孤独な戦争

冷門 風之助 

第一話 消えた老人 前編

             1

◎”海行かば 水漬くみずくかばね 山行かば 草生すくさむすかばね・・・・”◎


その建物は外から見た限りでは、その辺の高級マンションとさして違いはなかった。

 そりゃそうだろう。

 都内中野区、そんな場所に白亜の建物なんだからな。

”社会福祉法人、恵徳会・特別養護老人ホーム、陽だまり苑”

 如何にも金のかかったような文字が描かれた建物が見えた。

特別養護老人ホーム等と謳ってはいるが、昨今流行はやりのありきたりな施設ではない。

 入居保証金八百万円。

 月経費凡そ二十万円とくれば、どれほどのものか、大抵の御仁には想像がつくだろう。

 金のある年寄りなら、それこそ痒いところにも手が届くというくらいの設備とサービスぶりだという。

 最寄駅から約三十分、俺はポケットからしわくちゃになったハンカチを取り出して汗を拭き、ガラス張りの正面玄関をくぐる。

 そこはもう、一流ホテルのロビーと見まごうよな内装だった。

 俺は受付にいた女性にバッジと認可証ライセンスを示す。

 彼女が館内電話で呼び出しを掛けると、待つ程の事もなくエレベーターが開き、小太りの俺とほぼ同じ年と思われる男が慌てたように降りてきた。


『平賀弁護士から紹介を受けた私立探偵の乾です。施設長の・・・・・』

『山田と申します』

 事務室の奥にある施設長室に通され、彼は俺と同じように皺だらけのハンカチを引っ張り出して汗を拭いて息を切らしながら言った。

『・・・・平賀弁護士からは兎に角ここへ行ってやってくれとだけしか聞いていないんですが、でも不思議ですね。どうして警察に届け出ないんです?入所者のご老人が行方不明になったなら、まず捜索願いを出すのが筋というものでしょう』

 山田施設長は気を利かせた事務員の女性が運んで来てくれた冷茶を一気に飲み干し、再びハンカチで汗を拭い、

『それが出来るならとっくにやってるんですが・・・・実はそうも行かない事情がありまして』

 少し上ずった声で言った。

『取り敢えずお話は伺います。お引き受けするかどうかはそれからで宜しいですか?』

 山田氏は頷いてから、

”くれぐれも内密に願いますよ”と二度ばかり繰り返してから話し始めた。

2

 今から丁度二週間ほど前のことである。

 この施設から一人の入居者が蒸発した。

 いや、本来ならば”行方不明になった”と表現した方が良いのかもしれないが、しかし”蒸発した”。

 そうとしか言いようのないのだと、山田氏は言った。


”人間蒸発”なんて、久しく聞かない用語だが、まあそれはいい。

 その”蒸発”した老人は、桐原弥一。

 御年97歳だという。

 しかしそんな高齢でありながら、視力は左右ともに1.5。

 聴力も問題なし。

 歯も丈夫で入れ歯も差し歯もまったくない。

 認知機能の低下も皆無。

 内臓や神経系にも衰えは感じられない。

 医師による診断によれば”見た目と体年齢は60代後半”だという。

 ただ一つ問題があるとすれば、右足の歩行に幾分難がある程度だそうだ。

 酒はほんの少し口にする程度で、煙草はまったくやらない。

 毎朝午前4時に起床し、夜勤の職員に断ってから1時間ほどの散歩に出かける。

 それもたった一人で。

 その後朝食。

 後は夜眠るまでの間、特に何をするでもない。

 ただ、夕方もう一度散歩に出かける。

 食事には好き嫌いはなく、何でも良く食べる。

 性格は物静かで無口。

 同じ施設内には特に親しい友人はいないが、これといって狷介固陋という訳でもなく、話をすれば誰とでも会話すると言ったタイプ。

 身長は1メートル70センチ。

 体重は60キロ丁度。

 骨細で痩せてはいるが、筋肉質の引き締まった身体をしている。

 家族はいない。

 20年前に妻を亡くしてから、一人暮らし。

 子供も孫もなし。

 この施設に入所したのは、本人の意志だったという。

 自分一人で住んでいた邸宅を売って、ここに来たそうだ。

 勿論こんな高級老人ホームに来るくらいだから、それなりの資産を持ち合わせていることは確かだが、自分の過去については最低限のことを話しただけで、後は何も口にしなかったという。

『話したくないというものを、無理に聞き出すわけにも行きませんしね』

 山田施設長はお代りを頼んだ冷茶を、また一気に飲み干し、困ったような声を出した。

 


 

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