接吻したら即結婚!?婚約破棄された薬師令嬢が助けたのは隣国の皇帝でした

櫻田りん

第1話 婚約破棄劇場、開幕です

 

「シュヴァリエ皇帝陛下……! 後で何なりと裁きは受けますから、ご容赦を……!」


 ヴァイオレットの人生で初めてのキスは、未来の夫の命を救うための、ムードの欠片もない苦いものだった。



 ◇◇◇



「ヴァイオレット・ダンズライト! 今この時をもって、貴様との婚約を破棄する! 理由なら言わずとも分かるだろう?」


 ハイアール王国の第一王子──ダッサム・ハイアールの婚約破棄宣言が響いたのは、彼が主催する舞踏会の会場だった。


 綺羅びやかなシャンデリアの下。流行を取り入れたドレスを着た令嬢たちの一部は扇子を開くと笑みを隠し、令息たちの数人はくつくつと喉を鳴らす。


 ほとんどの舞踏会参加者は「そんな馬鹿な……」とぽつぽつと零しながらヴァイオレットに同情の目を向けるが、その中でも異彩を放っているのがダッサムの隣に居る可憐な少女だ。


「ダッサム様……っ」


 この大陸には生まれない黒髪に黒目の童顔な少女──マナカは、百年に一度異世界から転生してくると言われるキセキの存在だ。

約半年前、人々を癒す特殊な力を持って現れた彼女は、『聖女様』だと言われている。


 そんなマナカは、ダッサムのことを崇拝しているような眼差しで眺めていた。


「隣にいらっしゃる聖女様──マナカ様と新たに婚約を結びたいが故、私が邪魔になった、ということで宜しいですか?」

「なっ! 言い方を弁えんか、愚か者! 貴様は私が聖女であるマナカを気にかけることに嫉妬し、彼女に数々の嫌がらせをしただろう! いくら私のことが好き過ぎるとはいえ、嫉妬など醜いぞ……!」

「……なるほど」


 ヴァイオレットはポツリと呟いて、溜め息を零した。


 そして次の瞬間、扇子を力強くパシンと閉めたヴァイオレットの蜂蜜色の髪がふわりと揺れる。


 乱れた横髪を耳に掛けると、髪の毛と同じ美しい蜂蜜色の瞳をスッと細めて、嫌がらせの内容を問いかけた。


「お前は王宮で彼女に会うたびに、聖女としてもっと勉強しろだのマナーが間違っているだの、小言をグチグチグチグチ言ったらしいじゃないか!」

「グチグチと言ったつもりはありませんが……それが嫌がらせですか?」

「これを嫌がらせ以外の何だと言うんだ! マナカはこの国に一人しか居ない聖女だぞ!? 恥を知れ!」


 ダッサムの言葉に、ヴァイオレットは再び静かにため息を漏らす。

 ……許されるのならば、その程度の理由で、かつ客観的意見を何も集めていない状況で婚約破棄を宣言する殿下の方が恥知らずでは? と言いたかったが、口を噤んだ。──それに。


(殿下に好意はなかったわ。どころかむしろ嫌いだった。……殿下がマナカ様に興味を抱いてからは、こういう日がいずれ来ることも想像していたし。……けれど、十年以上婚約者だった方にこんな公の場で罵倒されるのは、流石に傷つく……)


 表情をほとんど崩さないヴァイオレットだったけれど、気を抜けば声が震えてしまいそうだったからだ。


 しかし、ヴァイオレットは自身は何も間違ったことはしていないのだからと言い聞かせて、凛とした態度を貫き通した。


 それからダッサムはというと、マナカから聞いたというヴァイオレットの醜聞を饒舌に語った。


 先程の嫌がらせに加え、マナカが社交界の爪弾きにあうよう画策したとか、マナカを階段から落とそうとしたとか、あれやこれやを語るダッサムはヴァイオレットを見て異常なほどに楽しそうだ。


 ヴァイオレットがそんな事をした覚えはないと伝えても、「マナカが言っているんだから正しい!」という良く分からない理論を繰り出してくるので、もはや目も当てられなかった。


「私は将来ハイアール国の国王になる人間として、ヴァイオレットのような醜い女を妻にはできない! よって彼女との婚約は破棄し、新たに聖女マナカを私の妻にする! 皆のもの、盛大な拍手を……!!」


 その瞬間、一部で巻き起こる歓声と拍手。

 婚約破棄宣言があった際、ヴァイオレットのことを嘲笑っていた者たちばかりである。


(レリーヌ侯爵家に、バジリオ伯爵家。……その他の方も、我がダンズライト公爵家を引きずり降ろしたい者ばかりね)


 代々筆頭公爵家としてハイアール国の政に大きく関わり、膨大な権力を持ったダンズライト公爵家を良く思っていない貴族たちが少なからずいることを知っている。


 だから、ヴァイオレットはこの事態に驚くことはなかった。


 それからヴァイオレットは歓声が鳴り止んだタイミングで、もう一度口を開く。


「改めて申し上げますが、私はマナカ様を爪弾きにしたつもりも、危害を加えようとしたこともございません。知識やマナーを身に着けたほうが良いとは何度か申しましたが、それにはが──」

