第17話

暫くは平和な日々が続いた。


「一緒にテスト勉強しない?」

初めに持ちかけたのは美和だった。

いつもの昼休みの理科準備室。最近は前にも増してこの時間が楽しみになっている。

その理由に、美和はまだ気付いていない。


「あの、よかったら…だけど」

美和は慌てて言い直した。

「いいですね、僕数学苦手なんで、勉強しないとです」

「知ってた。この間テスト返された時、ガーンって顔してたから」

「見られてましたか」

篠倉は苦笑した。


「じゃあ、早速今日から放課後ここで勉強しますか?」

篠倉の提案に、美和は二つ返事で返した。






ーそして待ちに待った放課後がやってきた。


美和は足取りも軽く、誰にも見られてない事を確認してから、理科準備室の戸を開けた。

まだ篠倉は来ていない。

美和はいつもの机の上に教科書を置いて、改めて理科準備室の中を眺めた。

沢山の薬品、中身の分からないホルマリン漬け、埃を被った本、その中に蝉の昆虫標本もあった。美和ははそれを手に取り、被った誇りを手で拭って眺めた。

あの時の蝉、元気かな…

私とお兄ちゃんずっと、この標本の蝉のように囚われている気がする。ママという檻に。

このままずっと、囚われたままなのだろうか?


その時、理科準備室の戸が開いた。美和が振り向くと、予想通り、やはりそこには篠倉が居た。


「すみません、遅くなりました」

「全然遅くないよ、それに色々見てて楽しかったし」

「標本みていたんですか?」

「うん、篠倉君は標本作ったりするの?」

「以前は家で飼育して亡くなった虫を標本にする事はありました。」

「以前は…?」

「以前は、です。やはり虫は自由に大空を飛び回り、そして亡くなったら土に還って行く…その循環こそが美しいんだと分かったからです。標本にしていつまでも縛り付けていちゃいけないんだって事がわかりました」

篠倉は眼鏡のズレを直し、真剣な顔をした。

「それに気付けたのは、美和さんのお陰です。僕は自分は何してもダメだってずっと思ってました。元々友達が少ない上に、この高校に入ってから友達と呼べる人は居ませんでしたから。でも、美和さんと出会って、自分にも何かできるんじゃないかって思えるようになりました。僕は自由なんだから、何でも出来るんだって。夢を追う事は自由を求める事です。なのでやはり夢を追う事に決めました。美和さんのお陰です」

「私、何もしてないよ。全部篠倉君が頑張ったからだよ?と、いうか美和さんって呼んでくれたね」

美和が笑うと、篠倉は慌てた様子で

「わ、わー!ごめんなさい!図々しく!」

「ううん。嬉しい。それより、夢ってなーに?聞いていい?」

「はい、勿論です。僕の夢は昆虫学者になる事です」

そう言った篠倉の瞳には揺らぐことの無い決意が見えた。

「そっか。いいな、夢があって。私には何もないな」

「美和さんは絵が上手じゃないですか、学校の賞で入賞してましたよね」

「知ってたの?てか、見てくれてたんだ」

「東校舎にまだ飾られてるので、勿論」

美和が頑張って一筆一筆丁寧に描いた絵を篠倉が見てくれていた事に、美和は嬉しくなった。

「でも、絵が得意でも何にも…」

ここまで言いかけて、美和はハッとした。

〝絵が得意でも何にもならない〟これは、母、陽子言ったセリフだ。

私はいつの間にかママの言葉に囚われている。

「美和さん?」

急に黙った美和に、篠倉が心配そうな視線を向ける。

「何でもない。絵が好きだから、何か絵を描く仕事につけたらいいな」

美和は言い直した。

「絶対つけますよ。そうだ、僕は学者になって昆虫図鑑を出したいんです。そこに美和さんが絵を描いてくれるのはどうですか?」

「私の絵を…?私の絵でいいの?」

美和の胸は高鳴った。

「はい、美和さんの絵がいいんです」

私なんかの絵でいいの?そう言おうとして、美和は口をつぐんだ。

「ありがとう。じゃあもっと勉強して美大に受からなくちゃ」

「美和さんなら絶対受かります!」

篠倉は自信満々に言った。

「なんで篠倉君が自信満々なの…?」

美和が笑うと、篠倉も「ほんとですね」と言って笑った。


夢を追う事は自由を求める事、という篠倉の言葉がいつまでもこだましていた。


西陽が窓から差し込んで、なんとも美しい放課後の事だった。

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