第44話 水攻めされる教頭

 チャプチャプ……と耳元で音がする。それに、体がとても冷たい。

 まるで、水に浸かっているような感覚だ。

 ぼんやりしたまま横を見ると、よく知った顔がそこにあった。

 おかしなことに、その顔面がやたらと黒く見える。

 ここはどこだ……? 林……田口……ちくしょう、あいつら……

「体が動かん……くそっ、あの二人……!」

 保健室でのことは、はっきりと覚えている。

 例のいたずらの犯人は、きっと林と田口の二人に違いない。

 肌に触れる外気と微風。広がる星空。硬いものの上に寝かされている感覚、水浸し……

 そうか、ここはプールだ!

「おい! 田口! 林! こんなことをして、ただで済むと思うなよ! 出てこい!」

 私は腹に力を込めて叫んだ。

 それに驚いたように、桐崎の体がびくりと動いた。

「その状況で、よくそんなに強気な態度がとれるもんだね……やっぱ頭悪いんだ」

 不意に視界に入ってきたのは、黒縁眼鏡に二つに結いた長い髪、緑のジャージだった。

 まさか……ほんとにいたのか……しかし、声がおかしい。まるでヘリウムガスを吸ったような声だ。

 ジョロジョロ、と額に水がかけられる。

 無表情の女子生徒が、ジョウロで私の顔に水をかけているのだ。

「ブハッ、や、やめなさい!」

「もう逃げられないよ。もし逃げたら、埋められちゃうよ……松田智子さんみたいに」

「は、ははは! 何も知らないくせに! あの女は生きてる! 監禁されてるんだ、私が雇ってる奴らにな!」

 あ、しまった。つい言ってしまった。

 ひゅう、と吹く風が体にしみる。

 すっかり濡れた服が気持ち悪いし重いし、ものすごく冷たい。あ、また腹が痛くなってきた……

「これ、見覚えあるでしょう?」

 女子生徒が見えなくなったと思ったら、今度は林だ。

 ぶらりと鼻先にぶら下げられたのは……なんだ? あのキーホルダーじゃない……こんなの見た記憶が……

「これ、松田さんの傘についていたアンブレラマーカーです。手編みの……もちろん、松田さんの手編みですよ」

 アンブレラ……マーカー……だと……うっ、腹が……

「そ、その話は後だ! 腹が痛いんだ! 縄をほどけ!」

「松田さん、生きてるんですね?」

 くそう……ここまで来て……

「さっき言った通りだ! 頼む、内密にしてくれたら金をやるから……な、縄をほどいてくれ……た、田口はいないのか!」

 びしゃびしゃと、顔に水がかかる。

「ブハッ!」

「金が大事じゃないとは言わないよ。だけど、人の心も大事だろ? あんた先生なのに、そんなこともわからないのかい?」

 林の目が冷たく歪む。

 心……だって?

「心なんてもんは、金を引き出す為の道具だ! 桐崎の嫁のようにな!」

 はあ、とため息を吐き林は隣の桐崎の元に向かった。

「だってよ……あんた、今の言葉を聞いて、なにも思わない? ちなみに、あんたのその顔の落書き……全部幸恵さんが書いたものだよ……あんたたち二人、彼女をどれだけ傷つけてきたか……まあ、人の心をなくした阿呆には、なにを言っても響かないか……」

 ゲホゲホ、っという桐崎が咳き込む音が聞こえる。

「金ならいりませんよ……間に合ってますからね。あ、警察には田口先生から通報してもらいましたから、すぐに連行されるでしょう。その前にプールの水かさを増やしたいところですけど、そうすると確実に息の根止まっちゃいますから、我慢しますよ。じゃ、私はこれで」

「あ、おい、待て! 話し合おう、林……林先生!! 桐崎、お前もなにか言え!」

 あ、駄目だ。もう、遠くからサイレンの音が近づいてくる。

 言い逃れは……できないか……

 金があっても……

 金さえあれば無敵だと信じていた、つい最近までの自分が途端に滑稽に思えてきた。

 心か……そんなものがあったのは……なくしたのは……いつだったろうか? もう、思い出せない……

 チャプチャプという水音とサイレンの音を聞きながら、私は星空をじっと見つめていた。

 腹に生じる差し込むような痛みを、懸命に誤魔化しながら。

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