8.守りたい

「紗世」

 オムライスを無言で食べた祐が麦茶を一気飲みして言った。

「今日は俺ん家に泊まりに来い。俺が洗い物と明日の飯の用意をしてる間、お前はシャワー浴びとけよ」「セコムなんか信用出来るか」「そんでタオルとか着替えとか必要そうな物準備しろ」

「…………え」

 泊まり?

 理解できず呆けた私のお皿を持ち上げ、祐は「ほら、早く食え」と立ちあがった。

「でもそんな」

「俺そろそろ帰らねぇとダメなんだ。急げ」

 いいから早く。焦った調子の声に私は従った。部屋へ行きテキトーなリュックにTシャツを詰めた。パジャマにしているスウェットも、下着も。

 なんでだろう、なんでこんなことしてるんだろう。

 頭の中は疑問でいっぱいなのに手を動かした。

 祐が帰る。そしたらひとりになる。『独り』と考えただけで恐怖が背を撫でた。その瞬間、自分の部屋でさえ余所余所しく、カーテンの向こうが恐ろしくて仕方なくなる。

 あの人、また来るって言ってた。

 新聞の広告チラシは数回ポストに入っていた。昼間は居留守を使ってばかりいたから、もしかしたら気づいていないだけで、何度も?

 もしあの人が、私がひとりでいるのを知っていたら。

 祐が急に『泊まれ』と言った理由をようやく理解する。

 荷造りが終わって洗面所に駆けこむと、浴室の窓が開いていた。ゾッとして鍵をかけた。まるでホラー映画を観てしまったあとのような、自分の吸って吐く空気以外は信用出来ない肌感覚。永遠にシャワーを浴び続けていたいと想った。裸の自分の無防備で無力なことを知った。

 祐に守ってもらおう、甘えよう。だって怖い、緊急事態だから。

 でも体を拭いて不意に鏡を見て――自分の脚を見てしまって、私は我に返ってしまった。



「祐、やっぱり大丈夫。シャワー浴びたら落ち着いたから」

 は? 炊きたてのご飯をしゃもじでかき混ぜる手を止め、祐は私を睨んだ。

「何言ってんだ。あいつ、お前がひとりって分かったらまた来るぞ。分かんねぇのか」

「……分かる。私が嫌がるの面白がってたと、思う」

「なら、ぐずぐずすんな」

 ぐっと喉が詰まった。分かってよ。

「……今日はずっと起きてるから、セコムするから。だから」

「だから、それじゃ遅ぇって言ってんだろ」

 祐は言い放って私に背を向けた。もう話す気はない、そう背中に書いてある。

 私は立ち尽くした。

 蛍光灯が私を照らしていた。薄い影が足元でゆらゆら揺れて、脚を伝って黒々と濁って胸に薄く広がっていった。

 ――おばあちゃんは許してくれるの?

 途端、息が苦しくて着替えたばかりのTシャツを掴んだ。

 どんなに楽しく遊んでいても『五時には帰りなさい』と怒るおばあちゃんが、夜に女が泊まりに来たと知ったら何て言うだろうか。そんなこと、許してくれるんだろうか。

『ふしだらな』

 許すはずがない。

 知らず首を振っていた。家になんて上がれない、おばあちゃんになんて会えない。こんな形で会うなんてできない。

「お前、早く髪拭いてこい。濡れてんじゃん」

 だって、

「外、まだ暑いったって風邪引くぞ」

 でも、

「こっちは今、出来っから」

「やっぱり……怖い、祐」

 絞り出した。

「怖い、行けない」

「あの訳分かんねぇ男よりか」

 答えられない。だってそうだった。

 カラン。きっと、しゃもじが空の炊飯器を弾いた。

「分かった」

 祐はおにぎりを握っていた。綺麗に並んだ三角の、一つ一つから湯気が立つのを見た。熱で真っ赤になった祐の掌を。

「分かった。じゃあ俺行くわ」

「たす、く」

「ちゃんと全部の鍵閉めろよ。皿、借りてくわ」

「ねぇ」

「これお前の分、明日食え」

「待って」

 こっちを見ない。声はいつも通りなのに、言ってることも優しいのに。

 手早くラップした皿を持って、祐は私の横をすり抜けた。そして出て行った。



 ◇



 夜は長くて、一睡もせず朝が来た。

 私はベッドから動けず、外から聞こえるかすかな物音にさえ神経を尖らせた。

 こんなことなら誰でもいいから仲良くしておけばよかった、と何度もインスタを開いては閉じた。今さらチャット、しかもこんな夜中に送ってもきっと誰も返信してくれない、私なら無視する。インスタを閉じて連絡帳を眺めて閉じる、開く、また閉じる。

