第42話 この手を離さない 4
どうして窓の外にいたのか、覚えていない。ルイが泣きそうな顔で必死につかまえていてくれたのに、力が入らなくて手が滑っていく。その絶望より、最期に会えたのがルイでよかった……という気持ちのほうが不思議と強かった。
それにしても寒い。
なんでこんなに寒いのだろう。今は夏のはずなのに……。
指先なんて、氷水に浸かっているみたい。
不意に、冷え切った指先を誰かが握り締めてくれた。
――温かい。
ぽたぽたと、これまた温かいものが顔に降りかかる。
――何……?
さっきから誰かが呼んでいる。
――誰?
意識がはっきりしてくると、まわりに大勢の人が行き交う気配がする。そして誰かがうるさいほどセシアの名前を呼んでいる。
うっすら目を開けると、至近距離でルイがセシアを覗き込んでいた。青い瞳が涙に濡れている。
「……泣いているの……? どうして?」
「気が付いたんだな。よかった……!」
ルイがぎゅっとセシアを抱きしめる。痛いほどの強い力に、一瞬息が詰まった。
そういえばここは、どこなのだろう。
抱きしめられたまま少しだけ頭を動かし、あたりをうかがってみる。
頭の上には大きな木。どうやら自分は建物のそば、木陰ではあるが地面の上に寝っ転がっていて、上半身をルイに抱きしめられているようだ。少し離れた場所に複数の人がうろうろとしている気配がある。
その気配の中から一人、誰かが近づいてくる足音が聞こえ、セシアはそちらに目を向けた。
「久しぶりだね、セシア嬢」
軍服姿のイヴェールが、スッとセシアの傍らに膝をつく。
「まずは我々の捜査に協力してくれて、ありがとう。あなたのおかげでフェルトンの試験薬の危険性が証明されたし、フェルトンも捕獲ができた。あなたの叔父上とフェルトンはあなたに薬を飲ませたあと、すぐにここを発つつもりだったみたいでね。ご丁寧にあなたの署名入りの直筆の遺書と、試験薬の最後の一本が入ったアタッシェケースが見つかった。……あなたを自殺に見せかけて殺害しようとしたらしい」
「……」
「フェルトンはこちらで始末……いや身柄を預かる。ジョスラン氏に関しては病院送りだが脱走しないようにうちの若い衆を見張りにつけよう。こちらは警察の案件だな……あなたが不利にならないように裏で手を回しておくから安心してくれたまえ」
イヴェールの口から、麗しい顔に似つかわしくない物騒なセリフがぽんぽん飛び出してくる。
「あとはあなたが事情聴取に応じて調書が作成できれば、東方軍司令部がやらかした不始末はおしまい。あなたはオレに力を貸してくれた。いくら感謝してもしきれないほどだ。だからオレは約束を守るよ。あなたの名誉の回復と証拠の提供だ。これで、あなたのおじい様の仇討ちが叶う」
「……私、生きてるの……?」
イヴェールの話を聞いているうちに、ようやく現実感が戻ってきた。
ただ、目の前にいるのがイヴェールだというのはわかるのだが、セシアにはなぜイヴェールがここにいるのかわからない。
「生きている。あなたが落ちてきた時、我々があなたを受け止めたからね。うまくいってよかった」
イヴェールによると、テーブルクロスを広げて落ちてきたセシアを受け止めたのだという。ぶら下がっており、落ちるスピードが速くなかったのもよかったと言ってイヴェールが笑った。ぎりぎりまでルイが手をつかんでくれていたから間に合ったのだ、とも。
「ルイから連絡は受けていて、この屋敷には見張りがついていた。今朝がた動きがあったから、何かあるかもしれないと待機していたんだ。いやでもまさか、セシア嬢が三階から飛び降りるなんて思わなかった。一応、どこも打ったりはしていないんだが、痛むところはあるかな? ルイ、セシア嬢を離せ。動けない。あと、ほかの人間が見たら驚くから顔は拭いておけ」
イヴェールの指示を受け、ルイがそっと体を離す。
ルイが涙をぬぐう気配を感じながら、セシアは手足を動かしてみた。
大きな力をかけていたせいか、腕は痛い。でもそれ以外にこれといって問題はないようだ。そう言えば、先ほどまで感じていた息苦しさもなくなっている。
「……どうして私は助かったのかしら……。フェルトンさんは、原液に近いって言っていたのに……」
「ふうん……? まあ、そのあたりはフェルトンに聞いてみないとわからないかな。ところでルイ、おまえの任務はフェルトンの捕獲とセシア嬢の身の安全を守る、だったわけだが、フェルトンはともかくセシア嬢に関してはかなり危険な目に遭わせた。オレたちが間に合わなければセシア嬢の命はなかった。これは明らかにおまえの落ち度だ。あとで処分を下す。それまでは謹慎だ」
