神明蒙昧晦行先(かみもぞんぜぬつごもりのゆくさき)

谷三十郎(仮)

第1回「三十郎がゆく その①」


 未だ泰平の眠りにふける国、日本。


 それを醒ます黒船来航は、もう少し先の話。


 二人の侍が夜中の城下を歩いている。


 行先は、これから殺すある男の屋敷……


 〇


 荒波のようにうねる山々を、龍のような河が両断している。


 河に沿う形で、その城下町は栄えてきた。三方を高い山に囲われ、城そのものも山から町を見下ろしている。そのいかにも閉鎖的な空間は、その国で暮らす人々の心にも堅固な城郭を宿らせていた。


「清水宗治って武将、おめえ知ってるか」


 冬の厚い雲が月を隠している。男の声を標として、もう一人が後に続く。ただ後の男は、この手の話に疎いようである。とはいえ、兄貴分を無視することもできず、どうにかこうにか、返答をひねりだした。


「会ったことないです」


「バカ」


 かたわらを流れる冷たい河の音が、二人の足音を隠していた。年も明けまだ十日の、底冷えする冬。夜に沈む天守だけが、彼らを見下ろしている。


「毛利の武将でな。織田信長の軍勢に水攻めにされ、城内の兵の命と引き換えに、見事に腹を召された」


 男は強い口調でつづけた。刀を握る手に力がこもる。


「だが哀しいかな、この時当の織田信長はとっくに死んでたんだ。それを隠して、宗治を切腹に追い込んで勝ちを掴んだのが、豊臣秀吉よ」


「話が見えないのですが」


「俺は幼いころ、この話を聞いて涙が止まらなかった。宗治さんは立派な武士だ、だからきっと、武士らしく立派に死にたかったに違いない。ところが自分を殺すのは、百姓上がりでさっさと戦を切り上げたい秀吉。これじゃあよ、宗治さんも浮かばれるわけねえよな」


 後ろの男は困った顔になる。

 やっぱり話が見えない。


「つまりだ」と兄貴分は片目で男を視界の端にとらえ、つづけた。


「百姓上がりがずけずけと武士に口出して、ご政道を左右しようなんてことは許されねえってことよ」


「ああ、だから百姓上がりで儒学者の方谷ほうこくを斬るんですね」


「そういうこった」


 足音が止まる。標的の屋敷が目の前にある。


 山田方谷。

 百姓ながらに学問一筋で身を立て、今や藩主から絶大な信頼を寄せられている。今この国で、最も非凡な男。


「儒学者は頭も立つし弁も立つが、俺たちのような忠義が無い。頭でっかちの田舎っぺには、大義は成せん」


「でもご覧ください。当人がそうでも、忠臣は抱えているようですよ」


 男が指さした先へ目を凝らすと、門の前に槍を担いだ人影が見える。寒空の下、岩のように立っている。


「用心棒とは臆病な。まあ気の毒だが、俺たちで殺ってしまうか」


「承知! それにしても、あんな若そうなのが一人だけとは、不用心ですね」


 覆面で顔を覆うと、二人はいよいよ鯉口を切る。

 どちらも剣術師範の家に生まれた、達人である。


「いいか、俺の合図でかかるぞ。一、二の……」


 と、その時。風が雲を押し流し、瞬く間に月が出た。そうして照らされた用心棒の顔を見て、男は兄貴分の合図も待たずに逃げ出した。


「おい、どうした!」


「ダメです、あれには十人でかかっても勝てません!」


「逃げるな、戻ってこい谷、谷三十郎!」


 三十郎は逃げた。覆面がひらりと風で飛んでいった。


「聞いてない、聞いてないぞ……」


 谷三十郎、十六歳。後に京へ上り新選組の幹部となるこの男の、騒々しい青春時代である。


「谷、貴様、敵を前に逃げるか、おい! 止まれ、戻ってこい! こうなりゃお前から先に斬っちゃる、止まらんか、谷い!」


 こちらはもっと騒々しい男・熊田あたか、二十三歳。


 これは、維新を先導しこの頑迷な島国に風穴を開ける喜劇でも、まもなく滅びる武士に焦がれ破滅に突き進む悲劇でもない。


 谷三十郎。

 激動の幕末史に、ちょっとだけ名を残した男。

 

 これは彼と、彼を取り巻く家族たちの凡庸な物語である。

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