 何度か親に連絡しようと思い、やめた。祐とのことに干渉されたくなかった。

「ごめん、祐」

 四、二……だめ、もうその資格はない。せっかく過去を水に流して歩み寄ろうとしてくれた祐を怒らせた。きっと傷つけた。

 新聞屋のバイクの音が遠ざかって朝を知って、僅かな拍子に眠りに落ちた。

 起きても、祐の握ってくれたおにぎりは食べられなかった。

 水を飲んでやり過ごした。毎日ちゃんと食べていたせいでお腹が減って辛い。でも部屋から出なかった。何もしたくないし、人の気配をさせちゃだめだと思った。

 トイレに出るときに冷蔵庫を開けて水を飲んで閉める。中に入れっぱなしのおにぎりが少しずつ水分をなくしていくのに目を逸らした。

 そうしてまた夜が来た。当たり前のように祐は来なかった、当然だと思った。


 ――二日、三日とそんな生活を繰り返した、木曜の夕方五時。私は眠りのあとにくる夜の訪れに気が狂いそうになって、PCを起動した。アプリの通話申請と共に映る自分のひどい有様にさえ安堵した。夜が入り交じる感情を撹拌かくはんして腐らせた。吐き気がするほどの汚泥を抱き続けられなくなっていた。

 ただ誰かの顔が見たかった、話がしたかった。

 五分後、父さんの「紗世? どうしたこんな時間に」とごく自然に尋ねる声に涙を堪えてしまうくらいには。


 *


 普段、話の腰を折ったりしない父さんが突然立ち上がった。

『今すぐ帰る! そんな危ない状況になってたなら、なんですぐ言わなかったんだ! 母さんに……あぁだめだ母さん今出かけてるから僕だけでも今から帰る!』

「……父さん、待って」

『今乗れば明日には会える。そうしたらすぐ相手見つけて告発する。父さんに任せて、今行く!』

 上着を引っ掴んで遠ざかっていく父さんを必死で止める。

「父さん、父さん待って」

『紗世、すぐ行くから待ってなさい!』

「父さん! 最後まで話聞いてよ……!!」

 私は立ち上がって叫んでいた。リモートなのに手を伸ばして。

 父さんはピタリと止まり、ゆっくり画面の中に収まった。

『分かった、でも手短に。今から帰るのは決定事項だ』

 青いネクタイが近づいてきたのを待って、私も座り直した。父さんがここまで慌てるなんて、と内心驚いていた。家が小火になっても部屋がゴミ屋敷になっても、「今回は難しい仕事だった」と話すときも微笑んでいるような人なのに。

 父さんはたぶん私をじっと見ている。カメラに映る私をつぶさに。

『紗世、話して』

「……祐にすごくお世話になった」

『うん』

「でも私、やっぱりどうしても……」

『祐くんのおばあちゃんが怖い?』

 ハッと顔を上げた。父さんはさっきと変わらない顔で私を見ていた。

「なんで」

『そりゃあ親だしね。いや違うか。紗世が生まれてきたときから、ずっと君を見てるからそれくらい分かる。まぁ離れて暮らした分、知らないことも増えたろう。……そう考えるとはお互い知らないことだらけだっただろうね』

 どうだった? 久しぶりに会ってみて。

 父さんの静かな声と同時、カーテンの隙間から部屋に光が差した。強く細い一条は私の背中を温めた。部屋に籠もったまま冷房で冷えきった体が熱に解けるのを感じた。

 

 それから私は、熱中症になった日のことから祐がしてくれたことや、ほとんど毎日のようにウチに通ってくれていたことを父さんに話した。あの日の罪悪感から、食材を報酬に用心棒をすると申し出たことも。

 最初は取りつくろって話したくないことはうまく隠そうとした。でも父さんの相づちと少しの質問で気づけばすべて話していた。「手短に」と言ったのに、気づけば一時間近く通話していた。


 祐から「今日は俺ん家に泊まりに来い」と言われ断わったと話したあと、父さんは深く肯いた。そして考えこむようにして黙った。

 沈黙は長かった。私はこんなこと親に打ちあけてよかったのか、としくじったような気持ちと恥ずかしさに耐えていた。

『言わないつもりだったけど、実は祐くんから何度か電話が来てたんだ』

「え? なんで」

『早く帰ってきてくださいって。紗世が寂しがってるからって』

 祐がそんなことを? そんな素振りはなかったのに、と頬が熱くなる。

『紗世が熱中症で倒れたときから母さんと相談してはいたんだけど……お盆から、母さんがそっちで暮らすよ。これ以上、紗世に負担はかけられない』

「負担なんて……別に」

『紗世がそう言うのに甘えてた。ごめん、紗世』

 うん、と言うので精一杯だった。

 少し前なら子ども扱いするなと鼻で笑っていたかもしれない。でも今は無理だった、図星でしかない。

『高校に入ってから、母さんに反抗気味になっただろ。でも僕が小火を起こしちゃって二人で家を空けたあと、「紗世が少し柔らかくなった」「クローゼットに新しいスカートが入ってた」って母さんから聞いてさ』

「え……母さん、勝手に見たの?」

『見ちゃったのは許してやってよ。……あまり言っちゃだめだと思ってたから話題にしなかったけど、父さんも母さんも祐くん家とのことはずっと心配してたんだ。スカートもますます長くして人目を避けて家にいるようになった。友だちができても積極的に交流しようともせずに。父さんと母さんは本当に何度も話し合ったよ。でも最後は母さんが『自分がもっとしっかりしてれば』って泣いて解決策はないままだし。どこか有名なセラピーの先生に相談しようか、とか。あ、別にスカートが長いのを問題視してたんじゃなく、それで紗世が苦しんでいたから。母さんなんて、一時は訴えるって息巻いてたくらいだった。僕たち、本当はかなり頭にきてるんだ。今でも』

 訴える? 父さんが頭にくる?

