光の中で 17

 翌朝、札幌では朝から雪が降っていた。慣れた寒さに懐かしさを覚えながら、朝の支度を進めた。

 ショートプログラムは首位発進と好調だ。朝起きると晴月から「ショートすごく良かった。フリーも応援してる」という旨のメッセージが入っていた。アルバイトのシフトの都合で直接現地に行けないことを嘆いていたが、応援してくれている気持ちだけで充分嬉しい。

 それに今回は氷魚舞の最古参が駆け付けている。それだけでお腹いっぱいだ。

『ちゃんと眠れた?』

「ばっちり」

『これ、お父さんと夜なべして作ったの。舞から見えるといいな』

「自分らは寝てないんかい」

 添付された画像には、デカデカとわたしの名前が書かれた横断幕を満足気に掲げる両親が写っていた。そう、今回のフリーは両親が応援に来てくれるのだ。

 国外の大会となると仕事の都合もありなかなかスケジュールが組めなかったのだが、今回は道内開催とのことで5時間の道のりを経て駆け付けてくれた。限られた休みの中で来てくれたので、生で見られるのはフリーのみなのだがそれでも両親が居てくれるだけで凄く心強い。

「がんばってくる」

 即座に返ってきた「ファイト!」というスタンプに頬が緩んだ。今日こそは、わたしはわたしの記録を越える。今までろくな親孝行もして来られなかった。朝日景湖に憧れてフィギュアスケートを始めたいと言い出したのも突然だったし、ロシアに行きたいと言い出したのも突然だった。しかし両親はそれを受け止め、認めてくれた。両親が居たからわたしは今日までフィギュアスケートを続けられている。出来ればずっとわたしを見てて欲しい。わたしの一番のファンであってほしい。その願望は些か傲慢だろうか。

 少しだけ、ほんの少しだけホームシックになった。そんな朝だった。

 リュックを背負い、ホテルのロビーで景湖と落ち合った。彼女はわたしを見るや、真っ赤な紅が引かれた唇に弧を描く。

「お、今日はいい顔してる」

「今日“は”って何ですか」

「んーん」

 恐らく中国杯の時のことを言っているのだろう。彼女なりに心配していたのだろうか。きっとそうだ。

「ご両親に金メダル渡そうね」

「もちろんそのつもりです」

 ゆったりと流れていた時間は会場に着くや終わりを告げた。フリーは演技時間が長い。昨日よりも詰め込まれたスケジュールの中、人々が行き交い、目まぐるしく時間が経過していった。

「そろそろ、お願いします」

 スタッフの声掛けでイヤホンを外す。景湖と目配せし、リンクサイドへと繋がる通路に向かった。

 同じ最終グループの選手たちの心がざわついているのを感じる。彼女らもファイナル進出がかかっているのだ。はやる気持ちを抑えられなくて当然だ。わたしだって緊張で今にも内臓が飛び出しそうだ。

 だが______

「舞! がんばれ!!」

 観客席が見えた途端、目に飛び込んできたのはわたしの名前が書かれた横断幕。それを懸命に振るのは他でもない。わたしの両親だ。その叫びが、想いが、氷魚舞を奮い立たせる。

 6分間練習。各選手たちが一斉に散らばった。脳内で流すのはトゥーランドット。

 スピードに乗り、両手を天高く突き上げた。着氷。多少心拍数を上げたとしてもわたしの出番はフリーの最終滑走。何ら影響はない。むしろ身体が冷めてしまうことを懸念していた。少しくらい無茶しても大丈夫。景湖の鬼のようなメニューをこなし、人生一番の体力を蓄えている自信があったから。

 努力は必ずしも報われるものじゃない。ただ、その経験や時間は決して無駄なものではないとわたしは信じたい。努力が直接結果に結び付かずとも、いつかは回り回って自分の元に返ってくる。少なくともわたしの人生はそうだった。

 いつだってスケートのことを考えていた。スケートが無いわたしの人生なんて想像がつかない程に。ああ、答えはすぐ側にあったんだ。

 わたしはスケートが好きだ。時間の許す限りスケートをしていたい。どうしてあんなに悩んでいたのだろう? わたしにはスケート以外無いのに。ずっとそこに居たいのならば、居場所を作れば良い。氷魚舞の人生の決定権は氷魚舞にしか無いのだから。何も恐れることはない。わたしは一生スケートと共に在りたい。音楽が鳴り止むまで______

