第37話

病院という場所は異空間だ。

窓から見える外は夏の眩しさで輝いているのに、病室のベッドにいるザクロにはその欠片も感じられない。

ばんやりと画面越しの空を見るように外を見ていた。


「西園寺さん、今日は少し動きますよー」

「はい」


ガラリと大きな音ともに扉が開き、ハキハキとした明るい声が聞こえてくる。

ご飯を食べて少し休む。吐き気などがなければ順調。それから順繰りリハビリの人が回ってくる。それが終われば、また休憩してお昼ご飯。

昨日、説明された流れをザクロは頭に描いた。

ベッドサイドに置いてある点滴台を掴みながら、ザクロは一日ぶりに自分の足で立った。


「まずはゆっくり歩きましょう。気分が悪かったり、痛みが酷いときは言って下さいね」


右手に点滴台。左側にはリハビリの人。

寝ていたのが1日だけだったからか、思ったより違和感はない。

チクチクする脇腹は、刺されたときに比べれば痛くない。歩いていても想定内の痛みだ。

一歩一歩踏みしめながら、廊下を歩く。


「こんな早くに歩けるんですね」

「今は傷が癒着しないように、早めに動いてもらいますね」


廊下にはザクロと同じような格好の人で溢れていた。薄い青のストライプ柄の病衣だ。

点滴台と看護師さんかリハビリ担当の人で一セット。

思ったより若い人も多く、みんなぎこちない動きで歩いていた。

むしろ高齢者のほうが矍鑠と歩いている気さえする。

ザクロは歩きながら周囲を見回した。


「患者さんも大変ですね」

「痛いのは分かるんですけど、早く退院するためですから。荒治療みたいなものだと思っていただければ」

「確かに」


ザクロは苦笑いするリハビリの人の言葉に頷いた。

良薬、口に苦し。体に良いものほど、苦痛に思うように人間はできてるのかもしれない。


「笑顔の割に厳し目の人だったなぁ」


病室に戻ってきて、ザクロは少し頭の位置が上げられたベッドに横たわる。

じんわりと汗もかいていた。

廊下の温度は個室より高めで、窓から差し込む日差しも多かった。

よろよろと置きっぱなしになっていたスマートフォンの画面をタッチする。

琥珀。

その名前が一気に目に飛び込んできた。


「琥珀さん?」


着信履歴が琥珀の名前一色になっている。

5分と経たずにかけ直されていて、ザクロは嫌な予感に顔をしかめた。

すぐに名前をタップし、耳に当てる。

ワンコールしない内に音が止んだ。


「もしもし? すみません、リハビリに行っていて出られませんでした」


ザクロは息継ぎもせず言い切った。

しばらく返事はなかった。だが、人の気配、かすかな息遣いは聞こえてくる。

まるで迷子のような声音が聞こえてきた。


『ザクロ?』


泣いているのか。

聞いた瞬間にそう思うほど、か細い声だった。


「はい、ザクロです。何かありましたか?」


できる限り普通の顔で、声で問いかける。

窓の外は昼近くになり、いよいよ太陽の光が痛いほどだ。

蝉の声が遠くに聞こえた。


『声が、出ないの』


一瞬の空白。世界から音が失われた。

何を言われたのか、ザクロには理解できなかった。


「え?」

『歌おうと思うと、声がっ』


琥珀の声に涙が混じり始める。

声が出ない。でも普通に電話はしている。

歌うときだけ、声が出ない。

パズルのピースが嵌るように情報が繋がっていく。

同時に血の気が引いていくようにザクロには感じられた。


「永田さんに連絡は?」

『まだ』


なんで、こんなときに入院しているのだろう。

ザクロは強く拳を握りしめた。

何かできることを探して、病室の中をあっちこっち見る。だが、味気ない病室には何もなく、ザクロは拳を額に当てた。


「歌う以外でおかしいところはありませんか?」

『大丈夫よ』


歌えないのが、琥珀にすれば一番おかしなことだろう。

歌が一番。

それだけで彼女は生きてきたのだから。


『声が出ないなんて死にたくなるわ』


そう言った彼女の横顔をザクロは覚えていた。

サラリとした、気負いのない顔。自然体すぎて、本気でそう思っているのがわかる顔だった。

