第15話

 月鳴館の中庭を訪れるのはその日が初めてだった。

 

 これまでエントランスから鹿目さんの部屋への道中、廊下の窓から見えたそこは、だだっ広い運動場めいた空間でしかなかった。草花に彩られた場所には思えなかったのだ。

 けれど実際に足を運んでみると、意外にもよく手入れされた花壇がいくつもあった。秋咲きのコスモスの間を白い蝶がひらひらと舞っている。


 九月二週目に入ってもなお日中は気怠い暑さが残っているが、夜は肌寒い。山中とはいえ、標高がそこまで高くないから麓との気温差は小さくとも、真夏の頃と同じ装いで眠ってしまうと、早朝に身震いしてしまう。「実体験としてね」と鹿目さんが話してくれた。

 

 そんな彼女が、昼休憩の時間に私を中庭に誘った。気持ちのいい秋晴れだからと。たしかに雲一つのない青空が頭上に広がっている。


「ハチ先生は、お花の冠って作ったことある?」


 花壇の前に屈み、何も言わずに色とりどりの花をしばし見つめていた鹿目さんが、カンカン帽のつばをひょいっと上げ、隣に立つ私を見上げた。

 その帽子は、彼女が家から持参したはいいが春秋と被る機会がなかったらしい代物だった。せっかくだからとクローゼットの奥から取り出していた。薄紅のリボンが巻かれているそれはどことなくレトロだ。


「お花畑で、誰かといっしょにさ」

「そういうシーンは記憶にあるけれど、フィクションの中でだわ。そもそも花畑に足を運んだことがないもの」


 地元の、隣の市に観光名所になっている自然公園があってそこの花畑がたいそうフォトジェニックなのは知っている。いかにもカレンダーの写真に選ばれそうで、ポストカードにもうってつけな景色。


「わたしもそう。いつか二人で行けたらいいねって笑実理と話したのを覚えている。夕方の砂浜で追いかけっこするよりも、わたしたちは花冠をお互いのために結うのが性に合っているってね」

「行かなかったの? それとも……行けなかったの」

「笑実理は中学生の時に三年間、環境美化委員を務めてね、学校の花壇のお世話をよくしていたの」


 鹿目さんはまた花へと視線を向ける。私の質問など聞こえていないふうだった。


「わたしはバドミントン部にいちおうは所属していたけど、夏休みが明けると二日に一度はサボっ。放課後を笑実理と過ごすためにさ。もともと他の部員たちも顧問も熱心とは言えない人の集まりだったから、とやかく言われなかったよ。他の運動部と比べて体育館のコートを使わせてもらえる時間も少なかったんだ」


 部活動ごとのステータス、つまりは部員数や実績に基づいて体育館のコートの割り当てが決まっていたそうだ。それは公平であるが平等ではない処置だ。保護者たちからの要請があってそういう取り決めになったのだとか。それが多数派の声だったのか、少数の声の大きな人たちから求められたかまでは知らない。


「笑実理は家でも庭で過ごすことが多くてさ、植物には詳しかった。わたしは、花や蝶を慈しむ彼女を花の妖精だって思った。人魚の次は妖精。笑っちゃうよね」


 しっとりとした呟きだった。帽子に収まらない彼女の黒髪が秋の日差しを吸い込み切れず、きらめいている。


「綺麗だったのね」

「うん。同い年には見えなかった。同じ時間の流れにいるとは信じられない、そんな神秘的な雰囲気」


 うっとりとした調子で彼女が続ける。


「たとえば……いつだったか、一重咲きの白いダリアを愛でながら教えてくれたの。『ダリアには花びらが幾層も重なり、球体に見える咲き方をする種もあるんだよ、祀梨ちゃん。ボール咲きって言ったり、花弁の大きさや形によってはデコラ咲きなんて言ったりするの。デコラティブ。装飾のあるっていう意味。大輪のダリアは育て甲斐があるだろうなぁ』って」


 放課後の時間を共にする頃には、遠野さんは鹿目さんと話す際に淀みなく言葉が出せるようになっていた。

 ろくに知らない人と話す場合や、授業中に先生に指名された場合はまだその声は上手に空気を震わせていなかった彼女が、自分にはリラックスした面持ちで話してくれるのを鹿目さんは嬉しがっていた。

 遠野さん自身が強く望まない限りは、その声を他の誰かに聞かせる必要はないのだと思いもしたのだ。そんなふうに鹿目さんが誰かに対して独占欲というのを抱いたのはそれが初めてだったという。


「けどね、可憐な花に魅せられて寄りつく悪い虫も当然いたんだよ」


 そう口にした彼女が立ち上がり「んーっ」と大きく伸びをする。私は「モテたってこと?」と問うと「ま、そういうこと」とそっけなく返してきた。


「わたしはさ……笑実理への恋心を募らせるばかりで、それを直に伝えられないまま中学三年生の春になっちゃったの」


 彼女がそう言いながら歩き始める。ついていくと、誰も座っていない四人掛けでアルミでできた赤茶色のベンチに座った。いわゆるガーデンベンチ。

 広い中庭を通り過ぎるスタッフも利用者も一人もいない。よく晴れた秋空の下を二人占めしていた。


「最初はね、隠さなくてもいい、べつに女の子を好きになってもいいって心から思っていたよ。……でも時間が過ぎていくうちに、もしかしたら秘めておくべきなんじゃないかって気持ちが変わった。この想いは裏切りなのかもって」

「裏切り?」

「笑実理はね、無防備だった。ううん、無垢だったの」


 鹿目さんは帽子をとるとそれを膝の上にそっと置いた。そうしてから私に「もっと寄って」と頼んできた。私はそのとおりにする。果たして彼女はごく自然に私に身体をあずけてきた。


