広義の意味による研究

森本 晃次

第1話 作者の話

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十一月時点のものです。それ以降は未来のお話です。今回は、最初に、作者のいわゆる「ノンフィクション系」、「エッセイ系」ありという、試みに挑戦しております。


 世の中には、第六感というものがある――。

 と以前、作者は別の小説で第六感について書きだしたことがあったのを、ちょうど、この小説を書き始めようと思っていた時、ノベリストにアップするというタイミングだったというのも、何かの因縁めいたものがあるのかも知れない。

 そもそも、作者は、小説を書くのも、

「質よりも量」

 というのをモットーにしていて、

「とにかく、書いて書いて書きまくる」

 というのが、自分の作風だと思っている。

 そのため、前にどんなことを書いたのかなどというのをいちいち覚えているわけもなく、当然のごとく、似たような作品が多くなるのも、無理もないことだ。

 しかし、自分の作品なのだから、似ていても当たり前というもので、そもそも、作者が同じであっても、まったく同じ作品などできるはずもなく、

「気が付けば似ている作品を書いていた」

 という程度で、却って、その方がバリエーションがあった、いいのかも知れない。

 今回も前に書いた作品である、

「天才少女の巡りあわせ(参照)」

 を見てみたが、気づかなければ、ほとんど同じ文章を書いていたと思われる。

 別に今回も同じ内容を書いてもいいのだが、せっかく見つけたのだから、少し変えてもいいのではないかと思うのだった。

「天才少女の巡り合わせ」

 という小説も、今回、最初の数行だけしか見ていないので、ひょっとすると、これから加工とする作品と似ているかも知れない。

 だが、逆に読み直して、同じような作品にならないようにしようとは思わない。

 前の作品を意識してしまうと、今度は新作に対して、うまく書けないのではないかと考えるのだった。

 このままだったら、

「人間の中にある、五感(視覚、聴覚、触覚……)について……」

 などという書き方になってしまって、

「似たような作品だ」

 と思うかも知れない。

 しかし、あの作品を書いてから、今回の作品までには、七十作品ほどある。これは中長編に限ってのことであるので、すべての作品を時系列で読んでいる人には、文庫本を三十から四十冊近くを読み込んでいるのと変わらなくなってしまうのだ。

 いくら記憶のいい人でも、間に中編が七十作品もあれば、そう簡単に、

「あの作品と似ている」

 などということは分からないだろう。

 そういう意味では、作者がわざわざ書いているのは、

「第六感ということに関しては、天才少女の巡り合わせという作品を読んでくれれば、少しは分かってくれるだろう」

 という意味で、リードしているのかも知れない。

「まあ、これだけ期間も作品の量も離れているのだから、もう一度同じ内容のことを書いたって、別に問題ではない」

 としてもいいのだろうが、敢えてここで書いたのは、運命のようなものを感じたからなのかも知れない。

 それこそ、言葉で説明できないような、胸騒ぎが起こる感覚、それこそ、

「五感だけでは説明のできない未知の力」

 という意味での第六感の話にふさわしいのではないだろうか。

 この章では、せっかくなので、作者が小説を書くようになったことや、もろもろを書いてみようとしましょうか。そういう意味で、ここから先は、途中までエッセイのような気持ちで読んでいただければいいかと思います。

 今までの作者にはなかったことなので、珍しい作品になるかもです。

 作者が、小説に興味を持ったのは、中学生くらいのことだっただろうか。

 文章を読むのが嫌いで、国語の試験でも、文章題が一番いやだった。例文が最初にあって、その文章のところどころに線が引かれていて、番号であったり、アルファベットが罹れていたりして、例文の後に、

「この文章を読んだうえで、後ろの設問に答えなさい」

 などという問題だった。

 例えば、

「Aの文章は、どこに掛かっている言葉なのか?」

 であったり、

「この文章が何を言いたいのか、例文の中に書かれているので、その部分を指摘しなさい」

 などと言った問題だったような気がした。

 日本語というのは結構、文法が難しいので、その分、解読も難しい。

 しかも、同じ発音でもまったく違う意味のものもあったりするのも多く。日本で育ってきて、日常の言葉として話をしている自分たちでも難しいと思うではないか。

 作者は、すぐにすぐに焦ってしまう方なので、例文をゆっくりと読んでいても、うまく解読できない。しかも、時間をかけてしまうと、余計なことを考えてしまって考えがまとまらないところがあったので、国語はフィーリングで答えていた。