「ええい! 黙れ黙れ……! 貴様の言い訳など聞きたくもないわ!!」

「……っ」


 憤るダッサム、ヴァイオレットは押し黙る。


 将来妃となるため幼い頃から教育を受けてきたヴァイオレットは、どんな状況でも冷静に対応出来るよう鍛えられてはいたけれど、いくらなんでも将来夫となるはずだった人物にこう何度も怒鳴られるのはなかなかに堪えたのだ。


(私の今までの努力や我慢は、一体……何だったの)


 けれど、今は過去に目を向けても何も変わらない。それに、何もこの事態は想定できていなかったわけではないのだから。


 ヴァイオレットは大丈夫、大丈夫よ、と自身を言い聞かせてから、優雅なカーテシーを披露してみせる。


 そんなヴァイオレットに、会場中の雑音が一瞬姿を消した。


「婚約破棄の件は承りました。この場に居ない両陛下には、殿下からお伝え下さいませ。書面については──こちらを」


 パチンと指を鳴らし、近くに待機させていた従者から、ヴァイオレットは書類を受け取り、それをダッサムへと手渡した。


「は? 何だこれは?」

「……? 婚約解消に必要な書類ですが。ダンズライト家側の署名は全て終えてありますから、そちらの署名があれば直ぐに受理されるはずですわ」

「俺が言っているのはそういうことじゃない! 何故事前にこの書類を準備してあるんだ!! しかも署名まで終えて……!」


 先程より怒号の際に飛ばす唾が増えたダッサムの額には、色濃い青筋がブチブチと音を立てて浮かぶ。


 今日一番感情的になっているその姿に、何故望みの婚約破棄が叶うというのにこんなに怒り狂っているのだろうとヴァイオレットは疑問だった。  


 けれど、そんな疑問を解消することも今やもうどうでもいいことだ。


 ヴァイオレットは淡々とした口調で言葉を続けた。 


「殿下がマナカ様と逢瀬を繰り返し、愛を育んでいることには気付いておりました。同時に、以前よりも一層私に当たり散らすようになったことも。両親にも相談しましたところ、立場的に公爵家のこちらからでは婚約解消の申請は出来ないため、婚約破棄を言い渡されたら直ぐに同意できるよう書面は用意しておこうという話になっておりました」

「……っ!! つまり、この状況も貴様の想定の範囲内だと……。……舐め腐るのもいい加減にしろよ!」

「……!?」


 目を血走らせたダッサムは、王族とは思えないような口調で捲し立ててくる。


「貴様のそういう何でもお見通しといった面や性格が昔から大嫌いだったのだ!! なまじ勉強やマナーが完璧だからと調子に乗りおって……! 将来王になる私のほうがどう考えても偉いのに、貴様はいつも偉そうに勉強しろだの貴族の前では弱みは見せるなだの……何様のつもりだ!? お前のような可愛げのない女など、俺が捨てれば誰も拾わんぞ!!! 泣いて許しを請えば側室くらいにはしてやったというのに……婚約解消の署名を済ませているだと……? ふざけるな!! クソクソクソ!!!!」

「…………っ」


 好かれているだなんて思わなかったけれど、まさかここまで嫌われているだなんて。


「……そう、でしたか」


 ショックで、もう立っているのも精一杯だ。


 それなのに、ダッサムは未だにヴァイオレットに罵倒を続け、それが終わる頃には今度は比較するようにしてマナカを称賛し始めた。

 可愛らしいとか、話しているだけで癒やされるとか。そして、最後には──。


「私の新たな婚約者はこの国に一人しか居ない聖女だ! ヴァイオレットなんかよりも魅力的で、素晴らしい能力も持っている!」

「やだ……ダッサム様、褒め過ぎですよ……」

「そんなことはないよ、マナカ。ああ、そうだ。この場で聖女の力を披露してやってくれないか? そうすれば、この国においてそなたがどれほど貴重で尊い存在なのか、より皆が理解するだろう!」

「分かりました……!」


 ヴァイオレットに見せつけるようにしてマナカの腰を引き寄せながら提案したダッサムに対して、マナカは何とも嬉しそうに魔法の呪文を唱える。


 そして次の瞬間、マナカの体を纏うように現れた光の粒は会場中に浮遊した。


「これが、キセキの力……凄い……」


 誰かがそう呟いたこの力こそ、マナカの能力。魔力を持つものはあれど、今やもうこの世界の人間には誰ひとり使うことができない奇跡の御業──魔法だ。


 それもマナカが扱うのは回復を司る光魔法であり、その光の粒は、会場中の貴族たちのちょっとした怪我や、内臓の不調などを癒やしていく。


 その様子にダッサムは未だにヴァイオレットを見つめ、優越感に浸るような笑みを浮かべていた、のだけれど。


 ──キャァァァ!!


 会場後方から聞こえる令嬢の叫び声とざわつきに、ヴァイオレットはくるりと振り返る。そして、ざわつきの正体──倒れている男の元に、急いで駆け寄った。


「……っ、シュヴァリエ皇帝陛下! 大丈夫ですか!?」


 ──このときのヴァイオレットはまだ知らなかった。


 直後の自身の行動を皮切りに、隣国の皇帝──シュヴァリエ・リーガルに求婚され、どろどろに溺愛される未来が待っているなんて。

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