1-1 秘密の水曜日

 ジメジメした梅雨の季節、部屋の床にはB5のレポート用紙が散乱、堆積していた。壁にはたくさんのメモ用紙が画鋲でとめられ、服も脱ぎ捨てられている。



 小鳥遊カンナは、書類の山に埋もれていた。



 身体を覆う書類の山を必死にかき分け、呼吸を乱しながら起き上がった。



「……死ぬかと思った」



 カンナは汗を大量にかいていた。レポート用紙が汗のせいで身体にベタリと貼り付いて煩わしい。用紙を全て手に取り、まとめて机上に置いた。



「何時まで作業してたんだろ……身体が重い」


 壁にかけられたメッセージボードを眺め、今日の予定が書かれた付箋を探す。その日の予定が書かれるのは決まって黄色の付箋で、毎日必ず一枚だけ貼られている。カンナは付箋を手に取り、書かれている内容を確認した。


〔今日は6月21日水曜日。いつも通りお願い。昨日は夜2時まで作業してた。ごめん〕と書いてあった。


「やっぱりか」

 ため息をつき、時計を見た。時刻は午前8時32分だった。


「遅刻してるな……」


 いつもなら、もう学校の校門前には到着している時間だ。カンナは急ぐのを諦め、いつものように制服に着替えた。彼女は切り替えと諦めが早く、焦ることを嫌う人間である。


 カンナは戸建ての一人暮らしだった。カンナには血の繋がらない母親・小鳥遊清子たかなしせいこがいる。彼女は海外赴任の有名なプレタポルテのデザイナーだ。カンナはシングルマザーの家庭に育つも金銭面の苦労は全くなく、自由気ままに生活していた。ゆえに精神的な余裕を常に持っており、遅刻であろうが何であろうがまずは状況を理解して優先順位をたてる、というのが彼女の基本的な思考と行動パターンだ。


 服を着替え、バックパックにタブレットとスマホ、教材テキストを入れて家を出た。


 学校までは徒歩で行ける距離だ。カンナはいつも、道中にある公園に必ず立ち寄ってから学校に行くようにしている。最近、公園には滅多に人がいない。少子化や騒音クレームなどで、日中、あまり人の出入りが少なくなった。カンナは寂しい世の中になったなと、がらんとした公園を切ない表情で眺めた。バックパックを下ろし、ベンチに腰を下ろした。


「おはよう。今日、寝坊しちゃったんだ」


 カンナは滑り台の手すりにとまる一匹のカラスに向かって話しかけた。


 カラスはこちらを見つめて羽を広げると、カァッと鳴いて、カンナのベンチ目掛けて飛んだ。


 カラスはベンチの背もたれに着地し、カンナを見つめている。


「あれ? 相棒は?」


 カラスは砂場の方へ身体を向けた。砂場の中央には黒猫が毛繕いをしていた。


「なんだ、そんなところにいたのか」


 カンナの目的はカラスと黒猫に会うためだった。

 初めて会ったのは1ヶ月前。彼女が公園にふらりと立ち寄った際、たまたま2匹がベンチに座っておしゃべりをしていたところを目撃したのが始まりだった。


 どうせ逃げられるだろうと思いつつ、好奇心で二匹に近づき話しかけてみた。すると、逃げられることもなく相槌を打つなどの反応があった。驚きはしたが、今回はたまたまで偶然だろうと思っていた。


 試しに翌日の朝も公園に立ち寄り、二匹に声をかけた。二匹はカンナの話を聞くように身を寄せ傾聴する姿勢をとった。カンナは信じられない驚きと喜びで、それからというもの、毎朝公園に足繁く通うことになる。


 2匹はまるで人間のようにカンナの話を聞き相槌を打ち、不思議と餌を食べようとしなかった。動物に無断で餌をあげることは公園や近所の自治体のルールで禁止されていたが、カンナは気にせず、こっそり餌を買ってきて与えようとした。そこまでしても2匹は餌に全く手をつけない。カンナは餌を持ち込むのを諦め、ただ日常の出来事を話すのみとなった。


「昨日、また先生が深夜に作業してたみたいなんだ」


 黒猫が砂場からベンチへ近付き、軽くジャンプしてカンナの右側に着地し、そのまま座った。カンナは黒猫の背中を優しく撫でた。


「困るよなぁ、こうして俺は遅刻しちゃうわけだ。深夜に作業なんかしたら身体に良くないのにどうして先生は辞めないんだろう。そんなに締め切りに追われてたのかな? 今書いてる小説が良い感じなのはわかるけど、部屋の中がその執筆した紙で溢れてて大変なんだ。毎朝掃除してもまた次の日に目を覚ましたら紙だらけ。毎日掃除しなきゃいけない、俺は家政婦か何かだと思ってるのかな?」


 カラスがカンナの左肩を嘴で軽く突いた。


「何? どうしたの?」


 カラスは左の足をカンナに向けた。あしにオレンジ色のリングがはめられていた。


「綺麗な指輪だね」


 カラスはカンナの左手をくちばしで突く。


「え! もしかして俺に?」


 カンナが左手を差し出しと、カラスは「カァ」と鳴き、リングを手のひらに落とした。


「これ、本当にいいの?」


 カラスは答えるように「カァ」と鳴き、頷く。


「キラキラしたものを集めるってよく言うけど、プレゼントとかしてくれるんだ! 嬉しい」


 カンナは何も考えず、右手の薬指にはめた。


「俺、オレンジ色が好きなんだ。髪の毛もオレンジだから、同じ色で考えてくれたんだな! ありがとう」


 カラスの羽を優しく撫でながら、指輪を黒猫に見せた。


「ほら、君も見なよ! 綺麗だろ?」


 黒猫はコクンと頷き、そのまま指輪をぺろりと舐めた。


「なんで舐めたの? ダメだよ、これは食べちゃダメだ」


 カンナは笑いながら立ち上がった。


「そろそろ行かないとね。聞いてくれてありがとう。また明日!」


 カンナは二匹に手を振って、公園を出た。

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