第44話 そして 1

 大陸暦一八九七年、十二月。

 バルティカ王国東部にあるグレンバーの東方軍司令部にて。


 ちらちらと雪が舞う窓の外を見ながら、アレンは司令官室の片付けを行っていた。年が明けたら王太子としてキルスの王宮に戻ることになっている。


 父である国王が王太子時代、そばに置いていた娘との間にもうけたのが第一王子ジェラール。産後の肥立ちが悪くその娘は妃の称号を得る前に亡くなり、国王となった父のもとに嫁いできたのが身分と気位の高い公爵令嬢である母。子どもさえできればよいということで、生まれたのが男の子なのをいいことに、夫も息子も放り出して好き勝手に暮らしている。

 正直、母のことを母と思ったことは一度もない。


 母の実家と対立するカロー公爵がジェラールの後見人となったことで、国王の息子たちはわかりやすく対立することになった。

 どちらにも国内で力を持つ貴族がついている。どちらを選んでも角が立つ。


 そこで国王は次期国王を選ぶ条件として、二人の王子に「盗まれた王妃の首飾りを探し出した方」を提示した。そのことはごく一部の人間しか知らない。この条件はアレンが士官学校を卒業した二十二歳、つまり今から九年も前に、ジェラールともども呼び出され直接言い渡されたことである。


 だが、首飾りは見つからないまま、今年の九月、ジェラールと宰相カロー公爵がロレンシア帝国の反皇帝派と結託し議会を通さずロレンシア帝国のクーデターに軍を送る計画を立てていたことが発覚。さらにリーズ半島の戦争もジェラールとカロー公爵によって引き起こされたこともわかり、カロー公爵は宰相の地位から追われ、ジェラールは次期国王の候補から外されることになった。

 どうりで東方軍だけでなんとかしろというお達しが来るはずだ。これはアレンを殺すための壮大な計画の一部だったのだから。


 この出来事は老いて病を得ている国王をさらに弱らせることになり、十月、病気を理由に国王はアレンを王太子に任命、しばらく静養することになった。年明けとともに正式に王太子として各国にお披露目される予定である。そして折を見て国王の位を譲られることになった。

 せっかく手に入れた王妃の首飾りを見せびらかす機会もなければ、あの手この手と考えていたジェラールを失脚させる方法を披露することもなく、王太子の立場が転がり込んできた。なんだか肩透かしを食らった気持ちになったアレンである。


 それにしても部屋が、片付かない。

 九年もここで司令官をやっていたのだ。まあ、物も増える。


「黒を手放したのはやっぱり惜しかったな」


 もはや魔窟と化した司令官室を眺めてぼやけば、近くにいた青が苦笑した。


「自分から手放したくせに、何をおっしゃいますか」

「いやーだって子どもが生まれるっていうんだから、しかたがないだろ」

「あいつもやりますねえ」


 ははは、と青が明るい声で笑う。


「本当だよねえ。ムカつく。これは偽装結婚で関係は白紙に戻すから絶対手を出すなって、あれだけ強く言っておいたのに」

「まあ無理でしょう。ドワーズ侯爵夫人……セシア様は大変おきれいな方だと聞いておりますよ」

「うん、すごく美人。あと気が強い。あのカエルには参ったよな」

「ああ、あれね。傑作でしたねえ」

「……おまえね、傑作とか言うな。不敬だろうが」


 現場を目撃した青がうんうんと頷いた姿に、アレンがむっとする。


『子どもができたの。クロードの子ども……だから夫を返して。私の名誉を回復してくださる約束でしょう? 結婚していないのに、父親のいない子どもを生んだ、なんて言えないわ。子どもが生まれる前になんとかしてくださいませ』


 国王の隠居に立太子の知らせなど、実にばたばたしていた十月上旬、セシアが直々にグレンバーに乗り込んできたときは驚いた。

 まあ向こうも、イヴェール少佐が東方軍司令官にして第二王子でもあるアレンだとわかってさすがにうろたえていたが。だが、すぐさま気を取り直していつか渡した書面を手に迫ってきた姿には、感動すら覚えた。

 ……カエルを持参してきたのには、閉口したが……。


 それにしてもグレンバー赴任初日、いきなり切りかかってきた命知らずなガキが、まさか、

 ――異母弟とはねえ……。




 次期国王に選ぶ条件を聞かされた九年前、盗まれた王妃の首飾りに関しては、一応、探してみることにした。ただほとんどの人間がそう思っている通り、アレン自身も「盗まれて時間がたっているものが、今さら見つかるわけがない」と思っていた。