今の琥珀を一人にしたくない。なのに、できない。苛立ちが募る。


「すぐ連絡します。待ってて下さい」


永田に連絡して、病院に連れて行ってもらう。

最優先事項はそれだ。

額に拳を強く押し付ける。腹圧もかかったのか、脇腹が痛み、すぐに緩めた。

入院を伸ばしたいわけではないのだから。


『……大丈夫、よね?』

「ええ、大丈夫ですよ」


消えそうな声に励ましの言葉をかける。

大丈夫と言いながら、ザクロ自身が一番そう言われたかったのかもしれない。

通話を切る。

青い画面が切り替わるのを見て、一度ベッドに押し付けた。


「わたしのせいか……くそっ」


昨日まで歌えていた人間が歌えなくなる。

声は精神的なものが大きく影響する。

ザクロはグルグルと胸の中で黒いナニカが渦巻くのを抑えつつ永田に電話した。



赤い光が厚い雲に覆われていた。

遠くで雷が光っているというのに、視界の端では夕焼けが広がっている。

ベッドサイドに座っている琥珀はずっと俯いていて、表情は見えない。

隣に立つ永田は腕を組みながら、難しい顔でザクロに状態を教えてくれた。


「声帯や喉自体に異常はないらしい。精神的なもの……イップスに近いだろうと」


「イップス」とザクロは小さく繰り返した。

その単語で浮かんでくるのは野球選手だ。イップスで投げられなくなった選手の記事を見た気がする。

記事と琥珀が結びつかず、ザクロは首を傾げた。


「スボーツ選手がなるもの、ですよね?」

「筋肉が強張る、思い通りに動かないこと、らしいぞ。どんな職業でも起こり得る」


永田がとんとんと組んだ腕を指で叩いていた。

琥珀は俯いたまま、言葉を発しない。

髪の毛の間から見える顔は、青白く生気がないようにみえた。

琥珀の反応を見ながら、永田に尋ねる。


「対処は?」

「ゆっくり休んで、無理しないこと。あとはカウンセリングだな」


ザクロは一度目を瞑った。

予想通りの回答。

明確な治療法はない。そして、治るかはわからない。

そういうことなのだろう。ザクロはつばを飲み込んだ。口の中がカラカラだった。


「次のライブまで1ヶ月ある。ギリギリまで待つさ」

「すみません、よろしくお願いします」


永田に頭を下げる。シーツに額が触れそうなほど深く。

次の会場は昨日の場所よりは小さいが、キャンセルするとなったら大きな損害が出る。

琥珀のファンの熱量高く、良くも悪くも影響は大きいだろう。


「琥珀さん」


顔を上げてから、琥珀の名前を呼ぶ。

ザクロと永田の会話中も一度も反応しなかった。

琥珀の中で、歌えないという事実がどれほど重いか。

ザクロが何度か名前を呼んで、ようやっと顔を上げる。


「え、あ……なんだったかしら?」


目を何度か瞬かせた。視線が頼りなく左右に動く。

その姿にザクロは唇を噛み、なるべく優しく声をかける。


「怖い思いをさせましたね。すぐに退院して、サポートしますから、それまではゆっくりしてて下さい」


琥珀の肩が跳ねた。

慌ててベッドに手をつくと、ザクロとの距離を詰める。

急に体重がかかり、ベッドが軋んだ音を立てる。


「ちがっ……ザクロのせいじゃ」

「いえ、これはわたしのせいです。そう思って下さい」


琥珀の言葉を遮り、ザクロは首をきっぱりと横に振る。

変に琥珀が自分を責めるくらいなら、ザクロのせいにして欲しい。

近くで見た琥珀の瞳には感情の高ぶりにより涙の膜ができている。ちょっとしたことで破裂する風船のように、ザクロには見えた。

じっと琥珀の瞳を見つめていたら、力が抜けたように椅子に座りなおす。

膝の上に置かれた握りこぶしが小さく震えていた。


「歌える、ようになるわよね?」

「きっと。琥珀さんが歌いたいなら」


縋るように見上げられ、ザクロは力強く頷いてみせた。

治るかなんて分からない。

だけど琥珀が歌えるならば、どんなことでもしよう。

そうザクロは心に決めた。

とうとう厚い雲から夕立の雨が降り始めていた。

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