Gokegumo

Emotion Complex

第1章 1986年~旧友からの手紙

 僕は家へと向かっていた。

 雨が降っている。傘に音が響かないほどの細かい雨だ。しかし、それが逆に冷たさを感じる。

 コンクリート塀が薄い水幕の向こうに続く。

 制服のズボンもいつの間にか雨を含み、重みを伝えている。

 その不快感を抱えたまま歩むと、レンガ調造りの門構えが見えた。

 高畠――という表札。僕の苗字だ。

 雨で滴るフェンスを開ける。上から手を回して錠を外した時に、上着まで水を吸ったが、もはや気にならなかった。

 今更――という感じである。

 フェンスが後ろで鳴くように閉じた。

 ドアまでの数歩で、僕の目を奪うものがあった。

 蜘蛛の巣だ。

 母親の趣味でその一角は植物が覆い茂っている。低木の枝を渡るように糸は張られていた。

 不恰好な形状を晒しているが、獲物も主も不在で、ただ水玉だけが糸を滑っていた。

 僕は苛立ちを感じた。理由はない。ただ苛立った。

 閉じた傘で、その巣を叩き壊した。

 葉に溜まっていた雫が、傘に驚くように飛び散った。

 蜘蛛の巣は跡形もなくなったが、すっきりはしなかった。心に残ったその苛立ちの理由を考える気にもなれなかった。

 まだ揺れる草木を横目に僕は家へと入った。

「ただいま」

 返事はない。

 お母さんがいるはずなのに――。

 僕は靴下だけ脱ぐと、正面の台所へと向かった。

 テーブルの上にメモと手紙があった。

 晃一へ――と母親の字が目に入った。

 僕はメモを読みながらテレビを付けた。

 どうやら近所へ出かけたようだ。

 メモは僕宛に手紙がきていると告げていた。

「手紙――?」

 テレビでは先月自殺したアイドルのニュースがまだ尾を引いていた。

 僕は内心うんざりとしていた。テーブルの上にぞんざいに置かれた手紙を手に取ると、テレビは消した。

 手紙の送り主を見る。

 里見洋――。

 名前と記憶が一致するまで、自室で上着を脱ぐまでの時間が掛かっていた。

「そうか、小学校の時の――」

 頭から消去した名前であった。

 仲が悪かったわけではない。ただ、彼と関わったことにより、忘れたい出来事に遭遇したからに過ぎない。

 僕は小学校の後半まで東北に住んでいた。りんごの産地であり、春のさくらと夏のねぶた祭りが特に有名な町に――。

 洋はそこにいた時の――確か、四年生の時の友達である。

 僕はやっとそこまで思い出していた。

 ただ、手紙を開く気には、まだなれなかった。

 頭にフラッシュバックしてくる映像――常軌を逸した出来事が徐々に頭に浮かんでくる。

 僕は頭の中で、十歳の時に戻っていた。

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