第11話

 満を持して、そんな表現が適切かは怪しいところだけれど、とにもかくにも私は鹿目祀梨という少女の内面に触れる機会を得た。触れる気なしに関わり続けるのなら(おそらく)性的に凌辱すると脅迫されてしまった。なんだこれ。


 私に友達がいれば酒の肴にしながらげらげらと話せたのかもしれない。ああ、でも私はお酒も飲めない。ほんの少量で酩酊してしまうのを検証済みだ、独りきりで。そう昔のことではなく二十歳になった先々月の日曜日に。

 母がそういう体質だと聞いていたから不思議でなかった。亡くなってからまた一つ、親子の絆を確かめるのも妙な気分ではある。……多香子さんはけっこうお酒飲めるって話なんだよね。仕事柄、ワインをよく飲むと前に話していた。


 鹿目さんに脅されたその翌日、彼女の部屋にて私は「おはよう」の代わりに「なんでも話してくれるの?」と声をかけた。ソファの片方の肘掛けに上半身のほとんどをあずけて、下手をすればそこから転がり落ちそうな姿勢の彼女。


「わたしなりにね、反省したんだよ」


 鹿目さんはゆらりと起き上がり、飄々とした笑みをみせる。


「反省?」

「うん。なんだか昨日のわたしは、ハチ先生にもっと自分のことを知ってほしがっている、かまってほしがってるみたいだったかなって」

「それはつまり……子供っぽい態度をとったのを恥じているの?」

「どう思う?」


 問に問を返されると困る。

 私はひとまず荷物を置き、それからソファではなく椅子に腰かける。勉強机のほうに向いていたそれを彼女へと向きを変えて。


「あまり私を試さないで」


 私は膝の上に左腕を乗せると頬杖をついた。背中を少し丸める。それでもまだ目線の高さは私の側が若干高い。


「子供扱いはしないわ。そんなことしたら噛みつかれるだけじゃ済まなさそうだもの。えーっと、ようするに対等な立場であなたの抱える事情だとか悩みだとかを聞く。そうする。……そうしたい」

「最後のは嘘でしょ。大人のさ」


 容赦ないな、この子は。頬杖がぐらつく。私は肩を竦め、そして逃げるつもりはないのだと示すべく、彼女の顔を見つめた。この一カ月足らずで見慣れたそこに、私は強かさ同時に繊細さも見出している。少なくとも、ただ可愛いってだけじゃないのは確実だ。


「白状すると、これまで年下の子を慕ったり慕われたりがなかったから、距離の縮め方がわからないのよ」

「年齢関係なしに人間全般じゃない?」

「……バレたか」


 茶目っ気を出して舌をちろりとしようかと思ったが、やめた。無理だった。ブレーキを踏み込んだ。きっとそういうお茶らけができたら友達の一人ぐらいとっくにいるんだろうな。


 鹿目さんはその指を一本ずつ調べていくような動作をしながら話す。


「対等ってのは賛成だよ。だからお互いにさ、話していこうよ。自分と向き合うことが苦手なのに周りに信用できる人間がいない場合は、孤独同士でどうにかしないといけないものなんだよ、たぶん」

「それ、孤独って言える?」


 二人で孤独なんてのは矛盾していないか。


「本質的には」


 彼女の簡潔な返答はまるで哲学者めいていた。両手の指を調べ終えた彼女はようやく私へとその眼差しを向けてくる。


「だって、わたしはべつにハチ先生に理解されたいって思っていない。無関心でいられるのが嫌なだけ、ううん、嫌になっただけ。先生もね、好きなように話していいんだよ、先生自身のこと、考えていることをさ。わたしに頑張って伝えようってしなくてもいい」

「それはどうも」


 急に諭すような口調で言われて私はそんな返事しか出てこなかった。

 わざとらしい咳払いをしてから立ち上がり、私はおそるおそる、いや、何も恐れる必要はないとわかってはいるのだけれど、おぼつかない足取りでソファへ、彼女の隣に座った。


「一つ言っておくと、話せば話すほど勉強のしわ寄せはあるから」

「……ハチ先生って空気読まないのを信条にしている人?」


 呆れ顔で、じとっと睨まれる。

 はぁ、と小さな溜息と共にまたその視線が外されて「どこから話したものかな」と彼女は呟いた。


「結末から話しちゃうと、なんだその程度かって思われそう。でも、最初から話そうと考えてもその最初を決めるのが難しい。ねぇ、ハチ先生。本当に誰からもわたしのことを何も聞いていないの?」


 誰からも。何も。

 そこまで言われると否定したくなる。実際、野々井さんから少しは聞いて……ないか。あの人は知っているだろうに。


「こんな私に信条があるとしたら、なるべく陰口を叩かず、人について知るべきことはその当人から知るってことかもね」

「そっか、興味なかったから情報収集なんてしていないんだ」


 私のそれなりに気の利いた返しを、ばっさりと切って鹿目さんが言う。


「そういえば」


 主導権を握りたいわけではない。ただ、このままダラダラと話すよりはよかれと思って私は口にした。


「昨日の質問に答えてもらっていないわよね。あなたがどちらかと言えば女性を好きなことと退学したのとは関連性があるの?」

「結果としては」


 さらっとそんな答えが彼女からもたらされる。


「つまり?」

「オーケー。結論から、あるいは結末から話すよ」


 鹿目さんは私にぴったりくっついてきて、私の耳元で「あのね」と囁く。恍惚とした息遣いは私の脳まで溶かすようだった。


「わたし、女の子と心中未遂したんだ」

 