 だか、例文もほとんど斜め読みで、設問に答えるのも、その文章の前後の数行を読むくらいであった。

「答えなんて、その問題文の近くにあるものだ」

 という思い込みもあり。ほとんど例文を読まずに、勘で答えていたといってもいいだろう。

 そんな思いがあったから、小学生の頃は、文章を読むのが嫌いだった。

 学校の国語の授業は仕方がないとして、自分から、活字の書かれている本を読もうなどということはまずなかった。

 だから、宿題で一番嫌いだったのは、読書感想文だった。ほとんど、セリフだけを斜め読みしているだけで、ほとんど内容も分かっていないのに、よく感想文が書けたものだと思っている。

 きっと、それを読んだ先生も、

「どうせ、まともに読んでなんかいないに違いないんだ」

 と思っていることだろう。

 だが、中学に入ると、ちょうどその頃、戦前、戦後の探偵小説がブームとなっていて、横溝正史氏や、江戸川乱歩氏の作品が、本屋で所せましと並んでいたのだ。

 それぞれに、名探偵を世に生み出していて。横溝正史氏が、金田一耕助。江戸川乱歩氏が、明智小五郎という、

「日本の三大名探偵」

 の二人が活躍する話がブームとなっていた。

 出版社が、ほとんどの作品を文庫化し、そのうちの有名なものを、映画化したり、テレビシリーズで放映していたりしたのだ。

 自分のクラスに、探偵小説の好きなやつがいて、彼の家に遊びにいくと、本棚に、ズラリと並べられていたのだ。

 作者は、それらの小説を借りて読むようなことはしなかった。自分で本屋に行って、文庫本を購入し、自分で読んでいた。

「借りてきたのであれば、絶対にまともに読もうという気にはならないだろうからな」

 と感じたからだった。

 それでも、自分で買った本でも、最初の頃は真面目に読んでいたのだが、いつも間にか、適当なところで、斜め読みをするようになっていた。無意識だったので、どこから中途半端な読み方をしているのか分からずに、結局、ハッキリと分からないということになってしまうことが多かった。

 だが、それらの有名な小説は、幸か不幸か、テレビドラマとなって映像で見ることができる。

 ただ、中には、内容を変えているものもあり、原作に忠実な映像でないものもあるのだが、友達に教えてもらって、やっと分かるのだが、やはり、小学生の国語のテストでの焦りが、本を読む時に、無意識に肝心なところを読み飛ばしてしまっているというのを感じさせられるのだ。

 だが、それでもなかなか本を読むというハードルは高く、

「セリフ部分だけを読んでいる」

 と言ってもいいだろう。

 だから、セリフの少ない小説は苦手だった。

 なぜ、自分が小説を読むことができなかったのかというと、一つは小学生の時に感じた、テストの時の焦りが、そのまま時間配分のできない自分を映し出しているように思えてならなかった。

 そして、もう一つは、文章をまるで映像を見ているつもりになって読んでいると、少し前に読んだことを覚えていないという感覚になるのだった。

 本当に忘れてしまったのか、それぞれのシーンにおいて、時間とともに流れていくしシュエ―ションを自分の中で解釈できないままに進んでしまうのだ。

 小説家というのは、文章を少しでも膨らませて書こうとしながらも、さらにそこから不要な部分をカットしようと考えるだろうから、読んでいる方は、そのことを理解していないと、読んでいて、内容が途中で飛んでしまうのではないかと感じるのだった。

 だから、ついつい、セリフばかりを読んでしまうのだ。流れに身を任せていると、自分が本の世界に入り込んでいて、その間は覚えているにも関わらず、二、三十分でも集中して読んでいると、たった数分しか経っていないような錯覚に陥り、実際の時間がどれほど経ってしまったのかということに気づかされて、集中していた時間の中に、かなりの空洞が生まれてしまう。その空洞が本来であれば、三十分程度のはずなのに、さらに遠くにあるかのように思わせることで、果てしなく前のことだったように思うのだろう。

 小説を書いている時は、逆にその作用がいい方に働くのだが、本を読むのが苦手だということがどこから来るのかということを考えると、最終的に、

「集中できないことだ」

 と感じることだった。

 実際の感覚と、実際の時間との間にギャップがある以上。その集中していた時間をすっ飛ばして考えると、目に見えないくらいの遠くに存在しているかのように感じるのであった。

