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 レストランを出た後、タクシーに乗ったところまでは覚えているが、気づくとイヴァンの目の前には三階建ての大きな屋敷がそびえていた。ここが男の家だという。自宅に連れて行かれることが今までになかった訳ではないけれど、男娼であるイヴァンをここまで堂々と連れてくるというのは相当な変わり者か、そういう趣味なのか、それとも家族公認の嗜好なのかと想像を巡らせたが、


「おかえりなさいませ、旦那様」


 出迎えたのがイヴァンと二つか三つ程度しか違わなさそうなつるりとした肌の少年だったので、彼の想像は全て棄却された。

 中に入るとワインレッドの絨毯が敷かれた玄関ホールが広がる。天井は二階までの吹き抜けで、左右にゆったりと曲がる階段が二階へと伸びている。正面には十メートルほどの空間があり、その左右に奥へと通路が続いていた。イヴァンの右手と左手の先にも幾つか部屋があるようだ。ちょうどそこから少年が本を手に出てきたが、イヴァンを見て軽く頭を下げた。


「まずは手続きをしよう」


 そう言って男性は右側の階段を登る。イヴァンもそれに続いたが、一体これから何が待っているのか、想像するヒントすら見出せない。

 二階に上がり、正面の部屋に入る。そこは男性の執務室だと教わったが、その執務室なるものが一体何の部屋なのかについては教えてくれなかった。

 部屋は窓がなく、後ろに棚が置かれ、幾つかの本と賞状、トロフィーが飾られていた。それを見たイヴァンに対し「何の意味もないものだ」と彼は微笑んで、奥で大きく場を取っている年代物に見える机の後ろに周り、重そうな椅子に掛けた。


「ジェームズ」


 彼が別の名を呼ぶといつの間に入っていたのだろう、イヴァンの背後から、あの玄関先で出迎えた少年が現れ、机の上に幾つかの書類を出した。


「これにサインを」


 沢山文字が書かれ、その大半をイヴァンは読むことが出来なかった。文字は分かるがその意味が解せない。それでも言われたように自分の名前を書くと、それを確認した男は立ち上がり、イヴァンに右手を差し出した。


「ようこそ。ここが君の新しい人生だ」


 彼はそう言って、苦笑いを浮かべながら同じように手を出したイヴァンの細いそれを握った。

 男はイヴァンに何をすることもなく解放し、後はジェームズと呼ばれた少年から教わるように言った。ジェームズは表情の変化の乏しい少年で、大半が「はい」としか口にしない。


「一体ここは何なの?」


 その素朴な疑問に対し、ジェームズは「旦那様のお屋敷です」とだけ答える。

 連れて行かれたのは一階の奥、沢山部屋が並ぶ通路の、そのひと部屋だった。番号は『一〇八』で、それが書かれた鍵を渡され、入るよう促された。

 部屋にはベッドと机、小さな棚に丸テーブルがあり、壁には学生用の制服と思しきものが掛けられていた。


「そういうプレイ?」


 ジェームズに笑いかけてみたが彼は全く反応しないまま、説明書を読み上げるように、今後イヴァンがここで生活していくことになるということと生活する上で守るべき最低限の約束事を説明した。それらは先程サインをした書類に書かれていることだというが、イヴァンはほとんど読めなかったのでこうして説明してもらえるのはありがたかった。ただ大きな疑問は解消されないままだ。

 部屋を立ち去ろうとしたジェームズに尋ねた。

 

 ――それで、春は買わないの?

 

 と。

 

 翌朝、ジェームズに呼ばれ、まだ眠い目で何とか起き出して彼についていく。

 食堂と言われたが、入った部屋は時々使っていた雑魚寝部屋よりもずっと広い空間で、そこに長机が三つ、並べてあり、それぞれパンとスープ、サラダに卵と準備された朝食がセットされていた。イヴァンの席は中央のテーブルの前から二番目だった。そこで待つように言われ、落ち着きのないままぞろぞろと部屋に入ってくる同じような少年たちを見ていた。

 五分ほど後だろうか。男性が姿を見せると「先生おはようございます」と誰もが口にする。その言葉で男性が教師なのだと判明した。

 男性は中央の一番前に就くと「今日から君たちに新しいお友達が増えた」と、イヴァンを紹介した。疎らな拍手、どんよりとした男娼をしている少年特有の曇った瞳、それに営業用の定形の笑み。それらが一斉にイヴァンに向けられたが、そこに何の喜びも感じなかった。

 ただその時ようやく理解したのは自分は男性に対して男娼として仕事をする為にここにやってきたのではなく、全く知らない新しい生活を与えられたのだ、ということだった。刹那の時間を売ったつもりが、今後どれくらいになるか分からない人生そのものを売り払ってしまったのだ。

 

 屋敷の建物はコの字のような形をしていて、中庭と呼ばれている草木が植えられ、ベンチが置かれた空間があった。手続きが終わるまでは屋敷内で好きなように過ごすといいと言われたのだが、普段でもイヴァンはあまり自発的に何かをするということはない。動くこと、考えることは体力の浪費だと考えていたからだ。

 しかしここの少年たちは本を読んだり、歌を歌ったり、楽器を弾いたり、庭を駆け回ったり、それなりに楽しそうに過ごしている。ただ午前中はそういった彼らの姿を全く見かけない。それは学校に通っているからだった。

 学校というものが存在していることを知らなかった訳ではないけれど、施設を飛び出して天涯孤独に誰の助けも借りずに生きてきたイヴァンにとっては、それは自分の世界から隔絶された領域だった。

 だからベンチで横になっているとジェームズがやってきてこんなことを言ったからものだから、驚くこと以前にその言葉の内容を理解するのに手間取ってしまった。


「来週から君も学校に通えることになった。明日の午後、手続きに行くので準備をしておいて下さい」


 準備といってもイヴァンには何もない。持ち物も、男性に与えられた部屋とそこにあった衣服、後は食事の際にくすねてきたパンが隠してあるだけだった。

 こうして屋敷に連れてこられてから五日目、イヴァンは何も売ることのないまま、学校に通うことになった。

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