 駅近くの古民家カフェは以前に来店したときよりも、客数が多かった。

 前に訪れた時はまだ世間一般で言うところの夏休み期間に入る前だったからもあるだろう。私はその店へとまた同じ人物、すなわち野々井さんと入店していた。

 お盆期間にはなかった、報告会。いちおう三回目にはなるが、二回目は野々井さんの側に急用が入って十分かそこらで解散したのだった。


「鹿目さんは詳しく話してくれましたか」


 私が心中未遂という語を持ち出すと、野々井さんがそう言った。


「いいえ。ただ、相手が幼馴染だとは」


 結局、昨日に鹿目さんが聞かせてくれたのは、その幼馴染との切れぎれとした思い出だけだった。

 あたかも心に自然と甦ってきた順に、それをそのまま言葉にしているふうに。しかも話している間は私の質問をろくに受け付けてくれなかった。

 おかげさまで、それらの思い出の時系列を話しぶりから推測するしかなかった。鹿目さんが彼女を特別に想い、彼女もまた鹿目さんを想っていたのはわかったけれど。「続きはまたね」と言って勉強をし始めたはいいが、二人とも集中できていなかった。


「そうですか……」


 残念がるのを隠そうとしない野々井さんだった。彼女とも出会って一カ月ほどになるが、相変わらずのショートボブで色や形もほぼ同じ。ぼさぼさとはしていないから無頓着ではないのはわかる。


「野々井さんは何を知りたいんですか」

「えっ? あ、いえ……」


 言葉を濁して上目遣いで私を見やって、小さく笑う。それはちょっと話せないのだ、と暗に伝えてくる。


「以前の私であればここで引いていましたが、今日は違います。教えてください、あなたと鹿目さんの関係。知りたい真相を」


 きっぱりと。

 いかにも押しに弱そうな彼女に、私は強気で言う。すると彼女は気持ちを落ち着けようとしたのか、冷たいドリンクをゴクゴクと飲んで、それから「ど、どうしてもですか?」とびくびくと訊いてきた。


「どうしてもです」

「い、意外ですね」

「え?」

「八尾さんは、そういう人じゃないと思っていたので」


 傷ついた表情だった。

 でも言ってから、失言だと捉えたのか彼女は口をもごもごとさせる。しかしうまい言い訳は出て来ずに私が話を続ける。


「たしかに、事なかれ主義なのは自負しています。でも、先生だけをやっていたら彼女に怒られちゃって」

「怒られた?」 

「えっと、ある意味で。その流れで彼女の過去に触れることもできたんです。まだ、ほんの少しですが」

「波長が合うんですね、鹿目さんと八尾さんは」

「どうなんでしょう、ただ二人とも独りよがりってだけかもしれません」


 孤独や孤高よりも、しっくりくる。


 野々井さんは観念した顔つきになって、しかし躊躇いは消えては浮かんでを繰り返しているのが見て取れた。思わず「また今度でいいですよ」と言いそうになった。私の良心のせいではなく、面倒だなと感じたからだ。困っている人を前にして助けるよりも離れたい、遠ざけたい人間。それが私なのだろう。

 

 でも、今は待った。待つことにした。


「私からお伝えできることは」


 暗く、重い声。そして弱々しい。


「助かった鹿目さんと違って、女の子を私は知っているということです。今は、それだけ。どうか勘弁してください」


 心中未遂。そうか、殺人未遂と違ってどちらか一方が生き残りさえすれば、それは未遂なのか。言い換えれば、どちらかが死んだだけならそれは「失敗」なのだ。


 ふと……今になって私は素朴な疑問を抱いた。

 鹿目さんが誰かと心中を決行して一人だけ生き残ったのなら、月鳴館ではない施設へと入所するような裁定がなされるのでは? 

 前に野々井さんは、高校一年生の冬に鹿目さんが自主退学したという旨を教えてくれた。その理由はまさに心中未遂にあるとみなすが自然だろう。しかし本来は、刑事罰を受けるようなことがあれば、学校側からの退学処分が下るはずだ。保護観察処分であれば、また別なんだろうか。


「ところで、私からも一ついいですか」


 鹿目さんが月鳴館に今いる事実に不自然を感じている私に、鹿目さんが言ってくる。その調子からすると話題の転換を望んでいるようだった。くだらないことを訊いてきたのなら黙殺だなと思いつつ「なんですか?」と返す。


「八尾さんが、あんな奇行をされたんですか?」

「あんな奇行とは」

「ええと、最初に鹿目さんの部屋で話していた、いかれた少女が云々って……。実はずっと気になっていたんです。即興で思いつくには具体的すぎますから。もしかしたら八尾さん自身が過去にした行動なんじゃないかって」


 辞典で窒息死しかける、野良猫に爪を飲ませる、酔っぱらった状態で横断歩道に寝転がる。たしか話したのはその三つだった。 


 私は首を横に振り「違いますよ」と言った。


「なんだそうだったんですね。それじゃ何かの本から……」

「多香子さんです」

「えっ?」

「野々井さんもご存知の、私の叔母である鷲沢多香子。あの人がまだ少女だった頃に、姉の気を惹くためにやった行動だそうです。昔に私に話してくれました。べつに聞きたくなかったですけれど」


 驚いて声も出ない野々井さんがいよいよ気の毒だと思えた。彼女は善良な人なのだろう。看護師時代にもう少しうまく立ち回っていたら、そして同僚や上司に恵まれていたら、今よりも幸福な日々を送っていたんじゃないか。そんなお節介でどうしようもない想像もしてしまう。


「いちおうフォローしておくとですね、そこには一貫して姉の気を惹くっていう行動原理が働いていたわけですから、狂ってはいなかったと認識してもいいかもしれません。いかれてなんていなかったのだと」


 私の言葉に野々井さんは「ああ、はい」と返すだけだった。

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