第9話

今朝も人混みに流されるようにして電車に乗り込む。朝の電車は混んでいて息さえしづらいが、こんなでも家よりはマシだ。

家から学校まで電車で2時間かかるので本でも読みたいが、座れたためしが無いのでそれは無理な話だった。

人の頭ごしに見える景色を楽しむには毎日見すぎたし、スマホを与えられていないので、SNSやゲームを楽しむ事も出来ない。

それでも片道2時間かかる高校をわざわざ選んだのは、自分の事を知る人が誰も居ない場所に行きたかったからだ。そこでなら、地元でちょっとした有名人だった兄の事を根掘り葉掘り聞く人は居ないだろうと考えたから。

実際、陽平がT大に落ちたらしい噂はすぐに広まった。皆んなが遠巻きに美和を見たり、明らかに陽平の事を話してヒソヒソしたりした。

「あんな優秀な子がどうして」と、直接美和に聞きに来たりする人まで居た。

しかし、引きこもってる事まで広まらなかったのは、陽子が先手を打ったからだった。

〝傷心の陽平は、語学留学を兼ねて父親の居る東アジアに行った〟という噂を自ら流したのだ。美和は始め、その嘘を〝母親の見栄のための馬鹿馬鹿しい嘘〟だと思って白けていたが、その噂のお陰か、遠巻きにヒソヒソされる事も、美和に失礼な質問をしてくる人も居なくなった。しかしそれで良かったとは言えない。

美和は世間に、陽平の事を隠して生きなければならなくなった。大きな嘘をつきながらの生活は、思いの外疲れる。

結果、高校を選んで正解だったと、美和は思う。兄の事も母の事も気にしなくて済む環境は、美和にとって良い息抜きになった。





「おはようございます!!!」

担任の村松先生はいつも声が大きい。

生徒達も口々に挨拶を返すが、美和は曖昧に口を開いて誤魔化した。

村松先生は声は大きいが生徒思いで人気があるので、挨拶を返す生徒は多い。返さないのは、ただ面倒臭いか、友達が居ない、いわゆる陰キャの生徒だけだった。


私は、多分その全部。返すのが面倒な、友達のいない根暗な陰キャ。

高校に入ってすぐは、友達を作るチャンスもあった。実際、美和に話しかけてくれる子も居た。でも仲良くなったら自然と家族の話になる。その度に嘘をつき続けていくのは億劫だった。それなら友達など作らなくていい、一人でいい、その方が気楽だ。一人でいたらいたでクラスで悪目立ちしてしまうので、極力空気のように地味に生活することを望んだ。

実際一人でいるのも好きだったし、そんなに問題は無かった。寂しくなったら中学時代の友達に電話をすればいい。中学時代の友達にも、陽平は海外に行ったことになっているが、友達たちは気を遣っているのか、陽平の事は一切聞いてこなかった。

と、言っても、スマホが無い美和には、そんなにこまめに連絡を取る事も出来ないのだが…

美和は抱える孤独を、絵を描く事で癒した。



「今日はこの間やった小テストを返すぞ!」

村松先生がそう言うと、皆んな口々に「えー」とか「ゲー」とか言って、クラスのテンションは一気に下がった。

小テスト、それはこの先週、村松先生が抜き打ちで行ったテストで、クラスの大ブーイングの中行われた。

美和は数学が元々苦手な上に、抜き打ちなら尚更だった。今回のテストは、今までの中で最低点をとっていてもおかしくない。


美和もクラスメイトと一緒に騒ぎたくなるのを抑えて、自分の名前が呼ばれるのを待った。

「じゃあいっつも男子からだから、今日は女子から行くぞー!新井千夏!」

「ゲー1番なんて勘弁してよー」

「頑張れ千夏!」

「あたし、マジで今回のテストヤバイんだって」

新井千夏はどんよりした顔でテストを受け取った。

「じゃあ次!加藤希!」


次々に名前が呼ばれる中、美和は死刑宣告を待つ囚人のような気持ちでいた。

今回のテストは見たらすぐ捨てよう。ママに見られたらまた長いお説教と嫌味の連続大会が始まっちゃう…!


「次!藤枝美和!」


とうとう美和の名前が呼ばれた。美和は立ち上がると、ノロノロと亀のような足取りで教壇の横に立った。そして受け取ったテストを今すぐに破り捨ててしまいたかった。できれば点数を見る前に!

しかし、そんな訳にはいかないので、自分の机に戻ると、誰にも見えないようにそっと点数を見た。そこには48点の数字があった。

あぁ…やっぱり…

美和はそのテストを綺麗に折り畳むと、カバンの底に突っ込んだ。


「次、男子行くぞー!」


先生は男子の名前を呼び始めた。

「じゃあ次、篠倉勇輝!」

「はぃ…」

蚊の鳴くような声で返事をして、美和の右斜め後ろの生徒が立ち上がった。美和は思わず振り返った。

篠倉勇輝…美和と同じで、いつも一人で居る生徒。彼が誰かと話してるのを見た事がない。休み時間はいつも本を読んでいる、丸眼鏡がいかにも真面目そうな、細くて小柄な男の子だ。


篠倉は教団の横に立ち、テストを受け取ると、のそのそと自分の机に戻った。何故か気になり、美和は篠倉を横目で追った。

篠倉はテストを開くと、目を見開き、口をあんぐり開け「ガーン」という効果音が聞こえてきそうな顔をしたので、美和は思わず笑ってしまいそうになった。


クラスのお調子者の男子が、

「オレ34点だった。お前は?」

「オレ40点!買ったね!」

などと騒ぐ。村松先生が

「お前ら二人とも堂々と言えるような点数してないぞ」

と言うと、クラスの皆んながクスクス笑った。

それにも関わらず、美和の目線は相変わらず篠倉の元にあった。篠倉はショックを隠せない顔でしょんぼり下を向いている。

篠倉くんてこんなに表情豊かな人だったんだ…美和は初めて知った。

と、いうより、クラスメイトの顔をマジマジ見る事なんて今まで無かったのだ。

篠倉君て数学苦手なんだな…私と同じ。

この時、美和は初めてクラスメイトに親近感を抱いたのであった。

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