 だが、中学時代にブームだからと言って、読んでいただけのことで、実際にドラマや映画を見ているだけで、満足に思うところがどこかにあった。

 それが、大学生になった時、同じクラスの友達と、趣味の話をした時、彼らも、探偵小説のファンであるということが分かった。

「もう、内容忘れちゃったからな。もう一度読み直してみようかな?」

 と一人がいうと、

「そうだよな。あの名作は何度読んでも、いいものはいいからな。むしろ、何度も読み直すことで、今まで気づかなかった作品の裏側が見えてくるような気がするんだ。特に時代背景がまったく違う作品を想像しながら読んでいると、自分勝手に想像できて、それはそれで面白言うんじゃないかな?」

 ともう一人が言った。

 そして、三人で、再度読み直してみることにしたのだ。

 大学に入ると、今度は精神的に余裕が出てきた。焦りというものはなくなり、小説をじっくりと読めるようになっていた。

「中学時代にドラマ化されたりしたのを、見たりしたかい?」

 と聞くと、

「ああ、ほとんど見たよ。今でもたまに、再放送があったりするので、最近では、ビデオに撮って、見返したりしているよ」

 という友達もいた。

 さすがに、当時はまだビデオが一家に一台というほど普及しているわけではなく、下宿生活をしていた作者にはビデオがあったわけではない。

 友達の家に見せてもらいに行ったものだったが。中学時代に仲の良かった友達は、火事カセとテレビに繋ぎ、録音し、それを編集して、BGM集を作るということをしていた。

 元の録音テープを、目を瞑りながら聞いていると、

「まるで、映像が想像できるようだ」

 と思ったほどだ。

 時々友達から、そのBGM集のカセットを借りて、自分の家でBGM集を聞きながら、本を読むと、中学時代であっても、冷静に本を読むことができるようになっていたのだ。

 だが、その頃にはある程度ブームは過ぎ去っていたので、わざわざカセットを借りてまで、聞きながら本を読むというところまではしなかった。

 ただ、その頃から、

「小説を書けるようになれればいいよな」

 と漠然と考えるようになっていて、それまで芸術的なことには一切興味を持っていなかった自分が、初めて、

「できるなら、やってみたい」

 と思ったことだったのだ。

「俺も小説を書いてみたい」

 と、それから何度か思い、チャレンジしてみたが、なかなかうまくいかなかった。

「小説というのは難しいもので、そう簡単に書けるものではない」

 という思いと、

「これまで、本をまともに読むこともできなかった」

 と思っている人間が、そう簡単に書けるはずもない。

 そう思うと、意外とすぐに挫折していた。

 しかし、何度も挫折していく中で、次第に書こう、あるいは、書けるかも知れないという思いが芽生えてきたのか、書けないまでも、書いてみようという思いの期間は想像よりも長くなっていった。

 それでも、何とか書けるようになったのが、今から二十五年くらい前だっただろうか。そのきっかけというのが、

「阪神大震災の映像を、テレビで見た時」

 だったのだ。

 その時の衝撃は自分でもmどう表現していいのか分からない。

 あの光景を小説にしようなどという思いはサラサラなかった。気持ちの中に何があったのかというと、

「人間、いつどこでどうなるか、分からない」

 ということであった。

 いくら、人とうまくやっても、自分にこれからの人生のためだと言い聞かせたとしても、その時に満足が行っていなかったり、不満があるのだとすれば、我慢することなどないような気がした。

 何しろ、

「明日はどうなるか、分からない」

 と思わせるだけのショッキングな光景だったからだ。

 ただ、ちょうどその少し前くらいから、

「今なら小説を書けるかも知れない」

 と感じた時期があった。

 何度目かの小説執筆へのチャレンジで、いよいよ書けるようになる下準備が整っていた時期だったのかも知れない。

 いつもだったら、家で机に向かって、原稿用紙を広げて、浮かんでこないアイデアを考えながら頭を抱えることにすぐ、飽きてしまっていたはずなのに、その時は。方向転換をしてみるという気持ち的な余裕があった。

 最初に考えたのが、

「図書館に行ってみよう」

 ということであった。

 図書館の自習室で、机に向かって原稿用紙と睨めっこをしていると、まわりが変に気になっていた。

 高校生や中学生と言った受験生が勉強しにきているのだが、すぐに気が散るのか、すぐに別のところに行ってしまうので、自習室は絶えず、カバン置き場と化してしまっているのだった。

