その口付けは呪いとなりて

柴野

第一話 呪いの口付け

 彼女はとても美しかった。

 紅を差した唇は艶かしく、浮かべる笑みは聖母のように静かだ。


 月明かりの下で輝く金の髪があまりにも綺麗で、心を奪われた。


「ねえ、スチュアート」


 氷のようだと評されていた声が頭上から降り注ぐ。年齢が三つも上なせいか、彼女はスチュアートより背が高いのだ。

 スチュアートはその美声にハッと我に返り、腰の剣に手を伸ばそうとした。


 斬らなければ。

 そう思うのに、手が震えて剣を掴むことさえできない。

 澄み渡った青空のような彼女の瞳が彼を深く魅了する。


「どうか乱暴なことはなさらないでください。どうせ私はこれから捕まる。それはわかっているのです。だから――」


 彼女はスチュアートの銀髪にそっと指を差し入れたかと思うと、そのままぎゅっと抱きしめ、顔を寄せた。

 いつ何時でも彼女が肌身離さずつけていた蒼のペンダントがスチュアートの胸元にあたり、こつんと鈍い音を立てる。


「何を……」


「最期にあなたを、味わせて」


 ――ちゅっ。


 急速に近づき、重ね合わせられる互いの唇。

 彼女の舌がねっとりとスチュアートの口の中に捩じ込まれた。

 ぶちゅ、ぶちゅ、という水音を響かせながら、その口付けはじんわりと、しかし確実にスチュアートの心身へと染み込んでいく。

 気づけば彼は全身から力が抜けて、されるがままになっていた。


 甘やかで、幸せで、だからこそ胸が痛くなるほど切なくて、苦しい。


 そしてその夜の思い出はのちにスチュアートを蝕む呪いとなった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 悪女オリヴィア・プラウズの名はウェーゼム王国に広く知れ渡っている。


 名門貴族のプラウズ侯爵家令嬢、そしてウェーゼム王国第三王子の婚約者でもあった。

 どんな相手にも失礼のないようには接するが、その態度は冷たく『氷の令嬢』などと称されるほどだった。


 そんな彼女ではあったが、当時十七歳という歳に見合わぬ優秀さだったので一目置かれる存在だったと言えるだろう。


 だがしかし、オリヴィア・プラウズの本性が気高く美しい『氷の令嬢』などではなかったのだと明らかになる大きな事件が起こる。

 隣国の皇子に密通して情報を流し、他国に伝わる禁忌の呪いに手を染めて自らの父を手にかけ、最後には国王を筆頭に王族までも殺めようとしたのだ。国王は今も体が自由にならない。

 その悪事が公になり稀代の悪女と呼ばれた彼女は、十五年前に斬首刑に処されその命を散らしている。


 冷酷非道な彼女の逸話は数多く残っているが、それが真実であるか否かは定かでない。

 つまびらかにされていないこともあるだろう。しかし十五年経った今、誰もに忌み嫌われる彼女のことは話題にされず、半ば忘れ去られていた。

 たった一人、彼女の呪いに身も心も囚われたままの人物を除いては。


 ウェーゼム王国第三王子――スチュアートは、今でも毎夜のように彼女を夢に見る。

 十年以上を共に過ごした三歳年上の幼馴染。手を取り合ってその後の人生も生きていくはずだった婚約者オリヴィアとの記憶を、そして彼女が捕らえられるつい数時間前まで触れ合った思い出を、忘れられた日はない。


 彼は婚約者を失ってからの十五年間、五十回以上の見合い話を受けていたがその全て断り続けており、もうじき三十歳を迎えようという現在でも独身だ。

 オリヴィアより聡明な令嬢はいなかった。オリヴィアより美しく魅力的な令嬢など、いようはずもなかった。


 ――好き、だったのだ。


 十四歳であったスチュアートの少年らしい初恋。

 それは鮮明な口付けの記憶を最後に、凍りついてしまった。


 あの口付けがなければ諦めることもできたかも知れない。

 彼女は自分など愛していなかったのだと。隣国の皇子に魂を売り、この国を捧げようとした売国女だと。

 なのにあの月明かりに照らされた彼女を思い出す度、本当にそうだったのかとわからなくなる。


 彼女は何を思ってこの国を裏切ったのだろう。

 彼女はどうして、稀代の悪女と呼ばれ、散っていく運命を選んだのだろう。

 最期の口付けの意味は一体何だったのだろうか。


 いくら思考を巡らせたとて答えは得られないが、オリヴィアの記憶を薄れさせることなどできようはずもなかった。


 だからスチュアートはどんな令嬢との縁談も受けない。

 それはこれからも変わらないことだと、彼自身はそう思っていた。


 ある令嬢が現れるようになるまでは。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 王族は儀式などがあるので例外だが、貴族子女は十五歳になると皆社交界デビューを果たす。

 それまでは自分の家やとても親しい他家で開かれる茶会等しか顔を出してはならないしきたりがあるのだった。


 まだ幼さの残る令嬢令息たちは社交界への憧れと期待で瞳を輝かせており、眩しい。

 スチュアートはその眩しさから目を逸らすようにして奥へと引っ込んだ。彼は大の社交嫌いなのである。それもそのはずで、令嬢に言い寄られることはしょっちゅうだったし、さらには無理矢理媚薬を飲まされたことさえあるからだ。

 もちろんそれらに屈したことは一度もなかったが。


 ダンスホールを離れ、月明かりの差すバルコニーで一人夜空を見上げていた。


『ねえ、スチュアート』


 彼女の声が蘇る。

 そしてあの日の口付けの感触を思い出し、体の奥が静かに、切なく震えるのを感じた。


「あぁ……、僕は」


「まあっ、なんていい眺めなの! 王都ではこんな美しい景色が見られるだなんて、最高ですわっ! 田舎とは大違いですわね!」


 スチュアートが小さく呟いたのと、底抜けに明るい声が彼の鼓膜を震わせたのはほぼ同時だっただろうか。

 スチュアートの背後、ひょっこりバルコニーへ顔を突き出す少女の姿がある。彼女はキョロキョロと視線を巡らせながら、辿々しい足取りでバルコニーへとやって来た。


 その時になってようやくスチュアートに気づいたらしく、パッと表情を笑みに変える。


「あら、誰かいらっしゃいましたわ! えっと……ごきげんよう?

 私、今年で十五歳になって、今日社交デビューをしたばかりなんですの! だから色々わからなくって。ですからもし良かったらあなたのお名前を教えていただけると嬉しく思いますわ!」


「――――」


 スチュアートは、その声に答えを返さなかった。

 いいや、それは正しくないだろう。返答しなかったのではなく返答できなかっただけに過ぎない。


 その少女はとても美しかった。

 月明かりでもはっきりとわかる煌めく金髪。瞳は澄んだ青色をしていて、その唇は――――――艶かしいくれないだった。




 ありし日のオリヴィア・プラウズが、そこにいた。

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