 この首飾りはもともと、王妃――つまりアレンの母親に贈られるものだったと聞いている。時期的にも、アレンが生まれて一年ほど過ぎたところで作られたものだから、王子を生んだ王妃のために作られたとしてもおかしくはない。


 ちょうどそのころ、祖国を追われ行き場を失ったイオニアの王女がバルティカ王国の王宮に身を寄せていた。王妃が出産で国王の側を離れているすきに、イオニアの王女が国王に対し言い寄った。そして関心を引くために王妃に贈るはずの首飾りを盗み、国王と王妃の怒りに触れて王宮から追い出された――これが、首飾りが行方不明になったエピソードではあるが、念のためにと当時を知る人に聞き込みをしてまわったところ、「イオニアの王女はおとなしい女性で、王宮にいる間も大変慎ましやかだった。盗みを働くようには思えない」という意見で一致した。


 そうなると、首飾りは盗まれたものではなく、盗まれたことにされたものではないか?


 王宮を出たあとの王女の足取りはまったくつかめていない。

 そのうち、アレンは「国王が探しているのは首飾りではなく、王女本人では」と思うようになった。

 国王は、王女に用がある。もう一度会わなくてはならない理由がある。

 何年たっても諦めることができない理由だ。

 なんだろう?


 そうこうしているうちに時間がたち、アレンの前に一人の青年と、彼によく似た中年の女性が連れて来られる。

 一人はアレンを殺そうとしたごろつきで、もう一人はそのごろつきの母親。


 ごろつきはずいぶんきれいな顔立ちをしており、荒んだ生活をしていなければモテただろうなあと思った。どうせ金が欲しいのなら、その顔を生かせばもう少し穏便に稼げたんじゃないだろうか。どうでもいいけど。

 そしてその母親のほうは、痩せて体の具合がよくないことはすぐにわかったが、ごろつきの母親とは思えないほど品がありしっかりした女性だった。銀色の髪に青い瞳。イオニアの王族、あるいは貴族だ。直観的にそう思った。

 それならば、知っているのかもしれない。


 そこで一か八か、アレンは王妃の首飾りについて聞いてみることにした。

 予想通り、彼女は何も知らないと答えた。

 息子のごろつきへ聞き取ったところによると、自分たちは戦争から逃れ、バルティカ王国南東部のアルスターで行き倒れていたところを保護されたのだという。

 その説明におかしなところはなかった。ただ、首飾りを盗んだ王女と、クロードの母親が同じ名前だったこと、この母子の見た目がよく似ていることから、クロードを国王に面会させてみようと思った。王女本人とは思わなかったが、王女と何か縁がある女性ではないかと思ったからだ。もし「あたり」なら、国王が何かボロを出すかもしれない。


 だから夏、首飾りの捜査の進捗状況を報告させるために、クロードをわざわざ銀髪に戻して王宮にやったのだが、その時は国王からはなんの反応もなかった。

 つまらないな、と思っていた直後、いきなり、長らく行方不明になっていた首飾りが見つかった。なぜか、軍の研究施設から逃げ出したフェルトンを追いかけてたどりついた、アルスターの領主の屋敷で。


 潜り込ませていたクロードから「近いうちに動きがあるから応援を」という連絡を受け、「殿下が直接行く理由はなんですかね!?」と叫ぶ補佐官や青を「司令官だからだッ」という自分でもよくわからん理屈でねじ伏せてアルスターを訪れた数日後。


 屋敷を見張らせている人間から、夜中に動きがあったというので部下を引き連れ駆けつけてみれば、どういうわけか今は女領主となっているドワーズ侯爵家のセシアが、三階からぶら下がっている。彼女を必死につかんでいるクロードに至っては血まみれで、もう何がなんだかわからない。

 部下に命じてテーブルクロスを持ってこさせ、ちょうど広げ終わったところにセシアが降ってきた。

 ぎりぎりまでクロードがねばってくれたおかげで、セシアを助けることができたのだが、あのあとのクロードのうろたえぶりを見ると、二人の関係がただのビジネスパートナーでなくなっていることはわかった。


 今まで一般市民の女性とも仕事をしたことはあるはずだが、特に何か問題を起こしたりはしなかった。だからクロードのことは淡泊なタイプだと思っていたが、違ったようだ。

 アレンはその事実に面食らった。同時に、なぜかちょっと安心もした。クロードには強烈な自殺願望がある、と、常々思っていたからだ。そのクロードがこの世に執着する理由ができて、ほっとしたのだ。


