7
アズベルトとカナを乗せた馬車が屋敷に到着する頃には、空の淵が白み始めていた。窓の外を見ながら、長い一日だったなと、アズベルトが短く息を吐き出す。
アズベルトの腕に抱かれたカナは、緊張が解けた安堵からか、一気に押し寄せて来た疲労と眠気に抗えず、うとうとと微睡みながら彼に身体を預けている。
夢か
犯人は二人しか見つかっていない
一人の行方が分かっておらず、捜索中
馬車の通行を妨げていたのも、彼らの仕業だった
館の主人が服毒自殺を謀ろうと
途中で聞き覚えのある声がして、意識がふっと浮上する。
「ナタリーですが、幸い腕の怪我だけで済んだようです。今は薬が抜けていない影響なのか眠っています」
クーラの声だった。
彼女の安否をきちんと確認したいと思うのに、瞼は重く身体がいう事を聞いてくれない。
そのうち再び意識がふわふわと浮き沈みを繰り返す。
半分夢の中にいながら内容がちっとも入ってこない会話を聞いていると、ふとカナの手を包んでいた温もりが消えた。離れて行くような気配に、咄嗟にそれを探してしまう。
やだ——行かないで……——
急に押し寄せた不安感に腕を伸ばす。うろうろと彷徨うそれを、直ぐにまた温もりが包み込んだ。
大丈夫、ここにいる……
そんな声が聞こえた気がしたと思ったら、カナの身体がふわりと温かいものに包まれた。酷く安心出来るその温もりに幸せな気持ちを抱きながら、カナは今度こそ深い眠りへと落ちていった。
カナが目覚めた時、陽は既に高く昇っていた。
まだ重い瞼を何度かしばたたき、優しく頭を撫でてくれるその人を見上げる。その手の主はアズベルトで、彼は夜着姿のまま書類を片手に微笑んでいる。着替えをしていない事からも、起きてからもずっと側にいてくれたのだと分かる。
「気分はどう?」
身体に残る怠さは多少あったが、それ以外は何とも無い。穏やかな声色に頷き、帰って来れたのだと実感が湧いた。
「アズ、もしかしてずっと居てくれたの……?」
ゆっくり身体を起こすと、書類を傍へ置いた彼が支えてくれる。その手に助けてもらいながら彼の横に座った。
「もちろん。オレの大切なお姫様に寂しい思いはさせない」
「お仕事は?」
「大丈夫、心配いらないよ」
向けられた柔和な笑みに安堵すると同時に、気遣わせてしまった事への心苦しさが押し寄せてくる。ただでさえ忙しい彼の時間を奪ってしまった事への罪悪感から、カナは睫毛を伏せると俯いてしまった。
「……ごめんなさい……」
そんなカナの肩をふわりと抱き寄せ、アズベルトは彼女のこめかみにキスをした。
愛しむような優しいキスに、カナが顔を上げるとアズベルトを見上げた。目の前には彼の真摯な琥珀色がある。
「カナ。オレは仕事より家の事よりカナが大事だ。君の不安はオレが取り除くと約束したろう? 何よりオレが側にいたい。だから、ごめんは無しだよ」
慈愛に満ちた瞳が真っ直ぐカナへ向けられている。本心からの真摯な眼差しに、目の奥がツンと痛く熱くなっていく。
言葉が出てこないまま、カナはアズベルトの首へしがみつく様に抱き付いた。逞しい腕が優しくカナを包み込むと、大きな身体にすっぽりと収まる。ここが自分のあるべき場所なのだと思うと、堪らず愛しさが込み上げ、カナはアズベルトの首筋に擦り寄る様に頬を寄せた。
来てくれてありがとう。
迎えに来てくれると信じていた。
支えになってくれてありがとう。
大切に思ってくれてありがとう。
甘えてばかりでごめんなさい。
言いたい事はまだまだ沢山あった筈なのに……
「愛してるわ」
どんな感謝の言葉よりも真っ先に零れ落ちた。
アズベルトの瞳が開かれ、ゆっくり身体が離れていく。揺れる琥珀色を見つめた。
健の代わりなどで無く、カナリアの想いとは別に、それだけでない事が伝わって欲しいと思う。
カナの心からの想いなのだと、伝わって欲しい。
「アズ……貴方を愛してるわ。……ちゃんと言ってなかったから——」