 私は初めて聞いた話に、ポカンと口を開けた。全然そんな風には見えなかった。

『当たり前だろう。大事な娘が傷つけられたんだ。……だから、僕たちが家を空けることで紗世がトラウマから脱せるなら、それはそれでいいと思ったんだよ。事情を知る人が近くにいるとなかなか素直になれないのかもしれないし、母さんへの当たりも強いみたいだったし。二人きりだと暮らしづらかったのは僕のせいだけど……本当にごめん』

 父さんの目尻が少し悲しそうに下がった。私の口はまだ開いたまま。

『でも僕たちが間違ってた。だから紗世』

「分かったよ、もういいよ」

 分かった。一生分、謝られた気分。もう充分だった。

 だって父さんと母さんが何を思ってたのか、分かった。

 笑いが込みあげた。みんな自分が悪いって思ってたことが可笑しかった。


 ――不意に、大きな手のぬくもりを思い出した。『お前は悪くない』と頭を撫でられたときの、声も。

 あのときはただの慰めだと思ってた。謝罪の延長、贖罪の定型文。

 でもそうじゃなかった。私は本当に悪くなんてないのかもしれない――短いスカートなんて履けなくてもいいのかもしれない。

 誰も悪くなんて、なかった。

 父さんも母さんも、私を想ってくれてた。

 目を擦った。嬉しさでも悲しさでもない。何度擦っても滲んでくるのは、悔しさだ。

「私、分かった」

 全部人のせいにして何もしなかったのは私だけだってことが。


『紗世、大丈夫か』

「……父さん、ありがとう。でもまだ帰ってこなくていいよ。予定通り、お盆でいいから」

『ダメだ。不審者に狙われてるかもしれないんだぞ。空港に着くまでに、そっちの警察に電話して巡回を増やしてもらおう。あとは』

「私、筋を通さなきゃ」

『え? 紗世、今なんて?』

 私はスマホを持ちあげた。市外局番、四二の三……ゆっくり数字をタップする。そしてひと呼吸置いて、通話マークもタップした。

『紗世どこに? 警察なら父さんが』

 父さんの戸惑う声には応えず、私は呼び出し音に耳を澄ませた。キーボードの「た」を見つめながら、ケチャップで書いた「た」を思い出しながら、どうか今出てほしいと願った。


 カチャ、と受話器を上げた音がして「ハイ、もしもし」と相手が答えた。

 祐だ。

「紗世、です」

 こわくて震える。恐怖でも畏怖でもない、懇願で。

『……何?』

 返事があって、私はまた目を擦った。

「祐、あの……あのね」

『もしかして、あいつが来たのか?』

「ちがうよ。祐、私やっぱり……怖いんだ」

『……』

「おばあちゃんに会うのも怖いし、あの人が来るのもすごく怖い。短いスカートを履くのも、自分の脚を見ちゃうのも。でも」

 喉が詰まる。

「でも祐と仲直りできないのが一番こわい。ごめん、ごめん祐。こわくてごめん」

 わぁぁと泣いてしまいそうになった。でも祐が『今行く』と電話を切ったから、ただ目から涙が溢れてぼたぼた落ちた。



『紗世。泣いてるとこ悪いけど、祐くん来たらどうするつもり?』

 父さんは見せつけられてムッとしてるよ、と腕を組んだ。

『男親の気持ちを配慮してほしかった』

 私はその台詞にちょっと白けて、却って冷静になった。Tシャツの袖でぐいっと顔を拭う。

「……母さんが帰ってくるまで、祐の家に泊めてもらうことにする」

『あのね紗世、父さんとしてはそう簡単に男の家に泊まっていいって言いたくない』

「父さん。遊びに行くんじゃないよ。たぶん私、おばあちゃんに会わなきゃダメなんだと思う」

 太腿に触れる、さっきの涙で濡れていた。大丈夫、きっと平気。

「会ってもダメかもしれない。やっぱり怖くて逃げ出したくなるかもしれないし、スカートも一生長いままかもしれない。でも……会ってくる。泊まりに行かせてほしい」

 ハァ、と特大のため息。

『毎日電話すること。僕の番号にかけて、母さんには内緒にしておくから』

 そうでないと大騒ぎだ。

「ありがとう父さん。ごめん」

『謝られたら負けな気がするからやめなさい。……とにかく、お盆まで。あぁ三泊も!』

 インターホンが鳴った。少しだけ身構えたとき、玄関から声がした。

「紗世!」

 祐だ、ホントにすぐ来てくれた。全身から力が抜けて、床にうずくまりたいくらい嬉しかった。

「じゃあ、父さんまた」

『あーこれが嫁に出す気持ちか。Go for it』

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