お題「渦」

 印度洋いんどようにある何もかもを飲み込む大渦おおうずの正体を、私だけが知っている。


 彼とは大学の同輩どうはいであった。初めは入学式の席が隣だった、というそれだけの関係であったが、何かの拍子で同郷なことが発覚し、以来友人となった。時に飲み、時に遊びながら互いに課題を融通し合い、やっと嵐のような一、二年を越え、進級できて一安心、かと思いきや、彼だけが二年で足踏みをしていた。春とも夏ともつかない曖昧な日、二人で拉麺らあめんを啜りながら、何があったのかと聞いてみた。彼は私の知らないうちに恋に敗れていた。同輩の女子に恋し、先輩との仁義なき恋愛戦争に敗れ、その心労が彼の時を止めてしまったという次第。


 これを見ると胸がちりちりとしてこないか


 彼は箸に引っ掛けられた伸びきった拉麺をじっと見つめながらそう言った。新物質合成中の試験管を見る科学者のような、虚空を見つめる薬物中毒者のような、あるいは伸び切ったG線ゲーせんのような、視線。彼の言う「これ」と旨くも不味くもない拉麺とは少しズレているように思えた。私は黙っていた。彼は拉麺をまるでバリウムのように飲み込んで、かく、と首を傾げた。できの悪い機械仕掛けの錻力人形ぶりきにんぎょうのようだった。


 それからひと月のうちに彼は幽鬼のようになってしまった。目は落ちくぼみ、腕は細り、足はふらつくようになり、私が呼びかけても気付かず去って行くことが増えた。彼が気付いた時は二人で食堂に行き拉麺を頼む。彼はバリウムのように拉麺を飲む。そのうち彼は、時折かくりと震えて苦しそうに息をするようになった。大きく吸って小さく吐き、大きく吸って小さく吐き、震えを大きくしながら次第に胸を膨らましていって、しまいに咳き込む。


 いつかもそうだった。彼は元気なく機械のようにごめん、ごめんと言いながら、私の方に飛んだ薄っぺらいなるとの欠片を拭き取った。ふと彼は手を止めて私を見上げた。ただでさえ青い顔を更に青くして胸を押さえ、声を絞り出す。


 胸のこの辺りにある渦が、肉をぎりぎり裂き剥いで、骨をうずうず削り切って、どうにもたまらないのだ。


 そうか、大変だな。それ以外の言葉を思い付けなかった。たった七文字が彼に絶望を与えたことは、彼の目の色を見れば分かった。黒から黒ヘ。より深く。しかしそれ以外何を言えと? 以来、彼はぱったりと学校に来なくなった。

 私は彼の電話番号も住所も知らなかった。人に聞いても分からない。彼は友達を多く持たない。結局彼を放っておくしかなかった。


 やがて彼の顔をはっきりと思い出せなくなってきた頃、食堂で拉麺を凝視している彼を発見した。薄汚れた身なりで髪を鳥の巣のようにし、時折がく、と震えていた。前より痩せていた。明らかにおかしい。声をかけようかどうか迷い立ち止まったその一瞬で、彼は私のことを見つけたようだった。彼は拉麺を凝視したまま私の名前を呼んだ。壊れかけのラジオから出るような、しゃがれた声だった。


 来いよ。


 有無を言わさぬ響きに逆らえず、私も拉麺を頼んで彼の隣に座った。拉麺食わないのか、と聞くと食わない、と答えた。どんぶりは真冬の池のように冷たくなっていた。

 何かあったのか、と聞くと何も無かった、と答えた。何も無かったはずが無いだろう、様子がおかしいぞ、と言うと、彼はあの独特の呼吸を始めた。前よりも激しい。彼は胸を空気でいっぱいに膨らませ、顔を赤くし、不意に私を見上げて、咳をするように叫んだ。


 人の縁


 彼は突然どんぶりを持ち上げ、猛然と冷え切った拉麺を体内に収め始めた。どんぶりすらそのまま飲んでしまいかねない勢いだった。大きな音を立てて空のどんぶりを置き、彼はやけにすわった目で私を見た。先輩の送別会があるのを知っているか、と彼は聞いた。口の端から拉麺の汁が零れて、冷たい飛沫が私の手に当たった。黙って首を振ると、彼は恨めしそうに私をにらむ。参加したいから連れて行け、と言う。彼の説明によれば、先輩の送別会に彼が参加すれば、同輩の女子を先輩の魔の手から解放し、そのまま駆け落ちして印度の海岸で漁師をして暮らすことができる、とのことだった。意味が分から無かったが彼の異様な雰囲気に気圧けおされて、私は情けなく小刻みに首を縦に振った。


 夜、送別会場に着いた時点で彼はしこたま酔っていた。酒瓶片手に汚れた服の胸を、関節が白く浮き出るほど強く握りしめ、ふらふら歩いていた。私が守衛に頼み込んで会場に入れてもらった時に酒瓶は没収されたが、なお彼の片手は何かを握っている形で、時折指を渦のようにくかりと回していた。数分後に彼が先輩を見つけた時、先輩は同輩女子と話し込んでいた。彼は私の制止も聞かず、目をかっぴらいてずんずんと二人の元へ歩いていった。会場がざわめくなか、困惑と若干の恐怖に身を固くしている二人の前に仁王立ち、彼は同輩女子の名前を呼んだ。


 君はーー


 変な音を喉から鳴らして、あっという間に彼の顔が真っ青になった。まずい、と思ったその時にはもう彼の口から細切れになった拉麺が飛び出ていた。同輩女子の悲鳴が上がる。場が騒然とする中、彼はぐおお、と掃除機のように空気を吸い込みながら同輩女子に噛み付いた。また悲鳴が上がる。彼は我に返った先輩に殴り飛ばされた。酒と吐瀉物の強烈な臭いで目の前がぐるらんらるんぐとして、彼の体が渦を巻いたシュルレアリスムのように見えたのを覚えている。それから先は思い出したくもない。


 最後に彼を見かけた時、彼は猫を食っていた。汚い路地の隅で、不味そうに毛皮を呑んでいた。体が変に縮こまっていて、時折歯の合わない歯車が外れるようにがくん、と身を震わしていた。数日後、彼は印度に飛んだらしい、との噂が流れ、数ヶ月もすると誰もが彼のことを忘れていた。あの渦の噂を聞いたのは、それから二年後のことである。


 何もかもを吸い込んでしまうーー


 何もかも、とは限らないだろうが、彼は今も吸い込むものを求めているのだろう。


 日を追う事に大きくなっていくーー


 彼の胸のがらんどうが埋まることは無いだろう。きっとあの渦は印度洋のみならず五太洋全体を巻き込んで、地を削り空を剥ぎ、いずれは渇きと飢えのままに宇宙を吸い込む大暗黒穴に変わってしまうのだろう、と私は思っている。

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