 工作員という仕事柄、危険な橋は何度も渡らせたが、クロードは作戦成功のために我が身を顧みず突っ込んでいく傾向があった。

 リーズ半島の撤退作戦の時、橋を爆破しようと言い出したのはクロードだ。言い出したからには、ということでクロード自身が仕掛けた爆薬のスイッチを押した。その役目は、別にクロードでなくてもよかった。むしろ工作員のクロードがやる必要はなかった。

 多くの人に恨まれる役を、クロードは自分から買って出た。

 アレンをかばった時もそうだ。

 自分から攻撃の的になっていった。

 そして右腕を失いかけた。

 このまま使っていたら、こいつは早晩死ぬ。フェルトンの追跡は仕事としては軽いものだ。これを最後に、工作員の役目から解放してやろうと思っていたのだが……どうやら、クロードはフェルトンが逃げ込んだドワーズ家とは因縁があったらしい。


 ――そうと知っていたら、この役目には抜擢しなかったのになあ。


 ただ、クロードがセシアと出会えたのはよかったのかもしれない。そう思えば自分はいい仕事をしたと言ってもよさそうだ。


 気を失っているセシアと、彼女を抱きかかえて離そうとしないクロードを眺めていた時、部下の一人がフェルトンとジョスランが見つかったというので、確認しに行くことにした。現場についてみれば二人とも吐瀉物まみれ、一人はさらに血だらけという地獄絵図。その場にいた執事に聞けばクロードが一人でやったというのだから、右腕が使えなくても化け物ぶりは変わらないんだなあと妙に感心した。


 そしてその場から、使用済みと思われる薬品が入っていた容器に、セシアの遺書とフェルトンの試験薬のアンプル、さらに盗まれた首飾りまで見つかったのだ。全部まとめてアタッシェケースに入っていたところを見ると、セシアに試験薬を飲ませて遺書を書かせ、自殺に見せかけて殺害しようとしたのだろう。カロー公爵の署名入り手紙や名簿など、出るわ出るわ証拠の山。

 このあと、自分たちはドワーズ家の財産と爵位を手に堂々と「商売」を始める気でいたようだ。

 ご丁寧に証拠をまるっと残してくれてありがとう……という気持ちになったアレンである。

 ジョスランには以前から小物臭がすごいなあと思っていたが、いやはや。小物中の小物だ。自分でも何を言っているのかわからない。


 ――ドワーズ侯爵も、こいつに相続するのをためらうはずだ。


 ただ、セシア一人にドワーズ家を守らせるには荷が重い。結婚を条件にもしたくなるわけだ。亡き侯爵への憐憫を禁じ得ない。


 それはそれとして、王妃の首飾りである。新聞にも出ていたから、何かに使えると踏んだのだろうが、そもそもなぜここにあるんだ?

 そう思って手に取ってみれば、後ろにはイオニアの文字で『永遠の愛を誓って』と刻んである。

 誰から誰へ……その部分は刻まれていないが、わざわざイオニアの文字を使っているのだからこれはイオニアの王女に贈られたものだろう。首飾りは国王が購入したものだとはわかっているので、送り主は国王。


 ――バルティカの国王からイオニアの王女へ『永遠の愛を誓って』か……。


 国王は既婚者だ。これはとんでもない醜聞である。

 だが、イオニアの王女はおとなしい女性だったという。


 ――父が王女に迫ったのかな。断られたから、盗まれたという濡れ衣を着せて王宮から追放した……とか?


 ふと心に「何も覚えていない」と呟いた、クロードの母親が浮かんだ。

 彼女はアルスターで行き倒れていた。

 なんとなくこれは、クロードの母親の持ち物なのではないか、という気がした。病を得てやつれきってもなお、凛とした美しさを保つ彼女なら、王女と言われても納得ができる。


 とは、いえ、やはり事実を明らかにする必要はある。

 八月上旬、ジョスランを監視付きで病院に放り込み、フェルトンを捕まえてグレンバーに戻った時、クロードには謹慎処分という理由で、クロードの母親を住まわせているアレンの別荘にぶち込んだ。

