芬々たる死臭

 ガタウが閉じていた目蓋を上げる。

 ふと、我に返る。

 まだまばゆい風景に、違和感がある。

「……そうか」

 白昼夢。

 しばし想念の中に心があったようだ。

 ここは狩り場へ向かう道のり、その半ばである。

 近ごろ物思いにふける事が多くなった。

 歳を取ってしまった自分を実感する。

――何ひとつ遂げぬまま。

 そんな心の暗鬼を、ガタウは胸の内に押しこめる。

 思案しても詮無きことである。

 手近の戦士長を身ぶりで呼びつけ、

「歩調を早めさせろ。あと一刻(約一時間)後に野営をおこなう」

 簡潔に告げる。

「はい」

 答えた戦士長が、次々に、他の戦士長へとガタウの言葉を伝えてゆく。

 先へ先へと力強く歩きながら、その様子を確認したガタウは、視線を目的地へと向ける。

――明日には、狩り場につくか。

 そびえ立つ岩山と、低いヒナ松が目立つようになった風景の中、ガタウはそんな計算をした。

 そのつま先を、ティズン、少し湿気を含んだぬるい風が、長々と通りすぎた。

――風に血の臭いが混じり出したな。

 ガタウは誰にも明かさぬ胸の中で、独りごちた。



「風が……」

 かすかな獣臭まじりの血風を孕んだティズンを受け、カサがつぶやくように語りかける。

「風に臭いがします」

「そうか」

 わずかに獣、コブイェックの気配を嗅ぎ取りながら、ブロナーはよく気がついたものだと感心する。

 優れた戦士には、鋭い感覚が必要だと言われている。

――この子が生きて大きくなれば、存外良き戦士になるかもしれぬ。

 なかば欲目で、ブロナーは思う。

 見上げてくるしぐさには、いまだ幼さばかりが目につく。

――それとも敏感なのは、子供だからか。



 夜。

 野営地の戦士たちは、静かに昂ぶっていた。

 みなマレにくるまって静かにしているが、深くは眠らない。

――明日、狩り場に着く。

 その事が、彼らの心に緊張を生じさせている。

 緊張は熱の如く伝播する。

 年配の者たちは、少しでも心身を休めようと横になり、目を閉じる。

 だが若い者たち、とりわけ初めての遠征の者は休まらない。

 頻繁に寝返りをうったり、互いに小声でヒソヒソと囁きあったり。

「なあ、ヤムナ」

 不安げに声をかけるのは、ヤムナの取りまきで最も気の弱いトナゴだ。

「なんだよ」

 不機嫌に返すヤムナ。彼もまた、神経質になっているようだ。

「明日、俺たち大丈夫かな」

「明日って?」

「……狩りだよ、狩り。知ってるか? 最初の狩りで、一番死人が出やすいんだ。なんか、俺……」

 トナゴの怯えも無理からぬ事、毎年狩りの遠征では必ずといっていいほど、何名かの犠牲者が出る。

 そしてもっとも犠牲者が出やすいのは、狩りの初日、次いで最後の日である。

「うるせえぞトナゴ! 大丈夫に決まってるだろう! 誰か死ぬにしてもそいつは俺じゃない、腰抜けのお前か、ガキ臭いカサかのどっちかだよ!」

 ウハサンが横からいらだった声をあげる。

「……」

 情けない顔で黙りこんでしまうトナゴ。

 ヤムナもつきあい切れず、

「もう寝ろ」

 とだけ言って、背を向けてしまう。

 余裕が無いのはトナゴだけではない。

 彼らから少し離れたカサもまた、眠れない夜をすごしていた。

 横向けに寝て、上の腕をまわして枕にし、下の腕は肩口にかかったマレの端っこをいじっている。自分の身を抱くようなそのしぐさは、心細げでひどく子供じみている。

――明日は、狩りの日だ……。

 胸がドキドキして、とても落ち着かない。

 不意にまた、気弱の虫がさわぎ出し、カサは段々と不安になってきた。

 “獣の唄”という唄がある。

 恐ろしげな獣の存在を謳いあげる唄だ。

 言う事を聞かない子を、脅かすために使う唄でもあり、カサは幼いころからその唄が怖かった。

 悲しい旋律が、獣の存在をさらに不気味に思わせて、耳を塞いで夜具にくるまった過ぎし日を思い返す。

 今のカサは、そのころと何の変わりもない。ただ大きく未知の存在におびえる子供である。

 それは、このような唄である。


  大いなる獣

  黒き剛毛

  その左牙は赤い筋が通り

  戦士の魂を砕き喰らい尽くす

  その爪は五指全て鋭く

  皮も骨も肉もやすやすと裂く

  ゆめ気をつけよ気をつけよ

  大いなる獣

  その荒ぶる怒りに

  触るる無かれ


 詩と旋律を思い出し、ゾワゾワと背筋の毛が逆立つ。

――どうしよう。 

――死んでしまったら、どうしよう。

――獣に殺されてしまったら、どうしよう。

 どくどく。どくどく。耳元が、脈を打つ。

 どくどく、どくどく。おびえに騒いだ血が、治まらない。

「はっ……はっ……はっ……」

……お母さん……。

 いつも優しく包んでくれた、育ての親の笑顔に心がしがみつく。

 きつく閉じた目尻が、涙で濡れた。

「カサ。もう、寝ろ」

 不意に、となりで寝ていたブロナーが、カサの頭をくしゃりとなでた。

 首だけ起こしてカサがふり返った時には、ブロナーはもう、大きな背中をこちらに向けて寝ていた。

――戦士長が、居てくれる。

 寝返りをうつと目の前がブロナーの背中で一杯になる。

 それだけで、カサはホッとした。

 それ以後もカサは、眠くはならなかった。

 だが、一番大きな不安は去ってしまったようだ。

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