Case1-7 矢上藤次郎


 正気――矢上の心の奥底でき止められていた現実が、思考が、感情が、ありとあらゆるものが一気に開放される。

 それらは一息に入り乱れて濁流と化し、正常に戻ったはずの矢上を一瞬にして大混乱におとしいれた。それはもはや国枝のとでは比にならない。

 考えようとすればするほど考えようがない。どれだけ、わずかでも正当な理由を探そうとしても、答えが現れることはない。

 そして何より、とにかく矢上は、つい先ほど、の存在を、なんとしてでも認めたくはなかった。

 なぜなら矢上は国枝のことを憎んだことなど一度もなく、もちろん殺すつもりなどなかったからだ。


 計画もそうだ。

 そんなものはなかった。

 矢上個人にそのような権限はない。部隊分けをした際に、リーダーを任されるまでの実力はあるが、それだけである。

 それ以前に、どうやって私怨しえんで国家管理の警備隊と研究所を好きに動かせるというのか。


 更に言ってしまえば、国枝とも特筆するべき間柄あいだがらではなかった。

 信頼はしていた。しかし、親友や相棒と呼べるほどではない。


 ライバル視もしていない。


 二人で事件を解決したこともない。


 長い付き合いでもない。


 出会ったのは、この研究所の任務に配属された時からだ。それに


 そ も そ も 矢 上 に 妻 な ど 存 在 し な い  。


 それを、

 そのような『妄想』を、

 矢上はついの今まで本物だと、心の底からそれが自分だと認めていたのだ。

 本気で国枝を憎み、本気で妻を愛していたのだ。

 その感情の余韻が、今も消えることなく、気を抜けば再び心を乗っ取らんとするばかりに、べっとりと残り続けている。目の前の、自らが招いた結果と共に、矢上の存在そのものを責め立ててくる。

 自分がやるわけがないのに自分がやったのか。自分がやったのだ。その自分は確かに本物であったし、あれを偽物だと、嘘だと言うことができない。でも何故この自分が出てきたのだろうか。これはなんだと言うのか。その自分の延長線上に今の自分がいて、確かに同一人物であるはずで。つまりこの記憶や経験も本当のものである。しかし、そんな人生は送ってきていない。それだけは確かなんだ。いやそれだけではない。それは絶対なんだ――……


 矢上の脳は、強迫の泥沼に繰り返し犯され、とうとう溺れた。

 疑念や、罪悪や、恐怖や……何か一つの感情に向き合おうとすれば、他の感情がそれを邪魔し、思考することを許さない。その混濁こんだくへと沈んだ今、矢上の心は、ただ崩壊へと進んで行くだけだった。


 咄嗟とっさに、口元を押さえる。


 今にも、叫びを上げてしまいそうだった。しかしそれをしたら、きっと自分は。それがわかる。


 しかし無慈悲にも、おさえた分は体の別に回るだけだ。

 膝が震えだし、崩れ落ちる。

 呼吸も、もう上手くできない。

 手の平に噛みついて、

 声を押し殺し、

 

 矢上はただ、号泣した。


 ――限界だ。


 だから、

 そろそろ彼にも最後を。

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