第26話

 結局、私がその日様子がおかしい理由を話さなかったことで、祀梨は露骨に拗ねた。中庭から部屋に戻ると不服そうな顔で勉強をしていた。何度か私から謝罪しようとしたけれど「じゃあ、教えてよ」と言われたらと考えて、できなかった。

 私自身、まだ整理がついていない。曖昧なまま、彼女にこの気持ちを告白するのは混乱を招きかねないし、その混乱がもっと悪い事態に繋がるのを私は恐れた。

 

 嘘だ。

 私が怖がっているのは自分の想いが確固たる恋心となり、それが彼女に拒まれることだ。恋愛漫画で百回は見たシチュエーション。恋煩い。片思いゆえの、不安。まさか自分が当事者になる日が来るだなんて。いつもどこか他人事だったのに。

 祀梨は私を慕ってくれている。それは信じていいと思う。でも、彼女が遠野さんに向けていた眼差しと私に向けているそれが一致するとは思えない。今の彼女が私の「好き」を受け入れ、同じ深さと重さの気持ちを返してくれるのを期待するのは愚かだ。

 賢明でありたい。

 彼女の母親との会話で気づかされた自分のこの想いは一過性のもので、言うなれば少女じみた幻想なのだと、せせら笑う私もいるのだから。




 中庭の一件から、一週間後。

 午前九時少し前。月鳴館への送迎バスの発着場所となっている、麓の閑散とした道路に知った顔があった。もちろん、いつものバスの運転手のことではない。

 上品なミントカラーのガウンコート姿で立つ彼女はベテラン女優の風格があり、寂れた麓町には似つかない。


「よかった。会えたわね」


 鹿目母は私を見ると、そう言って胸をなでおろしたのだった。けれどその表情は険しさを維持したままだ。


「なにかあったんですか?」

「ええ、あるの。一時間迷ったわ。私が行くかどうかで。でも、八尾さんに託すことにしたの。あなたからすると……いえ、きっとちがうわね。あなたなら引き受けてくれる」


 仰々しく、意味深長な物言いに私は身構える。そんな私に一歩近づき、鹿目母は「これを。あの子に」と言ってA4用紙がすっぽり入るサイズの茶封筒を差し出してきた。私はほとんど反射的にそれを受け取る。


「ひょっとして、大学案内か何かですか」

「残念ながら未来への贈り物じゃないみたい。裏返してみて」


 言われたとおりにする。目を疑う。


「遠野笑実理」


 封筒の表には宛先の名前や住所といった情報は何一つ書かれていないのに、裏側には縦書き、達筆な字でその名が記されていた。正確には「鹿目祀梨へ 遠野笑実理より」とあったのだ。


「家に送られてきた時はビニールカバーがされていて、そこに宛先や差出人が記載されているシールが貼られていたの」

「でも遠野さんは――――」

「当然、生前に用意されていたものよ。一年後に送られてくるように。その手のサービスを事業としているところが、いくつかあるみたい」

「今日でちょうど一年なんですか?」


 鹿目母が肯く。

 二人が心中未遂をした冬の日。何月何日かまでを私は聞いておらず、それが今日でもおかしくない。私は二人が高校一年生のクリスマスを、つまりは最後のクリスマスはせめて愛しく過ごしたものだと思っていたが、そんなのは勝手な思い込みだったのだ。


「彼女の誕生日であり命日なのよ」


 私は言葉を失う。封筒が手から滑り落ちそうになって、慌てて掴み直す。感触からすると、封筒いっぱいに何かが入っているのではないようだ。


「私が、これを祀梨に?」

「敢えて言いましょう、拒否権はあるわと。どうしたい?」


 大人ってずるいな。私は鹿目母が既に私の答えを知っているのだとわかった。先ほどもそんなふうに口走っていたではないか。


「責任をもって彼女へ届けます。私が」

「ありがとう。頼んだわ」


 短い沈黙があり、そして彼女は私に背を向けて去った。近くに車を停めてあるか、電車で来たのか。いずれにせよ、私に電話して待ち合わせはしなかった。迷った、と口にしていた。今朝、この封筒を目にしたとき彼女はどう感じたのだろう。そこに死んだはずの、娘と心中を図った人間の名があったとき、どんな感情があったのか。それを聞く隙がなかった。

 

 バスに揺られ、慣れた景色を眺めながら考えるのは祀梨のことだった。あの子はこの封筒を受け取り、どんな気持ちでその中身を確認するのか。届けないという選択肢。それはない。たとえ私が鹿目母に、祀梨への受け渡しを宣言していなくても、この封筒をズタズタに切り裂き、捨てるという選択はないのだ。

 過去からの、死んだ恋人からの贈り物。もしかするとここに「真実」があるのだろうか?




