第36話 危機

 ――時は進み、同日の夕方。寮に戻ったフィオールは、ペンケースからペンが一本無くなっていることに気づいた。記憶を探っても、いつ紛失したのか覚えがない。ルイルに聞いても知らぬ存ぜぬで、正直思い入れがあるわけではないが、フィオールは校舎で探すことにした。一応優等生なのだ、誰が触ったか分からないからとどうせ捨てるとは言え、自分の物は自分で始末する。

 付いていくと言ったルイルをなだめ、フィオールは一人で寮を出た。レナリアの件があり、ルイルは夕食までテオールを部屋に呼んで一緒に過ごすと息巻いていたので、先に堪能していてもらおうという話だ。願わくは、完璧に仲直りしてもらいたい。フィオールの精神はルイルのそれに同調する、できる限り平穏を保っていてほしいと思うのは当然だった。


 今日最後に受けたクラスから、時間を遡るようにクラスルームを回っていく。終業後間もないおかげで、教師が施錠する前に確認できた。しかし、ちっとも見つからない。無いなぁ、と呑気に歩き回っているうちに、フィオールは校舎の一階へ戻ってきた。

 残すは、カーゴのクラスルームだ。やっぱりやめようか、と思った直後、ほこりまみれになったペンを想像してかぶりを振る。落とし物は誰も拾わないと相場が決まっている、来週になって床に放置されていたら、フィオールは不潔への嫌悪感と見て見ぬ振りの罪悪感の板挟みだ。コン、コン、とドアをノックし、返事を聞いてから開けた。


「あれ、フィオール。どうした?」

「忘れ物をしたみたいなので、ちょっと見てもいいですか?」

「ああ、もちろん」


 フィオールは、自身が使っているテーブルの下を見た。脚の陰になるようにして、ボールペンが一本転がっている。あった、と一安心し、フィオールはティッシュペーパー越しにそれを掴み取った。落とした直後ならいざ知らず、半日経っては十分汚いだろう。


「あったか?」

「はい、すみませんでした」

「いや、いや。――良かったな」


 ――浅かったのか。良かったな。


 デジャヴ、と言うのだろうか。フィオールの脳裏に、昼の会話が反芻した。カーゴの前を通りすぎようとして思わず立ち止まり、まじまじと見詰めてしまう。


「……何で……」

「ん?」


 言ってはいけない、聞いてはいけない、そう考えられるほど、今のフィオールは冷静さを備えていなかった。テオールが関わっているから、テオールが危険な目に遭ったことだから、テオールを守りたいから、フィオールの口は勝手に文字を紡いだ。


「テオがおなかに怪我を負ったって、分かったんですか……?」


 重い、深い、沈黙が降り立つ。


 テオールの入院は、刃傷沙汰に巻き込まれてのことだと学校に伝えられていた。ただし、事件の詳細は極力秘匿されたはずだ。できれば誰にも知られたくないと、他でもないテオールが望んだからだ。今思えば、それはレナリアのためだったのだろう。噂や邪推でレナリアが傷つかないよう、テオールはあのときから細心の注意を払っていた。よって、テオールが腹部を刺されたという情報は、学校には渡っていないに違いない。

 そういえば、と今更に思い出す。今日の昼にテオールを見詰めたカーゴの目は、嫌らしい光を宿していた。まるで、テオールの結果に落胆しているかのような。


 ふむ、とカーゴは右手で己の顎を抱えた。確かに、と独り言つや否や、にっこりと笑った。怪しい、恐ろしい笑みだ。フィオールの背筋はぞっと震え、あ、と後悔が頭の中を占めていく。言ってはいけなかった、聞いてはいけなかった、そう思っても後の祭りだ。

 しかし、カーゴは笑うだけだった。


「――行きなさい」

「え……?」

「忘れ物は見つかったんだろう?寮に戻るんだ。もうすぐ夕食だ」

「……」


 助かるのか。見逃してもらえるのか。踵を返しつつ、フィオールのあらゆる汗腺から冷や汗が噴き出る。フィオールの早とちりだったのかもしれない。カーゴは単純にどこかから事件の情報を得ていただけで、単純にうっかりと口を滑らせてしまっただけかもしれない。

 一歩がひどく重い。駆け出して逃げ出したいのに、緊張して上手く踏み出せない。カーゴに背を向け、いつの間にか閉まっていたドアに手を掛けた。


 ――ゴンッ、と鈍い音。間髪入れず、ドサッ、とフィオールの体が倒れ込む音。


「……!……!」

「本当はテオールが良かったが、君で我慢するよ」


 視界がぐるぐると回っている、ぐにゃぐにゃと歪んでいる。ずきずきと痛む後頭部と、強かに打ちつけた腕。人混みを見たときとも両親に触られたときとも異なる、命の危機を知らせる吐き気。目を開けていられず、視界は段々と暗くなっていく。思考など、殴られた瞬間から機能していない。


 テオ、守るから、と誓ったのはいつだったか。今と同じように、テオールの身代わりになったことが以前にあった気がする。一体なぜ、何から、何のせいでテオールが危険にさらされたのだったか。そして、それは終わったことなのだろうか。すでに解決して、テオールが自由に生きられる世界になったのだろうか。

 ガチャガチャと揺れる箱の中、未だはっきりとしない暗闇。答えは、その深淵に眠っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る