秘密6

 紀子は目を覚ました。見慣れない部屋の光景と肌を刺す寒さに身を震わせる。

 ここはどこだっけ。

 それから、あぁ私は久保さんの家に来ていたんだ、と思い出した。今何時だろう、と首を捻らせる。自分のケータイを開いて、首を傾げた。紀子はたしか深夜の三時に眠ったはずだ。ケータイには五時だと表示されている。私は二時間しか眠っていないのか。そう思ってから違和感を感じた。もしかして、午前五時ではなくて午後五時なのではないか。隣にはいるはずの久保さんの姿はなかった。もしかして私は他人の家でずっと眠っていたのだろうか。外の景色は暗い。まさか、私は今日会社を無断欠勤してしまったのだろうか。

 身体中から血の気がサッと引いていく気配がした。紀子は飛び起きて顔を洗い、眠気を飛ばす。頭の中を「もしかして」で満たしながら服を着替えてケータイのメッセージを確認する。いくつかのメールには業務のことが書かれてあったり、友達から「どうしたの?」と心配を語るメッセージがあった。そして、上司の怒りの言葉。

 あぁ、私、初めて無断欠勤してしまったんだ。しかも寝坊で。他人の家で。

 少し泣きたくなった。ベッドの上に寝転び何度も寝返りを打って自分の失態を反省した。それから、もう終わってしまったんだ。明日詫びて、今日はもう反省の一日にしようと決めた。

 ちくり、と頭の奥が痛んだ。「あぁ、そういえば昔もこうして学校を無断欠席したことあったっけ。あれは二週間くらい、ずっと学校行かなかったな。あの、嫌な奴らに会いたくなくて……」紀子は頭を振った。もう古い過去の記憶だ。

 紀子はケータイを投げ捨てて、心を鎮めた。とりあえず、何か飲もう。立ち上がり、キッチンに入る。冷蔵庫には冷えたお茶が入っていた。久保さんには悪いが少しだけ拝借させてもらう。コップに注いで一口で全部飲んだ。それからやっと、リビングの机の上にメモが置かれていることに気づいた。

『先に出ます。部屋の鍵は玄関の花壇の下に置いておいてください』

 小さな紙切れを手に取って、紀子は少し笑った。とても丁寧で綺麗な文字だ。文字は書いた人の性質を包み隠さず表すという。紀子は出版書籍の編集に関わるデザインの仕事をしており、こうした文字の並びやその形の美しさが気になってしまう質だった。

「彼は普段はどんな文字を書いているのだろう」

 紀子は気になってしまい、デスクの引き出しを開けて中を探る。他人のものを漁るなんて悪趣味だとは思うが、惹かれている相手を探る気持ちは止められない。総じて相手を想うという行為のほとんどが悪趣味なものだ、と自分に言い聞かせた。

 すぐに手帳のようなものが見つかった。B5サイズの分厚い手帳。使い古されているのか色の褪せた革を表紙にしたものだった。彼は随分これがお気に入りのようだ。誰もいないことはわかっているのに思わず左右を見渡してしまう。他人のプライベードゾーンに立ち入るという背徳心と、久保さんの取り繕わないありのままの姿を見る事に、少しばかり緊張してしまう。ソッと、指を紙と紙の間に差し込むようにして開いた。

「私は久保だ」

 そう、大きく書かれていた。


マツダより:金田へ、またパチンコにはまったのか。依存症というやつだろうか。三年前のことは忘れていないよな。借金を作ってみんなに迷惑をかけただろう。覚えていないのか。

金田:マツダへ。覚えている。だけど、今はあの時と違うだろう。金はまぁまぁある。少し使うだけだ。やめようとは思うんだ。ただ、やめられないのだ。

久保:私は関与しない。ただし、決して私の関係者にはその姿を見せるな。


 そうして、何人もの名前がつらつらと書かれていた。その中には昨日久保と連れ添って合コンに参加していた二人の男の名もあった。紀子は首を傾げた。この手帳は一体何を記しているのだろう。マツダ、金田、久保さんの三人の交換日記、ないしは伝言ノートのように見える。筆跡の違う三つの文字を追ううちに、紀子は四つ目の登場人物に出会った。


美知子:久保へ。来週の土曜日は空いていますか。少し時間をください。友達に会うだけなので時間はとらせません。郊外だからあなたの交友関係の方とも会う事はないと思います。

久保:わかった。その日は何も予定はないから大丈夫。


 女だった。ササッと書いただけなのだが、そこに優雅さを感じる、流れるような線の美しい筆跡だ。久保さんの口調も和らいでいて親しみを感じる。紀子はこの美知子という女性に対して嫉妬を覚えた。久保さんとはまだ交際も始まっていないが、それでも気になる相手。ライバルはいない方がよい。

 ただ、同時に疑問もあった。この文面についてだ。美知子は久保さんに土曜の予定を聞いている。久保もそれに答えている。しかし、美知子は久保に会わずに友達に会うと言っている。美知子は久保に会うつもりはないのだ。では、なぜ久保さんの予定を聞く必要があるのだ。会いもしない人間の予定を聞いて、どうするのだろう。久保は車を持っていないようだったから送り迎えを頼むため、ということはないと思うのだが。久保の都合が悪ければ動くことができないとでも言うのだろうか。

 一体美知子とは誰なのだろう。久保さんのこのノートは一体なんなのだろう。

 紀子はノートを閉じ、それを、自分の鞄の中に滑り込ませた。




 そして、一日が経った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る