イヴェールが険しい表情でルイを睨む。
「えっ!?」
声を上げたのはセシアだった。
「待って……待ってください! ルイはずっと、任務に忠実でした。私を守ってくれたわ……!」
「セシア嬢。こいつは軍人だ。軍人は軍規に従わねばならない」
イヴェールの厳しい視線に射抜かれ、セシアが動きを止める。
「おまえは本日中に警察の取り調べに応じてジョスラン氏の所業を伝えること。そして明日、我々とともにグレンバーに向かうこと。セシア嬢には、近いうちに調査官をこちらによこし、調書を作成してから、婚姻を無効にする手続きをとる。ジョスラン氏の悪行は警察の管轄だから、あっちに任せる」
イヴェールがクイクイと親指で何かを示す。目を向けると、警察官たちが何人かうろうろしているのが見えた。
「また連絡をする。……ああ、そうそう」
イヴェールはそう言うと、ポケットから何かを取り出し、ルイに向かって投げた。
ルイが左手で受け止める。
見れば、それはあの首飾りだった。今から三十年近く前に王宮から盗まれた王妃の首飾り。国王が行方を探しているというもの。
「ジョスラン氏のアタッシェケースから出てきた。おまえのものだろ?」
「……どうして」
ルイが困惑したようにイヴェールを見る。
「後ろに刻んであるのはイオニアの文字だぞ」
「そうではなくて、これは」
「……今さら出てきても面倒なだけだ。見つけたのがオレの方でよかったよ。兄上は実力で叩き潰すから問題ない。おまえも黙ってろ」
そう言い残し、イヴェールは立ち上がってさっさと去っていった。
ルイは神妙な面持ちで首飾りを見つめている。
「……それは、本当に本物なの?」
「イヴェールの雰囲気から察するに、本物なんだろうな。これが何なのか知っているのか?」
ルイに問われ、セシアは頷いた。
「王宮から盗まれたんでしょう。国王陛下が探していると、新聞で読んだわ。同じものをあなたに送りつけられていたから、気になっていたの。でもそれは、あなたのお父様にゆかりの品なのよね」
「……」
「……国王陛下の瞳は赤色なの。社交界デビューの時に謁見したから覚えているわ」
この国には、愛する人に、自分の瞳と同じ色の宝石を贈る習わしがある。
わざわざ裏にイオニアの言葉が刻まれているということは、これは盗まれたものではなく、贈られたものなのでは……。
「もしそうだとしても、母は父に関することは何も言わなかった。それが答えだろう。……父親が誰であっても、俺には関係ない」
ルイが吐き捨てるように言う。
セシアは自分の左手を目を落とした。
この指輪には青い石――ルイの瞳と同じ色――がはめ込まれている。
これは……。
「……あなたは私を憎んでいる?」
セシアはおそるおそる、一番気になることを聞いてみた。
「まさか」
ルイが即座に否定する。
「私のわがままのせいでアルスターを追い出されたのよ。そのあとは、とても苦労したんでしょう?」
「……あれは不幸な事故だった。セシアを危険な目に遭わせないことが俺の役割で、それが果たせなかったから責任を取らされた。それだけだ。セシアは悪くない」
「でも」
「それとも俺に恨んでいてほしかったのか?」
「そういうわけじゃ……」
否定しかけ、セシアは言葉を飲んだ。
「……そうなのかもしれない。よくわからない。……私を助けてくれた人をおじい様が追い出したことは、私の中では許せないことで。でもおじい様を恨むことはできなくて……どうしたらいいかわからなかったの。私の……私たちの傲慢さが招いたことなのに、あなたがいなくなって寂しいなんて……」
感情を言葉に変えていくうちに気持ちが高ぶってきて、再びセシアの瞳からほろほろと涙がこぼれる。
こんなに泣いたのはいつぶりだろう。今日だけで一年分の涙を流してしまったかもしれない。
「それで自分が悪いと思い込んだのか」
「私が悪かったの……あなたは止めたのに、私が覗き込んだばっかりに」
「だから……」
「……寂しかったの。ずっと。あなたがいなくなって、寂しくて寂しくて。あんなことしなければあなたはずっとそばにいてくれたのにって……」
ルイは黙ってセシアの言い分を聞いてくれている。
「……たぶん、あのまま屋敷に残っていても、ずっとそばにいることはできなかったと思う。セシアは侯爵家の一人娘で、俺はただの使用人だったからな。住む世界が違うんだよ。……近いうちにイヴェールがこの結婚を無効にする。その指輪は捨ててくれてもいい」
ややあって、ルイが口を開いた。
指輪を捨てる?
