16 気付けばここにいた



 自分がまっすぐに歩けてるのかわからなくなった。

 夢の中みたいだ。

 ふわふわとして、頭だけがちょっと重たくて。


 頭が回らない。

 何も考えられない。

 でも、どうでもいい。


 もう、なんでもいい。なんだっていい。

 辛いことばかりな人生なんて。

 どれだけ頑張っても報われない人生なんて──……。




「生まれてこなけりゃ……楽だったのかなぁ」


 

 

 つっかけのまま歩いて、道を渡ろうと癖で後ろを確認してしまった。

 その時にトラックが目の前を横切った。

 息が当たる距離を通り過ぎる大型車を目で追って、意味もなくプレートナンバーを確認して、すぐに忘れて。再びあるき出した。


(…………今、後ろ確認しなかったら……死ねたな)


 惜しいことした、と思った。

 癖って染み付いてるもんなんだな。


 それも、もう、どうでもいい。


 どうやって死のう。

 何したら死ねるんだろ。

 やっぱり車に轢かれた方が楽なのかなあ。

 電車は遠いし……。


 何かに引っ張られるように顔をあげると、



(歩道橋……)



 中学生の頃に同級生と遊びながら通っていた歩道橋があった。

 一段一段が高く感じていたけど、今となってはすんなりと上がることができた。緑がかった無骨な鉄が年代を感じさせる。そのこともあってか、乗り越えるのに苦労はしない。

 手すりに手をかけ、目下の道路を見下ろした。

 

「明人待てよ〜!」「悠人遅すぎんだろ〜!」「俊助は、またアイツ女子の方ばっか見て──」「やば、チャイム鳴ったくね!?」「急げ急げ!」


 脳裏に浮かぶ普通な日々を背中にして、でっかいトラックが信号機で止まってるのを眺めてる。


「…………」

 

 あの時にはこんな奴になるつもりなんてなかったのに。


 こんな惨めな大人になるつもりなんてなかったのに。


 信号が青に変わり、エンジン音が街中を包み込んでいく。


「ああ──……これで、楽に」


 飛び降りようと足を乗り出して──袖を引かれた。


「おにっ……ちゃんっ……!!」


 後ろを振り返るとそこには妹がいた。

 焦ったような顔で、肌寒いのに肌着の姿の妹が。


「はぁっ……はっ……」

 

 なんでそんなに焦ってるんだろう。

 何が起こってるのか分からなかった。


 ただ、力強く佳奈は腕を握ったまま、ポケットから何かを取り出した。

 

 ──『なんでも言うこと聞く券』──


 佳奈が合格した時に渡した二人で作ったその五枚の券を握り締めて、汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔で荒い呼吸を繰り返して。

 その震える瞳に映る自分の顔を見た。


「──………………」


 瞬間、『音』が聞こえてきて、自分がしていたことをようやく頭が理解をした。


「……あ、佳奈……?」

 

「しなないで……おねがい、おねがい……!」


 胸元に飛び込んできて泣いて懇願してくる佳奈を放心したまま抱き寄せ、じわと涙が出てきた。


「ぼく…………ごめん…………そんなつもり、なかったのに」


 佳奈の細い体を抱き寄せる力が自然と強くなり、

 自分が何をしようとしていたかを理解して、また涙が溢れて。


「死のうと……してた…………ごめん。ごめん……っ」


 限界だと思って、気がついたらここにいて、

 頭がちゃんと動かなくて、

 息が苦しくて、呼吸がしづらくて。


「いやだよ……わたしっ……おにいちゃんまでいなくなったら……」


 その言葉に返せれる言葉なんて持ち得てなかった。

 だから、ただ、謝った。


 ごめん、と。

 ごめんなさい、と。


 ただ、今になって立ってることがつらくなって、佳奈を抱きしめたまま手すりに背中をつけたままズルズルと尻もちを着いた。

 まだ肌寒い季節の中、肌着のまま飛び出してきた佳奈の体は酷く冷たくなっていた。でも、それよりも僕の体が死人のように冷たくなってることに気付いた。

 佳奈の肌から伝わる人の体温を肌に感じて。固まっていた心が溶けるように、熱が伝播するようにして……涙がとまらなくなった。


「う、うっ……」


 大事な妹に心配をかけた。

 唯一の家族を置いて、一人で楽になろうとした。

 死のうとしてた。

 それが、一気に怖くなって、苦しくなって。


「う、う”あ”あ”あ”あ”……っ!」


 ボクは惨めに、かっこ悪く泣いた。


 それでも現実は変わらないのだと。

 それでも、母親と父親は帰ってこないのだと。


 これからは僕と佳奈の二人で暮らしていかないといけない。 

 覚悟を決める勇気なんてものが、18歳になったばかりの僕なんかが持ってるわけもなくて。


 それがまた惨めに思えて、

 自分の弱さに打ちひしがれるように、また泣いた。




     ◇◇◇




 家に帰っても父と母が帰っているということはなく、その日は佳奈と一緒の布団で寝ることにした。

 眠りにつくまで泣いていた佳奈を宥めながら、意識がはっきりとしている頭で込み上げてくる不安を必死に噛み殺した。

 自分の手元から無くなったことばかり数えず、今、僕に残ってるものはなんだ。


「おにいちゃん……」


 寝言を言う佳奈の頭を優しく撫でて、乾いた目尻に浮かんでいた涙を拭った。


(……僕が折れたら……佳奈はどうなる)


 中学を卒業したばかりの佳奈を、大人にする役目を果たせるのは僕だけ。

 残された家族の僕だけなのだ。


「…………だったら」


 妹の未来まで暗くしてしまうことは避けないといけない。

 ぼくはもう駄目かもしれないけど、佳奈はまだこれから高校生活が始まるんだ。

 未来があるのだ。


「……」

 

 僕は不安から込み上げてきた涙と鼻水を袖で擦った。


「……佳奈だけは、こんな目に合わせたくない」


 ろくに回りもしない頭で、自分ができることを考える。

 進学はできない。就職もできない。

 残された僕が佳奈に出来ることはなんだ……?


(……日常生活するためのお金を稼がないと……まず、そこからだ……)


 答えはうに得ていた。

 それを理解しようとしてなかっただけだ。

 だったら、それを実行に移すための力はあるか?


「……」


 力はない。

 だが罪悪感や不安、ストレスで体が耐えられないのなら、その逃げ道をそこにすればいい。

 没頭するようにすればこの頭でも考えずに働いてくれるだろう。


(廃人でもなんでもいい。何かしないと……僕は……止まったらダメなんだ)

 

 虚ろな視界はとめどなく溢れる視界でずっとぼやけてくる。

 嗚咽が交じる呼吸は、なにかに締め付けられているように浅い。

 罪悪感や不安で痛む心臓を上から抑えつける。


「ぼくの体なんて……どうでもいい。佳奈だけは……」


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