「小学生時代を部屋にこもりきりで過ごした影響が大きいんだろうね。絵に描いたようなピュアな女の子だった。クラスの男の子に性欲があるのに気づいていなかったし、隣にいるわたしにもそれがあるとは考えもしなかったんだと思う」


 遠野さんが鹿目さんに求めていたのは純粋な友情だった。というよりも、それ以外を求めたり求められたりを想像できていないふうだった。だから鹿目さんは彼女への「好き」が裏切りだと疑い、憎しみ、しまい込もうとした。


「あの子がもし、恋愛に興味があって、そこにキスやその先に対する関心もあるんだって、わたしに告白してくれたなら」

「くれたなら?」

「わたしは……二人で試してみよっかって、なんでもないように提案したかもね。拒まれないようにさ。恋人ごっこしよっか、キスしちゃおうよって」

「できなかったのね」

「中学生の間は、だよ」 


 ふふんと彼女が笑う。

 そして「ほら、あっちには薔薇も咲いているよ」と遠くを指差した。たしかに向こうにそれらしき花が咲き誇っているのが見える。赤と白。でも、かろうじて花が見える距離で、その茎に生えているであろう棘は見えない。彼女が言うからには薔薇なんだろうけれど、実は薔薇によく似た花だったとしても私には区別できないに違いない。


「ねぇ、ハチ先生。薔薇の棘が何のためにあるか知っている?」

「棘? 外敵から身を守るためじゃないの」

「刺さると痛そうだもんね。でもね、棘があるからって虫や動物がぜったいに寄りつかないわけではないの。人間みたいにぷつんと切って贈り物にすることはなくても、棘なんておかまいなしに食べちゃう虫もいるんだって」


 ふわりと秋風が吹きつけ、私にぴったりとくっついている彼女から微かに花の香りがした。たぶん。もしかしたら単純に花壇に咲いている花の香りかもしれない。でも、鹿目さんの香りだと直感する私がいた。


「棘には、他に役割があるってこと?」

「何かに引っかけて上へ上へと成長していくためっていう説もあるんだよ。他の植物に光を遮られないために、他にも花粉を風に運ばれやすくしたり、虫や鳥たちに気づいてもらいやすくしたりするために……茎を伸ばしていく。棘がその支えになっているとも考えられているんだって」


 すらすらと。それが遠野さんから教えてもらったことなのだと推察するのに難くなかった。彼女たちには真っ赤な薔薇を贈り合ったことでもあっただろうか。それとも青い薔薇を、彼女たちは咲かせるのを望んでいたのか。


「棘を失った薔薇はさ、ちょうど服を失って丸裸にされた状態なの。そして人から人へと贈られ、抱かれるんだね」

「誌的だけれど、少し……」

「エロい?」

「そう、官能的」

「わざわざ言い直すんだ」

「悪い?」

「ううん、ハチ先生のそういうところ、嫌いじゃないよ」


 鹿目さんはそう言うと、私の腕にその顔面、というより鼻をつんっと押し当て、そうかと思えば、私から離れた。そしてこちらを覗き込むように見やる。


「ねぇ、大切な人を亡くした経験って先生にもある?」

 

 私は肯いた。やはり深く考えることなしに、反射的にだ。


「教えてほしいな。もしよかったら」

「……母親。二年半前に、事故でね」

「先生でも泣いた?」


 彼女の遠慮のない言葉に私は黙って、その瞳の奥に真意を読み取ろうとした。でも、すぐに諦めて肩をすくめると直に問いただすことに決めた。


「私が冷淡な人間だと思っていたの?」

「ちがうよ。我慢強い人かなって」

「我慢ができたら人付き合いがもっとうまくできているわよ」

「じゃあ、泣きじゃくった?」


 私は空を仰いだ。べつにその遠く向こうに母の姿を望もうとしたのではないし、隣にいる彼女のように思い出に浸ろうとしたのでもない。答えに詰まって、しかたなくそうしただけだった。


「……泣く資格なんてない」


 やがて地面に落としたそんな呟きを、鹿目さんは間をおいてから拾った。


「親不孝な娘だったの?」

「あなたに言われたくない――――ごめん、今のは失言だったわね」

「いいよ。ほんとのことじゃん。ああ、ほんとのことだからって、言っていいわけじゃないか。あのね、ハチ先生」


 彼女は帽子を手に取り、立ち上がって私の前に立つ。一歩分の距離。そして帽子でその口許を隠して、でもいつもどおりの澄んだ声で彼女が言う。


「もっと先生のことを知りたいな。勉強以外でもいろいろ教えてくれる?」

「いろいろってなによ」

「いろいろはいろいろ」

「私が思春期の男の子か、そうでなくても健全な男性なら勘違いしそうな言い回しよね、それ」


 彼女がさっと帽子を下げた。笑っている。にんまりと。


「えっちなこと考えたんだ?」

「私からしたらあなたもけっこう無防備よ」

「無垢ではないけどね。それと、忘れちゃったの?」

「なにを」


 彼女が距離を詰める。私の耳元にその唇を寄せた。


「わたし、女の人が好きなんだよ」

「……もう遠野さんを忘れたいの?」


 失言だとわかっていた。口から出る前にそれを抑え込むことができた、でもそうしなかった。


「わたしがさ、笑実理の立場だったら何が何でも忘れてほしくないって願う。むしろ呪っちゃう。でもね、死んだのは笑実理で、あの子だったら……忘れてほしいって望むに違いないんだよ」


 切なさが優しく軋む囁き。それが終わると、彼女は私の左耳にその唇でそっと触れ、そして甘噛みしてきた。

 私がそれに驚き慌てて、座ったままで距離をとると「今の失言はこれで許してあげる」と彼女は微笑むのだった。

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