ぎょっとしてセシアがルイの顔を見つめた、その時。誰かが近づいてきた。
足音に気づいて二人が顔を向けると、壮年男性が警察のバッジを見せながら切り出した。
「少しよろしいですか?」
その後、セシアはルイとイヴェールとともに警察の取り調べを受け、ジョスランは病院に搬送されつつセシアへの殺人未遂容疑で現行犯逮捕されることとなった。ルイとイヴェールの威圧感で警察取り調べがいろいろうやむやにされたようだが……まあ、ジョスランがセシアを殺そうとしたことは薬を飲ませたり、脅したり、遺書への署名を強要したりといった点から疑いようがないということで、欠格事由になることはほぼ間違いなさそうだ。
これでドワーズ家の相続人はセシア一人になった。セシアが結婚していようがいまいが、もう、誰かとこの家の相続について争うことはない。
その日の夕方近くに、セシアは警察から解放された。
イヴェールたちは押さえているというアルスターの駅近くの宿に引き揚げていき、入れ替わるようにカロリーナが医師のもとから帰ってきた。屋敷での騒動が伝えられ、落ち着くまで戻らないようにしていたようだ。
顔色もよく、自力で歩けるようになったカロリーナを見て、セシアは心底ほっとした。そしてジョスランの行いを聞いて涙ながらにセシアに謝るカロリーナに、胸が痛くなった。カロリーナ自身ジョスランに殺されかけたのに。もっともその事実は知らないらしく、セシアに向かって必死に謝る姿を見て、カロリーナには伝えないでおこうと決めた。
ジョスランはセシアにとっては恐ろしい存在だが、カロリーナにとっては大切な夫らしい。
夫婦のことはわからないものだ。
夜。
セシアは久しぶりに自分の部屋のベッドに腰かけ、左手の薬指にはまっている指輪を見つめていた。
もう夫婦のふりをする必要もないから、セシアは娘時代の部屋に、ルイは客間に戻っていた。明日にはルイもイヴェールたちと一緒にここを発つ。
ルイはこの指輪を捨ててもいいと言っていた。
イヴェールは約束通り結婚を無効にしてくれるだろう。独身に戻るのだから、薬指に指輪をはめておくのはおかしいと思う。
だからルイの指示通り捨てるのが一番なのだ。
だが、この指輪はルイ……いや、クロードの瞳と同じ色の石もはめられている。
この指輪は「彼の妻」が持つべきもの。彼が「妻に贈るために作った指輪」。
この二か月余りのできごとを思い返してみる。
最初はセシアを遠ざけようとしてた。
でも、彼は何度もセシアを助けてくれた。企業の人間に侮辱された時も、駅で負傷兵に絡まれた時も、フェルトンの試験薬でおかしくなった時も。
そこに任務以外の気持ちがあったことも知っている。
――やっぱり、いや。
指輪を見つめているうちに、涙が込み上げてくる。
この指輪を捨てることなんてできない。
――私は……あの人の妻でいたい。
だが彼はセシアの前から去ろうとしている。
セシアは自分の手を見つめた。今朝、クロードにつかまれた部分はあざとなって残っている。セシアが落ちないように渾身の力でつかんでくれたから、その部分は内出血を起こして青黒くなって実に痛々しい。
彼は何度もセシアに手を差し伸べてくれた。
落ちそうになるセシアを助けが来るぎりぎりまでつかんでいてくれた。
でも今は手を離そうとしている。
なぜ?
――それが任務だから。
でもセシアは手を離したくない。
――私にできることは?
そんなの、ひとつしかない。
セシアは涙をぬぐうとベッドから立ち上がり、音をたてないようにドアを開けて部屋から出た。
もちろん向かう先は彼がいる客間だ。
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