第54話

「お前は真実を見る勇気を持つべきだ…」


最後にそう聞こえた気がする。

美和は陽平に首を触られると、恐怖のあまり失神した。陽平のその手は、ゾッとするほど冷たかった。



「美和さん!」

篠倉はインターフォンを押すのも忘れ、門扉を開けると玄関扉を叩いた。


何度か叩いたが応答がない。篠倉は少し迷った後、ドアノブに手をかけた。

扉はいとも簡単に開いた。家の中に飛び込んだ後、リビングに倒れる美和を見てギョッとした。


「美和さん!」

篠倉は顔を美和に近づけて呼吸がある事を確認すると、美和の首の後ろに腕を回し、上半身を起こした。

「美和さん…」

何度か揺り動かすと、美和はゆっくりと瞳を開けた。

「篠倉君…?」

「美和さん…よかった。痛い所ないですか?」

「ううん、大丈夫。それより、どうしてここに?」

「…あの、美和さんが学校に来てなかったので…」

篠倉は言い淀んだ。

「そうなの?もうそんな時間?」

美和は壁にかかった時計を見た後、大きく息を吐いた。

「そうなんだ…どれくらい倒れていたんだろう」

「何があったんですか?」

「お兄ちゃんに…いや、お兄ちゃんとちょっと喧嘩しちゃって」

「お兄さんと…」

「あ、そうだ。お兄ちゃんはどこ?篠倉君、お兄ちゃん見なかった?」

「…ここに着いた時は、美和さん一人でした」

「そうなんだ…」

美和は安心したような顔をした。


「わざわざ来てありがとう」

「こんな時に何言ってるんですか!そんな事より美和さんは体大丈夫なんですか?」

「うん…何ともないよ」

美和は無意識に自分の首を触った。

「本当に、もう大丈夫」

美和は起き上がると、篠倉にソファに座るよう指示を出した。

「お茶でも入れるね」

「お茶なんていいです、美和さんは寝てて下さい」

「本当にもう大丈夫なの」

美和はキッチンに向かうと、ティーポットとティーカップを出した。


さっきのお兄ちゃんは怖かった。突然どうしてこんな事になってしまったの?

美和は先程の事を思い出したら指先が震えた。

あの冷たい感触が、まだ首に残ってる。


その時だった。

ガタンッという大きな音が二階から聞こえた。陽平が部屋で暴れていた時に、よく聞こえて来た音に似てる気がして、美和は身構えた。


「お兄ちゃん…!」


美和は持っていたティーポットを置くと、階段の下に走った。

「美和さん!?」

その後に、篠倉も続く。


「今、二階から物音がしたよね?」

「え、いいえ、僕は何も聞こえませんでした」

「本当に?あんなに大きな音がしたのに?…ほら!また!」

「美和さん?大丈夫ですか?」

篠倉は心配そうに美和の顔を見た。

篠倉君が嘘をついてるようには見えない。どうしてあの音が聞こえないの?

「お兄ちゃんが私に怒って暴れてるのかもしれない」

「…美和さん、落ち着いて聞いて下さい」

「落ち着いてる!聞こえてないのは篠倉君の方でしょう!?」

冷静さを失った美和は言い方が強くなった。


「お兄ちゃん!」

美和は階段の下からやや大きめの声で呼んだ。


しかし応答がない。


美和はゴクリと唾を飲み込んだ後、階段の手すりに手をかけた。

階段を一段登ろうとした時、篠倉が美和を後ろから抱きすくめた。


「美和さん!待って下さい!」

「篠倉くん…?」

驚いた美和が篠倉を振り返ってハッとした。篠倉の目からは、涙が溢れていた。

「篠倉くん…ど、どうして泣いているの?」

美和が篠倉の涙を手で拭うと、その手を篠倉が掴んだ。

「美和さん、落ち着いて聞いて下さい…。僕には、その音は聞こえていません」

美和は篠倉が何を言いたいかを測りかねて、不思議そうな顔をした。

「美和さん…」

篠倉は更に涙を流した。手を掴まれている美和には、それを拭く術がない。

篠倉は目を閉じて、スーッと小さく鼻で息を吸った。


「こんな事、僕の口から言うべきではないのかもしれない。でも、僕だからこそ言わなくてはならないのかもしれない。それは分かりません」

美和は無言で首を僅かに傾げた。

「美和さん、あなたのお兄さんは」

篠倉はここまで言って、一呼吸置いて唇を噛んだ。

「あなたのお兄さんは、亡くなっています」
















「え…?」








美和は確かに、世界が暗転したのを見た。













真っ暗な世界に、一人突き飛ばされた感覚。












足元から世界が崩れていく感覚。












それらが一気に目の前を訪れて、そして消えて行った。

















「何言ってるの?」









篠倉君はどうかしてしまったんじゃないだろうか。






さっきお兄ちゃんに触れられた手の感覚が、まだ首に残っているというのに…






篠倉を見やると、篠倉は美和と目が合ったまま、ひたすらに涙を流していた。





美和はくるりと体を反転させると、上りかけていた階段を一気に上った。




「美和さん…」



今お兄ちゃんに会わせてあげる。ずっと二人を会わせたかった。私の大好きな二人を。きっと仲良くなれるはず。

三人でリビングでお茶を飲んで、お兄ちゃんと私の思い出話を話して聞かせて、そしてお兄ちゃんは篠倉との初対面のエピソードを話そう。


クラスで一言も言葉を交わした事のなかった二人が、偶然出会ったあの裏庭での出来事を…






美和は陽平の部屋の前に着くと、扉をドンドンと叩いた。

「お兄ちゃん!」


「居るんでしょ?出て来て!お願い!」


「お兄ちゃん!」


美和は扉を叩き続けたが、応答はない。


そこへ後を追いかけて来た篠倉が、美和の後ろに立った。

「今会わせてあげるからね」

美和は篠倉を振り返る事もなく言った。


お兄ちゃん…!お兄ちゃん…!そんな筈はない。さっきまで音がしていたのだ。

あぁなのに、なぜ私はこんなに焦っているのだろう。


「お兄ちゃん…?開けるからね」


痺れを切らした美和は扉を開ける事にした。

あぁ、だがそれには途方もない勇気が必要だった。

それは、ここが陽平が引きこもって以来、一度も開いてるところを見た事が無い場所だからだ。

ここに入る事は陽平の心の核心に無理やり触れてしまう事のような気がして、陽子が亡くなって陽平が部屋を出て来た後も、暗黙の了解のように触れてこなかった場所だからだ。


美和は手の汗をスカートで拭うと、ドアノブに手をかけた。


扉を開けた瞬間、そこには篠倉でも目を背けたくなるような光景が広がっていた。

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