言い終える前に影が落ちてきたかと思うと、やっぱり唇が塞がった。なんとなくそんな予感がしていたカナは、受け止めながらも首へと腕を回す。そのままもつれあう様にベッドへ転がった。
ようやく唇が離れていった時には、カナの頬は赤く色付き、艶やかな吐息が零れていた。
労わるように愛し気に細められた彼の瞳には、それだけではない熱が確かに宿っている。妖艶に輝く琥珀色に映る自分を見ながら、アズベルトの頬へと触れる。その手に彼の大きな手が重なった。
「……あんまり煽らないで欲しいな……これでも耐えるのに必死なんだ」
「だって……本当の事だもの……」
カナの手を捕まえたアズベルトが、その手のひらにキスをしてくる。
その艶かしい美しさと熱情を孕んだ瞳に射抜かれて、カナは自分の心臓にそこまでの耐性が備わっていなかった事をようやく思い出した。途端に躍動し始めた鼓動を鼓膜のすぐ内側で聞きながら、鼻先が触れて目を閉じる。
「愛してるよカナ……もう逃してあげない」
そのつもりは無かったのだが、煽ってしまっていた事を少々後悔しつつ、いつもよりもずっと濃厚で甘々な唇を味わわされるのだった。
陽が傾き、ようやく部屋の糖度が落ち着いてきた頃、扉を控えめにノックされてハッと入り口を振り返った。
ノックの仕方で直ぐに分かった。
「ナタリー!?」
入室して来たのは、クーラに付き添われたナタリーだった。泣き腫らした目元と、包帯の巻かれた痛々しい腕が目に止まり、視界が一気に白くぼやける。
「ナタリー!!」
「カナリア!!」
お互いに駆け寄るときつく抱き締め合う。涙は堪えきれず、声を抑えるのがやっとだった。
「カナ、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「止めてナタリー! 謝ったりしないで」
泣きながら謝るナタリーの左腕へそっと触れた。真っ白な包帯が巻かれた腕からは嗅ぎ慣れない薬の匂いがする。
「こんな怪我までして助けを呼んでくれたから私は助かったのよ。感謝してるわ」
「カナ……」
「貴女が倒れてるのを見た時、頭が真っ白になってしまって……本当に、無事で良かった……」
「私こそ……カナに何かあったらと思うと……怖くて怖くて堪らなかった……」
もう一度きつく抱き締め合う。お互いの無事を確かめる様に、こうしていられる事を喜び合うかの様に、涙を拭くのも忘れてきつく抱き合った。
カナ越しに見上げたアズベルトは、嬉しそうに柔らかな笑みを浮かべている。ナタリーと目が合うと、僅かに頷いた。
どんな罰も受けるつもりで来たナタリーだったが、そんな二人の姿にますます涙が止まらなかった。
そして改めて、この二人の為に己の生涯と命を掛けようと、気持ちを新たにするのだった。
薬の影響を鑑みて休みを取るようにと言ったが、最初ナタリーは必要ないと言い切った。
カナとクーラの説得とアズベルトの命という事で、仕方なく今日一日だけゆっくり休むという事で落ち着いた。
アズベルトがクーラにナタリーの世話役と監視を命じ、カナのニヤける顔に頬を染めながら、ナタリーは部屋へと戻って行った。
カナはそんな二人の様子が微笑ましくて仕方なかった。クーラが彼女を見つめる眼差しが、ナタリーが戸惑いながらも彼への信頼を隠しもしない事が、嬉しくて堪らなかったのだ。
そんな二人の変化にアズベルトも気が付いたのか、「二人の雰囲気が柔らかくなった」と零している。
彼の目にもそんな風に映った事がまた嬉しくて、やっぱりニヤニヤが止まらなくなってしまった。
こうして長かった一日が終わり、皆んなが日常を取り戻した頃。
およそ二ヶ月半過ごした別荘を離れ、三人は本宅へと戻った。
結婚式まで、後一週間と迫っていた。
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