 友達と連れ立ってきている連中は、特にひどく、どこに行っているのか分からないが、明らかに勉強する意思などないのではないかと思えるのだ。

 実際に、勉強する意思があったとしても、友達と一緒に来ている時点でアウトである。自分が学生時代も似たようなものだっただけに、通り過ぎてしまうと、あの時の自分がどれほど不真面目だったのかということが分かり、穴があったら入りたい気分だったに違いない。

 そんなことを思い出していると、

「今の自分も気が散っているというのは、あの時の心境に戻っている証拠だ」

 と思い、こんな環境で、小説など書けるはずはないと思うのだった。

 受験勉強と小説の執筆、どっちが苦しいのかというのは、一概には言えない。次元が違うというべきか、比較するのは、ナンセンスだといえるのではないだろうか。

 図書館というところ、しかも自習室という、静かさを強制させられるような場所では、空気が薄くなっていて。聞こえてくるのは、自分の胸の鼓動だけではないか。それを中学、高校時代に感じたはずなのに、どうしても、図書館に来てしまうのだった。

 それも、友達と一緒というのが、デフォルトだった。

 それを思うと、図書館という場所は、悪魔のささやきが聞こえる場所だとしか思えなくなっていたのだった。

 ただ、そうなると、静かな場所での執筆は、もう不可能だということになる。自宅であっても、誘惑に負けてしまう。それは受験勉強している時もしかりだった。自宅でやっていると、どうしても、テレビやラジオなどという誘惑に負けてしまい、ついつい、気が付けば、テレビをつけていて、見てしまっていたりしたものだからだ。

 だから、自分だけではなく、他の連中も図書館に行くのだろう。

「図書館の自習室にいけば、勉強ができるかも知れない」

 という意識に駆られるのだ。

 それが錯覚であるということを自分で分からずに、友達まで誘って……。

 完全に、帰りに友達とファミレスか、ファストフードの店で、ジャンクフードでも食べながら、騒ごうという魂胆が見え見えではないか。

 図書館ではまともに勉強ができたのかというと、思っていたほどできるわけはない。図書館という環境にいるだけで、

「勉強ができたような気がする」

 という錯覚にとらわれ、さらに、その日の勉強の打ち上げのつもりで、友達数人と、何もかも忘れて、騒げればいいと思うのだった。

 そうすれば、勉強ができなかったという意識が次第に薄れていき、罪悪感が消えていくような気がするのだ。

 勉強が思ったより進まなかったという罪悪感はあるのに、それを甘んじて受け入れるわけではなく、何とかごまかそうとする。

「それくらいなら、最初からごまかしの利くような勉強方法を取らなければいいのに……」

 と、どうして考えないのか。

 毎回毎回同じことを繰り返すのだが、最終的には受験には成功したのだ。

 というのも、自分に限らず、一緒につるんでいた連中は、皆、

「ギリギリになららいと行動しない」

 という性格だったのだ。

 小学生の頃の夏休みの宿題も、

「最後の何日かで、必死に片付けるというのが、夏休みのパターンだった」

 という連中ばかりである。

 最後の数日で、顔色を変えて、必死になって勉強したり、絵日記の材料を仕入れに図書館に行ったりした。

 今のようにネットで天気予報を調べられる時代ではないので、過去の天気を調べるには、過去の新聞を見るしかない。

 自宅も新聞が数日は溜まっているが、夏休み全体を記しただけのストックがあるわけではない。当時、夏休みの毎日の天気は気温を調べるには、図書館に行くしかなかったのだ。

 図書館であれば、資料室のようなところに入れば、何年も前の新聞だって見ることができる。それを知っていた作者は、図書館まで調べに行ったものだ。往復歩いて一時間、結構距離もあり、せっかくの夏休みで、たったそれだけのためにまだ残暑の残る中、汗を拭き拭き図書館まで歩いていったものだった。

 その時の心境は、何ともいえない情けないものだった。

「毎日つけていれば。こんな面倒くさいことをする必要なんかないのに」

 と、確かに、夏休みに入って最初の数日は絵日記を真面目につけていた。

 しかし、今まで小学生の六年間のうちで、夏休みが約一か月半だとしても、実際につけていたのは、二、三日がいいところだった。

 だが、挫折をしたという意識はなかったのだ。気が付けば、つけなくなっていたといった方がいいかも知れない。

 だから、

「ギリギリにならなければ、行動しない」

 というパターンに嵌りこんでいた。

 しかし、これは自分に限ったことではなかった。まわりの連中も皆一緒だと思うと、集団意識というものが働いて、自分の考えがまともだったんだと思うと、変な安心感が芽生えてくるのだ。