 私が部屋に入ると、エントランスや廊下よりも一段と暖かな空気が私を包む。祀梨はソファで寝転がり、例の図書室で借りたと思しき本を読んでいた。私の朝の挨拶には「ん」と撥音で返し、そのまま読書に集中する。

 そんな彼女を、椅子に座って眺めることにした。話さないといけないことがある。しかしうまく切り出せない。バックから封筒を出し、これ見よがしに机の上に置いた。彼女は気づいていない。

 

 一日の大半を快適な部屋で過ごすこともあって、彼女の部屋着は夏の終わりと大差ない。涼し気とさえ言える。私は上着を脱ぎ、手近なところに畳んで置く。来客用のコート掛けなんてものはこの部屋にない。

 引っ越したら、彼女は部屋をどんなふうにするだろうか。掃除はできるタイプだから、私がその面倒を見ることはない。その他の家事については知らない。知らないことってまだまだ多い。無数にあるのだと感じる。一つずつ訊いていけば教えてくれるのかな。知りたい、今はそう素直に思う。


 やがて彼女がちらりとこっちを見やり「それ、何の封筒?」と訊く。私は「あのね」とまず口にする。その後が出て来ず、彼女が本を閉じた。


「なに?」

「今日で一年なんだってね」


 祀梨の顔に一瞬、驚きが浮かび、そしてなくなる。彼女は立ち上がって本を所定の場所に片づけ、それから落ち着いた声で「それさ、誰から聞いたの?」と言う。


「一時間足らず前、あなたのお母さんから。でも、大事なのは情報源ではなく、一周忌であることでもないの。これ、見て――――」


 私は封筒を、そしてその裏を彼女に突きつける。本を片づけた後、ソファに帰るでもなく私の傍に寄るでもない、突っ立ている彼女に。その顔に浮かんだ驚きは今度は消えなかった。


「嘘……なに、それ」


 鹿目母から聞いたことを私は話す。誤解のないようになるべく正確に。現時点で判明していることを。


「おかしい」

「……そうね」

「ねぇ、ななみさん。わかっている? 何がおかしいって」

「わかっているつもりよ。これがこうしてここにある意味。

 

 信じていた、もしくは予想していた。そうみなすこともできる。それを確かめる術はここにあるはずだ。この封筒の中に。

 私は椅子から立ち上がって、彼女へと封筒を渡す。いや、渡そうとした。なのに、彼女は手を出してこない。受け取ろうとしないのだ。


「祀梨?」

「開けて」

「え?」

「ななみさんに、開けてほしい」

「……いいの?」


 こくりと彼女が頷き、それから私たちはソファに並んで腰掛ける。いつもの場所。けれど、落ち着かない。私は慎重に、手で封を開ける。しっかりと糊付けされていたが、きれいに開く。

 中に入っていたのは二回りほど小さい封筒だった。茶封筒でも白封筒でもない。薄く淡い紫ないし藤の色。洒落たレターセットを買ったら便箋といっしょについてくるような代物。そしてまさしく、これはこの時のために遠野さんが準備した手紙なのだと察した。

 封筒には、写実的な花の線画がプリントされている。重い? 便箋以外の重みがある。私はそれを祀梨に差し出した。隣にいるが、いつもより距離がある彼女に。彼女は「開けて」と繰り返した。私は「いいえ、ここから先はあなたがするべきよ」と言った。まるで自分の声じゃないみたいだった。


「ねぇ、読まずに食べるっていうのはどうかな? 黒やぎさんみたいにさ」


 震えた声で彼女が無理に笑みをつくる。読まずに手紙を最初に食べたのはどっちだったっけ。とにかく、その後はどっちも読まずに食べてはさっきの手紙のご用事は何かと手紙を出していく。そんな歌詞。


「私はあなたの選択を尊重するわ」

「なら、わたしの代わりに開けて。お願い」


 さっきよりも必死な声だ。


「本当にいいの? 私が彼女からのメッセージを、あなたに向けたそれを見てしまうかもしれないのよ」

「わかっている。わかっているよ、そんなこと。でも……わたしは、怖い。自分では開けられない。開けたくない。手紙が入っているなら、ななみさんに読んでほしい」

「何をそこまで恐れているの?」


 今は死者と言えども、最愛の女性だったはず。二度と届かぬ愛が溢れるのを怖がっているのだろうか。過去が現実に追いつき、未来を蝕むことを彼女は悟っているのか。答えない彼女に、私もつい黙り込む。


「ななみさん、お願い……」


 俯いた彼女の涙声に私は負けて、時間をかけてその封を切り、中に収められていたものを取り出した。便箋がたった一枚。

 そして――――。


「祀梨、こっちを見て」

「……笑実理の、ネックレス」


 野々井さんが私に教えてくれたネックレス、すなわち二つ合わせるとハートになるそれの片方が中に入っていた。心中決行の前に、祀梨のネックレスを遠野さんは預かった。そう証言したのは当時の祀梨であるはずだ。そしてそれは遠野さんの体内から発見された。少女の遺体からだ。

 それに対して、遠野さん側のネックレスの行方は不明だった。生者たちは誰も知らなかったのだ。

 

 傷も汚れもないそれを私が掲げるのを、祀梨はぼんやりと眺めていた。私は彼女に手を出すよう言い、彼女は従う。両手で水を掬うかのようなポーズ。そっと、その手に私はネックレスを乗せた。彼女がそれを握りしめるまで、またしばらくかかった。


「手紙、読んでくれる? 声に出して」


 再び俯いてしまった彼女がそう私に頼む。

 

「それをあなたが望むなら」


 私にとって、写真の一枚も見たことがない遠野さん。彼女の姿はわからずとも、おそらくこの手紙には彼女の心が、紛れない本心が綴られているはずだ。深呼吸をしてから私は手紙を音読し始めた。

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