「6分間練習を終了します。選手たちはリンクサイドに上がってください」

 答えが、出た。それも呆気なく。

 景湖は戻ってきたわたしがあまりにも呆然としているものだから、何かあったのかと心配の色を浮かべていた。

「舞ちゃん? 大丈______」

「大丈夫です。平気です。とりあえずあっちで最終確認しましょう」

「あ、うん。そうしよう」

 いつ伝えよう。この気持ちを景湖にいつ伝えようか。こんなの初めてだ。自分の気持ちを言葉にしたくて堪らない。こんな衝動は初めてだった。

 廊下を軽く走りながら心拍数を上げてゆく。正直、この激しい鼓動はウォームアップのせいなのか、気持ちの昂りのせいなのかは分からなかった。

 景湖の心配そうな視線が突き刺さる。わたしが彼女の立場だったらそうなるだろう。元よりわたしは弟子としてかなり不安定な存在だ。フョードルにとってもきっとそうだったと思う。

「舞ちゃん」

 凛とした声に名を呼ばれ、ふと現実に意識が戻る。輝く双眸が行くよ、と語っていた。会場からは歓声と拍手が聞こえてくる。もうそれは、わたしにとって恐怖の対象では無くなっていた。

「景湖さん」

 わたしのひとつ前の演技が始まった。景湖はリンクを見ていた目をこちらに向け、瞬きをひとつした。

 わたしたちの間に切なげなバイオリンの音色が響き渡る。わたしは、どう言葉を紡ぐべきか逡巡していた。こうしている間にも時間は進み、わたしの出番が近付いている。

 景湖は決してわたしを急かさなかった。ただわたしを見据え、黙ってわたしの言葉を待っていた。

 大きく息を吸った。生唾を飲み込み、彼女の目を真っ直ぐに見た。音楽が、もうすぐ終わろうとしている。

「わたし、来年も再来年もその先もずっと、この身体が動かなくなるまでスケーターでいます」

 会場が拍手に包み込まれる。

「だから、景湖さん。これからもわたしのコーチでいてくれませんか。一番近くでわたしの演技を見ていてもらえませんか。わたしと一緒に、世界を驚かせてくれませんか」

 ああ、もう時間がすぐそこまで迫っている。あと言いたいことは______

「まずはそう、4回転。成功させますから」

 半ば言い逃げるように氷を蹴った。

 言った。言ってしまった。耳元が熱かった。胸を手を当てると、これでもかというくらいに心臓が強く鼓動していた。

「氷魚舞さん、日本」

 温かな拍手と歓声に迎えられる。それらがしりすぼみした頃にはスタート位置についていた。

 音楽が始まる。

 こんなに無謀になれた自分に驚いた。実質的な生涯現役宣言。現実的なことを言うとどうなるかは分からない。しかしそれはどんな職業にだって言えることだろう。

 晴月のようにはなれないけれど、彼のように夢を見ることに憧憬を抱いてしまった。景湖に断られたって構わなかった。ただ、わたしの抱いた夢を、伝えたい気持ちを、他でもない景湖に伝えたかった。叶うか叶わないかは二の次だ。

 努力が必ずしも報われないように、描いた理想は叶わないことの方が多い。それは22年間という短い人生の中でも痛感出来るほどの確かな現実だ。しかし、叶わないからといって理想を語ってはいけない理由にはならない。

 深いテノールの響きがわたしの鼓膜を震わせる。勝利を確信し、声高に夜明けを求めたカラフの高揚感は今のわたしと似たようなものだったのだろうか。北京に響くその宣言は、人々の心にどう影響を与えたのだろうか。

 こうして音楽に触れ、音楽と戯れることが好きだ。フョードルがわたしにそうさせてくれたように、わたしもいつかそんな存在になりたい。

 スケートが好きだ。ありったけの愛を叫んだって足りないくらい大好きだ。朝日景湖がわたしをフィギュアスケートに出会わせてくれた。わたしもいつか______

 両親の横断幕が目に留まった。見てて、と強く心の中で呟く。

 氷を蹴った。東の空が淡く白み始め、雲の輪郭がぼんやりと見えてきた。星々が徐々に薄くなり、墨汁を垂らしたような湖面に真一文字に結ばれた水平線が光る。

 これが、今のわたしが表現出来る最大限の“夜明け”だ。

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