 本当は、よくないことだと思っているにも関わらず、

「皆一緒じゃないか」

 と思うのだが、そのくせ、作者は、

「人と同じでは嫌なんだ」

 という部分を持っていた。

 それは、矛盾しているように思えるが、その時々の状況で違っていると思うから、自分を納得させることができる。しかし、それはあくまでも言い訳でしかない。そのことを、小説を書き始めて、結局図書館や自宅などの静かなところですることは不可能であると感じるようになったからだった。

 次に考えたのは、ファミレスで書くことだった。ファミレスであれば、テーブル席でも、相席ということはなく、気軽に書けると思ったからだ。ランチタイムやディナータイムさえずらせば大丈夫だと思った。

 確かに騒がしい人もいるかも知れないが、家族連れが多いディナータイム、サラリーマンの多いランチタイム、おばさん連中が多いアフタヌーン、そして、学生がタムロする深夜帯さえ避ければ、結構ゆっくりできるというものだ。

 仕事が終わる時間が、残業を含めると、八時前くらいである。さすがにそれくらいの時間になると、家族連れによるディナータイムは過ぎていて、ゆったりとした時間が過ごせた。

 夕食をそこで済ませながら、小説を書く。食事をしながら書くこともあったが、食事を済ませて、ドリンクタイム、コーヒーを飲みながら小説を書くというのが嵌ってしまった。

 毎日というわけにもいかず、二日か三日に一度くらいであったが、それでも、執筆時間を一時間くらいと決めて書いていると、逆に書ける気がしたのだ。

 今までは、決まった量を書こうと考えていたのだが、それがそもそもの間違いだったのだ。どんなに途中であっても、キリのいいところでやめるというのも、実は勇気がいることで、その勇気を持つことができると、意外と書けるようになった気がした。

「一時間だから、これくらい書ければいいな」

 という思いを持って書いていると、

「今日の体調や、頭の回転を考えると、これくらいなら書けるだろう」

 という思いに変わってくることで、実際に書けるようになったのだ。

 そして、まわりの環境も大切だと思った。

 まわりの様子を見ていると、いろいろな人がいて、少し大げさだが、

「人生の縮図」

 と言えるような感覚になってきた。

 最初こそ、執筆に集中し、まわりをいかに意識しないことが執筆の秘訣なのかということを考えていたが、ふとまわりを見てみると、いろいろな人がいて、今まではうるさいと思っていたその会話も、次第に自分の中で妄想が膨らんでくるのを感じた。

「この人たちは、カップルなのかな?」

 と感じ、

「もうすぐ結婚するのかな? それには、家族への説得から始まって、住む家だとか、新生活を始めるための思いもしっかり持っていないといけないな。だけど、その思いは決して大変なだけではなく、きっと楽しいものなんだろうか?」

 と思うようになっていた。

 作者は、一度手に入れたと思っていた幸せを逃してしまった。自分が悪いのか、何が悪いのか、今でもハッキリとは分からない。

 しかし、一度は幸せになろうと考えたのは間違いのないことだったはずだ。それを思いそうとすると、辛かった思い出の方が近いはずなのに、それを飛び越して、幸せしか見えていなかった自分を思い出すことができる。ただ、その時に一緒に感じていた、

「言い知れぬ不安」

 も一緒に思い出し、途中でその不安の正体を理解したはずなのに、妄想の中にいる自分は、その不安が何なのかまったく分からない。

 妄想にとりつかれている自分は、妄想を感じた時の感覚がまるでパッケージのようになっていて、その思いは、後から変わっていったことであったとしても、すべては、同じ時間、同じ次元で感じたことでしかないのだ。

 そうでなければ、少しでも違う世界ができてしまって、思い出したい妄想とはまったく違ったものに辿り着いてしまうことになるだろう。

 自分が小説を真剣に書き始めたのは、ちょうどそんな頃で、幸せを逃がしてしまった自分が、

「何を頼りに生きていけばいいんだ」

 と考えた時、以前見た、阪神大震災の悲惨な状況を思い出し、

「やはり、世の中何が起こるか分からない。明日には、もうこの世にいないかも知れないからな」

 と、さらに強く思うようになり、その思いが次第に、小説を書けるようになる力となっていったことを、自分なりに納得のいく理解をしていたように感じたのだ。

「納得のいく理解」

 それこそが、自分が何をしたいのかということを自覚するための、最低限の感情ではないかと思うようになった。

 それが、きっと転機になったのだろう。

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