で逃げ水が見えたりするのかも知れない。

「夢まぼろし」

 とはよく言ったもので、夢が幻を作るのであれば、起きていて見る夢だってあるわけなので、起きている時に、幻が見えたとしても、理屈に合わないわけではないだろう。

 それが蜃気楼であり、逃げ水だとすれば、ロマンチックな印象にもなるというものである。

 それを思うと、夢とまぼろしは、切っても切り離せないものだと思える。

 夢を見た時に感じるのが、

「まぼろし」

 現実の中で感じるのが

「幻」

 どっちがどっちともいえないが、逆であっても、全然いいような気がする。

 どこが間違っているというのか、感じ方はひとそれぞれで、字に書いてみた時の、そのバランスが大事だということを、杭瀬は感じていたのだった。

 そんな夢を見ていると、

「夢というのが、すべてまぼろしではないか?」

 と感じるようになっていた。

 それは、まるで夢の入れ子のような感覚で、

「例えば、不眠症になり、眠れないと、毎日悩んでいて、病院で診てもらったとしよう。しかし、実際に精神科で診てもらっても、どこが悪いのかハッキリと分からない。だが、確かに、眠れないと叫んでいる自分しか見えてこない。そして気が付けば、また朝になっているのだった」

 という話があった時、オチとして言われていることは、

「実は、眠れないという夢を見ているというオチだった」

 というのだ。

 ちょっと考えれば分かることなのだが、眠れないということが、呪縛になってしまい、普通なら理解できることを考えられなくなってしまい、そこから起こる負のスパイラルから、逃れることができなくなるのである。

「夢の中で一番怖い夢は何か?」

 と聞かれて、最初に思いつくのは、

「夢の中で、もう一人の自分を見ることだ」

 と答える。

 つまりは、もう一人の主役の自分を夢で見ている自分がいるということだ。この発想は、箱庭に入っている自分を、表から見ている自分がいるというような発想と同じなのではないだろうか?

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