 母親の面倒を頼む、というわりには母親のもとに顔を出さないクロードにイライラしていたので、ちょうどいい。

 そしてその時、アレンは二人の前に首飾りを出して、「これがなぜここにあるのか」と聞いてみた。


 懐かしそうにクロードの母……アレクシアは目を細めた。

「どこにいったのかと思っていたけれど」

 アレンから手渡された首飾りを手に、涙をこぼした。


 予想通り、アレクシアはイオニアの王女だった。

 王宮に身を寄せている間に国王と恋仲になり、子どもを身ごもり。だが国王は既婚者である。

 妊娠の事実を伏せたまま王宮を出て行こうとしたアレクシアに贈られたのが、この首飾りなのだ。しかし首飾りの一件を知った王妃が激しく怒り狂い、首飾りは本来王妃に贈られるもの、それをアレクシアが妬んで盗んだ、というストーリーに書き換えられた。

 烈火のごとく怒り狂う王妃をなだめられる者は誰もいなかったらしい。


 もともと国王と王妃の仲は悪い。身分の低い寵姫から生まれた第一王子を次期国王にしたくない勢力によって世継ぎのためだけに結婚させられた二人だ。王妃も務めを果たしたあとは好きにしていいと言われていたらしい。夫も子どもも顧みない態度は記憶にある限り、一貫している。

 王族ならではのギスギスした婚姻関係に疲れていた国王を癒してくれたのが、穏やかな気質のアレクシア王女だったのだろうということは、容易に想像がつく。


 しかし、王妃は自分の夫がよその女に目を向けるのは気に入らなかったらしい。

 国王は王宮を出たあとのアレクシアを支援しようとしていたのだが、王妃によって邪魔をされてしまう。そうこうしているうちにアレクシアの行方はわからなくなり……。


 国王は、ずっと行方のわからなくなった王女を探していたのだ。首飾りを探すという名目で。



「今さらそんなことを言われても……」


 別荘で話を聞いたクロードの第一声は、これだった。


「オレもそう思う。おまえが異母弟だとわかって嬉しいが」

「……嬉しいんですか……」

「正直、これ以上王家の後継ぎ問題をややこしくしたくない。それでなくてもジェラールはうっとうしいのに」

「仮にも実兄なのに、容赦がないですね」

「あいつはオレを殺そうとしたからな。それも何万人も巻き添えにして。許す気はない……が、証拠もないんだよな。絶対にロレンシア帝国と結託してるぞ、あいつら」


「この首飾りは、あなたに差し上げます。アレン殿下」


 アレクシアが手にしていた首飾りを差し出す。


「……でも」

「私も『今さら』なんですよ。一人でこの子を生むと決めた時に、王女アレクシアは死にました。私はただの戦争難民。その他大勢のイオニアの民と同じく、家を焼かれ家族を失い、一人で逃げてきたイオニア人でしかありません。……すでに祖国もなく、家族の行方も誰一人としてわからないの。私を王女と証明してくれるものは何もないのに、今さら王女だなんて名乗れないわ」


 そして、とアレクシアは静かに続けた。


「私のせいでこの国に余計な争いを生みたくはありません。クロードは私の子、父親は戦争で亡くなりました。クロードもそれでいいわね? あなたが第三王子として名乗りを上げたら滑稽すぎるわよ」

「上げるか、そんなもの」


 クロードが吐き捨てるように言う。


「了解。そういうことにしておこう。……だが首飾りはオレではなく、アレクシア様、あなたが持つべきです」

「……敬称は不要です。私はもう王女ではありませんから」

「一人で子どもを産み育て、今日まで生き延びてきたあなたは、敬意を払われるに値しますよ」


 アレンが言うと、アレクシアは淡く微笑んだ。


「まあ、それとは別に、アレクシア様にもクロードにもこの国の戸籍がない。それではいろいろ困るだろうから、そこは手配しましょう。クロードにはオレもずいぶん助けられたしな」

「……気持ち悪いですね、何を考えているんですか」

「まあ、いろいろとね」


 クロードのツッコミに、アレンはニヤリと笑ってみせた。


 八月時点ではいろいろ考えていたのだが、結局、九月に入ってジェラールが自滅したので「首飾りと王女の行方を知っている」というカードは不発に終わった。

 そして十月に国王が病気を理由に療養に入る。

 その療養の一環としてグレンバーを訪れたいと、アレンに打診があった。

 正直、国王が来られても面倒なだけだから普段なら断るところだが、ピンとくるものがあったので了承した。


 やはり国王は、夏に面会したアレンの部下である銀髪の青年に、思うところがあったらしい。グレンバーに来るなりクロードを呼び出した。おもしろいのでクロードを案内人としてグレンバーの別荘に招待してやった。

