第17話
部屋に琥珀の鼻歌が流れていた。
作曲のときの癖らしい。本人は気づいていないかもしれない、かすかな音色がザクロ一人のときには静かすぎた部屋に流れている。
人気歌手の歌をBGM代わりにできるなんて贅沢だ。
歌が聞こえてくる部屋の扉から手元にあるスマートフォンの画面へと視線を移す。
『スキャンダル女王、家事を始める?!』
『発表された曲に、ファンは歓喜』
ネットニュースで琥珀に関係するものだけを拾い上げる。どこも似たようなものだった。
SNSでは琥珀が載せた画像の感想についてが中心だ。
「家事始めたんですか?!」「私生活も大切にして下さい」「新しい曲も待ってます」などなど好意的なものが並んでいる。
城田により攻撃的なコメントはブロックされていたのも大きい。
もっとも、琥珀はスキャンダルの多さの割に悪意のあるコメントは少ない方だ。
(彼女のスキャンダルは、誰より琥珀さんが傷つくのばかりだから)
彼女のファンはスキャンダルが出ても琥珀の心配をする人が多い。
そしてーーザクロは買ってきた雑誌や新聞にも目を通す。
『新しい曲はスローテンポ』
『デモのショートバージョンでさえ心掴まれたファンが多い』
『新しい事務所により売り出される予定』
紙媒体では曲そのものや売り方について触れているものが多かった。
ショートバージョンにも関わらず、熱く分析している記事もあり、注目度の高さがわかる。
プロモーションが少ないと事務所を批判的にコメントしているものもあった。
ザクロはため息を吐く。
プロモーションも何も、事務所の場所も決まっていない状態だ。宣伝に力を入れられるわけもない。
だけども。
「琥珀さん、永田社長と電話してきます」
「んー」
琥珀の部屋となっている寝室の扉を小さく開けて中を見た。
ベッドの上であぐらをかいてパソコンを抱え込むようにして座っている。服装は起きたままなのだろう、ほとんど下着同然の薄着だった。
まったく、また、この人は。子供みたいなことをする。
熱中すると周りも、自分さえ見えなくなる。小言を飲み込む。
ザクロは琥珀に声をかけ、邪魔にならないように部屋から遠い位置で永田に電話をした。
(琥珀さんも限界だな)
歌えないなら死んだほうがマシ。そういった琥珀の顔がありありと浮かぶ。
歌手というものは、歌って息をしているのだろうか。それとも、琥珀のような人間は少ないのか。
呼び出し音が無機質に流れる中、取り留めのないことばかり浮かんでは消えていった。
「しゃ」
『ザクロさーん!』
音が途切れ話し始めた瞬間、大きな声が響き、ザクロはスマホを耳から離した。
「……城田、なんで社長の電話に出てるの?」
『今、メディアへの対応で忙しいんらしいんで』
ザクロは顔をしかめて、声の主に文句を言う。返ってきた言葉に「ああ」と頷きとため息が混じったものが出た。
SNSどころか紙媒体に出る程なのだ。
永田も対応に追われているらしい。
「事務所、取れたの?」
城田が社長と一緒にいる。ということは、同じ場所にいるということだ。
そんなことが可能になるのは、新しい事務所以外にない。
ザクロの言葉に城田は「ふふっ」と楽しそうに笑い声を漏らした。
『琥珀さんの新曲がバズったおかげですね』
それだけで、上手くいくものだろうか。
ザクロには分からないが、新曲を発表してから琥珀の周りは騒がしい。SNSも取材も。
世間の波が足元まで近寄ってきているようで、少し気に食わなかった。
「……場所が決まったなら、良かった」
とりあえず、それだけ口に出す。
事務所が決まったならば、琥珀との同居生活も終わりになるだろうか。
スッキリするはずなのに黒い靄が忍び寄る。それに慌てて蓋をした。
城田はザクロの逡巡などお見通しのように、何でもない口調で話を続けていく。
『スゴイですね、今度の曲は大分優しい感じで』
「そうだね、秋に聴くにはちょうどよいかも」
琥珀の曲作りを傍で見るようになった。
スマホに打ち込まれている歌詞も、真っ白な五線譜に次々に書き込まれていく音符も。
目の前で見た。圧倒された。
ザクロがいても、琥珀は気にせず創作の世界に入って行ってしまう。
そうやって作り上げられたものが、ああなるのだと。
あんな音の欠片も感じさせない記号が曲になる。それは、確かに神様に見初められたものしか持ちえない才能のように思えた。
普通の人間には理解できない世界。それは常人からすれば壁だ。
パソコンとスマホを抱える姿が過る。
『ネット上じゃ、琥珀さんに新しい恋人ができたんじゃないかって騒がれてますよ』
城田から告げられた言葉にはっとする。
少しだけ意識を飛ばしていたようだ。口が乾いている。唾を飲み込んだ。
恋人。誰の。琥珀の?
くるくると単語が回り、ザクロは眉間に皺を寄せた。
「男の影が見えるようなものは載せてないはずだけど?」
『そこじゃないですよー』
城田が一気に話し始める。
情報量が多い。耳に流れ込む城田の声から必要なものだけを拾い上げる。
新曲を出すにあたってスキャンダルには殊更気をつけた。
昔のものでさえ、今のように報じられることがある世の中だ。
火種さえないようにすべて綺麗にした、はず。
『やだなぁ、行動ですよ、こ、う、ど、う! 家事始めたし、幸せそうな曲出すし、これは新しい恋、しかも今までにない幸せな恋に違いない!って』
「は?」と相槌としても弱い声が飛び出た。
予想外の反応だ。ファンから見ても、琥珀の恋は不幸せだったらしい。
戸惑うザクロに城田が笑って告げた。
『主に琥珀さんのファンが騒いでます』
「分かんないなぁ」
ぽりぽりと頬をかく。
女性歌手のファンは恋愛スキャンダルには敏感なものだが、琥珀の場合は勝手が違うようだ。
わざと、自分と距離が遠いことのようにザクロは答えた。
『琥珀さんがザクロさんといて幸せってことじゃないですか?』
「そんなこと、あるかな」
恋が曲に出る。よく聞く話だ。
だが、ザクロは新曲をすでにまるまる聞かせてもらっている。
あの穏やかで、胸が温かくなる曲が、毎日トラブル続きの自分との生活からできている?
それがどうも信じられなかった。
『ありますよ、何言ってるんですか。琥珀さんが変わったとしたら、ザクロさんの影響です』
するりと零れていった一言に「しまった」と思ったのは、城田からそんなことを言われてからだった。
これでは琥珀に影響を与えられて嬉しいと言っているようなものではないか。
取り繕うように早口で言葉が出ていった。
「そんなに変わったかなって意味だから」
『はいはい』
何もかもわかっているような、おざなりな返事。
さらに言い訳を募らせようとしたら、城田が声の調子を変えた。
『あ、社長来ましたよ。代わりますね』
「……ありがとう。お願いします」
電話口に出た永田に、新曲の評判と琥珀の様子を告げる。
メディア対応に追われていただけあって、世間の評判には永田の方が詳しかった。
数分の短い会話。それを終え、ザクロは琥珀の部屋の扉をノックする。
「琥珀さん、新曲イベントができそうです」
「んー」と電話する前と同じ返事が返ってきたので、ザクロは扉を開けた。
そのまま永田との電話で決まったことを告げる。
効果は覿面だった。
「え、ほんとっ!?」
勢いよく顔を上げた琥珀がベッドの上から降りてくる。
寝起きのままのくせに、ふわふわと波打つ髪が揺れる。立つとショートパンツにキャミソールの軽装がさらに目立つ。
肌色の部分が多くて、ザクロはため息を吐いた。
「ええ、事務所の場所も決まって、活動できるので、今から忙しくなりますよ」
「忙しいのなんて、いいのよ! やっと、みんなに会えるのね」
勢いのまま目の前に来た琥珀に手を掴まれる。
それから喜びを発散させるようにブンブンと縦に振られた。
ザクロは琥珀の笑顔の眩しさに目を細める。
(歌、ライブ、ファン……か)
琥珀の大切なもの。
それがあるだけで、彼女はこんなにも楽しそうに笑う。
イベントまでの日程を相談しながら、ザクロの頭には永田から告げられた言葉があった。
『事務所が決まれば、また不審者が現われるかもしれん。結局、パソコンの自然発火ということになっているからな』
「犯人がいると?」
『もちろん、お前もそう思うだろう?』
「はい」とは答えたくなかった。
そこで頷いてしまえば、琥珀を狙っている人間がいると認めることになるからだ。
脅迫状ならいい。誹謗中傷は人気のバロメーターでもある。アンチは誰にでもいるものだ。
だが、火をつけたとなると話は違う。
新曲のイベントが決まったことで、琥珀の露出も増える。これからの警備について頭を悩ませることになりそうだった。
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