 おそらくあの親子が顔を合わせるのは初めてのはずだ。好奇心からあとでクロードに探りを入れたところ「二度と勘弁してくれ」と呻いたところを見ると、あまり楽しいものではなかったようだが。


 しばらく滞在したのち、グレンバーの冬は寒いからと国王は気候のいい南部へ移っていった。

 アレクシアは住み慣れたグレンバーに残ったままだ。


 そして同じ頃に突然、セシアがアレンのもとに押しかけてくる。

 いわく、「子どもができたので夫を返して」。

 なんなんだいったい。どうしてこう次から次へと面倒事が。

 だが、おもしろい。


 だから戸籍がなく宙ぶらりんの状態だったクロードとアレクシアには、ちゃんと戸籍を与えた。クロードには少尉という軍歴もつけてやった。今度は実在する誰かではない、クロード自身の経歴だ。

 これで二人とも息をひそめる必要はない。

 しかしせっかく本物の少尉にしてやったのに、クロードは年内いっぱいで軍をやめるのだという。何をする気なんだと思ったら、セシアがアルスターに誘致した紡績工場の経営を手伝うのだそうだ。

 そういえばクロードに頼まれてセシアにヴェルマン伯爵を紹介してやっていた。セシアはうまく商談をまとめたらしい。工場が完成するのは二年後。

 その頃、自分は王太子のままだろうか、それとも国王になっているだろうか。


 いずれにしても、冷やかしに行ってやらなくてはならない。この国の舵取りを任される者として課題が山積みなのはわかっており、とてもそんな余裕はないかもしれないが、身近な人間の幸福を願えないようでは国を幸せにすることはできない気がする。


 机の中をひっくり返していたら、ノーマン・イヴェール少佐の階級章や身分証明書が出てきた。何年か前に自分のために作った架空の人物だ。


「まあ、もちろん、それは方便なんだけどな」


 せっかく作ったんだ。使わなくては。


「何かおっしゃいましたか?」


 青が顔を上げる。おっと、心の声がもれていたみたいだ。


「なんでもない」

「……また脱走を企んでるんじゃないでしょうね」

「まさか。オレは王太子だぞ、立場はわきまえているよ。さすがにもう脱走なんかしないさ」


 アレンはそう言って、イヴェールの階級章と身分証明書をポケットにしまった。


「本当ですか」

「本当だとも。オレはそんなに信用がないのか」

「ないですね」


 即答だった。

 タイミングよく、突風が吹きつけて窓ガラスがガタガタと鳴る。

 窓の外の雪はいつの間にか激しさを増し、見慣れている景色をどんどん白く塗りつぶしていた。風も強い。寒そうだ。

 ふと、クロードが辞意を伝えてきた時の幸せそうな顔が思い浮ぶ。

 あいつは孤独を知っている。

 いい夫、いい父親になるだろう。


「あーそれにしても、オレも嫁さんほしいー」


 春にはセシアとクロードの間に子どもが生まれる。


 ジョスランはアレンが提供した証拠のおかげで、先のドワーズ侯爵を殺害した疑いと現ドワーズ家当主セシアへの殺人未遂で逮捕され、ただいま裁判中だ。

 カロリーナは離縁し、家族のもとに帰ることになった。

 カロリーナ本人は最後まで嫌がったそうだが、ジョスランからの離縁請求に抗いきれなかったようである。前科持ちの人物と結婚していてもいいことはない、まあ妥当だろう。……というよりも、そのあたりに気を遣える人物だったんだな、ジョスラン……というのがアレンの偽らざる本音だった。


 そして当主であるセシアの腹には子どもがいる。

 その子が次のドワーズ家当主だ。

 ドワーズ家は続いていくだろう。

 どんな子どもが生まれてくるだろうか?

 クロードは、書類上は他人だが実際のところは異母弟なのだから、クロードの子どもは自分にとっては甥。

 そのことに気づき、アレンはまた一人でにんまり笑った。

 お祝いごとは多いほうがいい。お祝いをする「理由」ができるから。


「……ふふふっ」


 思わず笑い声がもれてしまう。そんなアレンを青が不気味そうに見つめる。

 窓の外に目をやりながら、アレンはよく通る声で呟いた。


「春が来るのが楽しみだなあ」

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